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ランカウイ旅行記2016ー出発〜ホテル到着

7年ぶりのランカウイ

結婚したばかりの頃オットと二人で行って以来、約7年ぶりのランカウイ。いやはや7年も経つと結構いろんなことが変わるわけで、例えばこちらは子どもが二人うまれたり双子のおばになったりなんだり環境は大きく変化してるわけですが、行ってみてびっくりランカウイはほとんど何も変わっていませんでした。

まあ、年に一度か二度、10年以上行き続けている宮古島も、よく考えれば10年前とそんなに大きくは変わってないもんね。(いやマクドできたけど。これは大きな変化やけど。)

東京の変化が早いだけなのかもしれない、もしかしたら。

今回はシンガポール航空でランカウイへ。無計画な我が家にしては早い2ヶ月ほど前にエアをおさえました。えらい。(いやほんといつも直前に思いつきばっかりで。。。)

シンガポール航空はエコノミーの私たちにも優しい

シンガポール航空はまたサービスがさらにグレードアップしていて、行きも帰りも座席はものすごくきれいでした。ハブラシ&くつした(地味に嬉しい)ももらえるし。エコノミーなのに。あと映画みるやつがめっちゃ多機能。相変わらず私は映画見ずにずっと本読んでたけど。。でも、子供達にはちゃんと子ども用の小さなヘッドフォンを貸してくれました。エコノミーなのに。あと、こどもたちにくれるおもちゃが「アーロと少年」とディズニープリンセスのお絵描き帳&色鉛筆セットで、子供達のテンションがめっちゃあがっておりました。さすがシンガポール航空。なんせエコノミーのわたしたちにも優しい。

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前回の海外が、一人で子ども二人(当時4歳・1歳)を連れてのニューヨークまでのフライトというとんでもない旅だったので、それと比べるともう信じられないくらいもう2歳児が神様かと思うくらいに楽なフライトでした。いやほんとめっちゃ楽。のりつぎのシンガポールまでの7時間半、結構あっという間でありました。

下の娘がもうすぐ3歳なのですが、やっぱり3歳になると移動が格段に楽になる気がする。ほっといても一人でヘッドホンつけて映画とかアニメ(最近やたらお気に入りのプリンセスソフィア)をみてくれるので、こっちはほんとほとんど本を読んで過ごしておりました。しかも夜便だったので、気づけば勝手にねていた。すごいぞ3歳いけいけ3歳。たぶん狙い目です、下が3歳。

チャンギ空港でシャワー!がおすすめ

シンガポール航空というわけでシンガポールのチャンギ空港で乗り継ぎ。ちなみにチャンギ空港の免税店をいくつか見ましたが、成田とか銀座三越の上(に、免税店ができたのですよ!日本在住でも、海外へ行く航空券とパスポートがあればお買い物できます。ゆっくり見られるのでめっちゃ楽しいです。)の方がお買い得だった気がします。前はシンガポールの方が安かったのになー。まだまだ円安です。

と、いうわけでそんなにお買い物するものもないので、ふらふらZARA(が、あった!)のぞいたり、トランジットホテルでシャワーあびたりして時間をつぶしました。ハブ空港というわけで、大変充実しているチャンギ空港。トランジットの時間も退屈せずに過ごせます。ちなみにトランジットホテルのシャワー、めっちゃおすすめです。仕事後そのまま向かったので、ここですっきりできたのはかなりありがたかった。

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シンガポールからは約1時間半でランカウイに到着です。

空港を降りた瞬間の空気が好き

ランカウイ空港の外に降り立った瞬間、アジアのもわっとした気温に包まれる。(何と言ってもランカウイは飛行機から直接外に降りて歩いて空港の建物へ向かいます。こういうところがまた良い。)ランカウイはちょうど乾季で(たぶん。何も考えてなかったけど、たぶん。)すごく過ごしやすい気候だったのだけれど、それでもこの東京との気温差を感じられる暑さがすごく好き。

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タクシーでホテルへ向かう途中、ぼーっと現地の景色を眺めていると、あー東南アジアへ来たなーと、旅情を感じられる。プレハブのような家の軒先でお母さんが子どもを抱っこしながら洗濯物を干していて、なんかその景色がとても印象的でした。アジアの日常的な光景がなんかすごく好き。原風景みたいなものなのかなあ。

でもなぜか、走っている車がびっくりするくらいにきれいでした。前にきたときはこんなことなくていわゆるアジアの島のおんぼろ中古車ばっかりやった気がするんやけど。トヨタとか日産の新車がびゅんびゅん走ってました。牧歌的な風景にぴかぴかした車がやけに目立って見えた。なんかものすごく経済が潤うようなことでもあったのだろうか。それでもまあやっぱりランカウイの人たちはぜんぜんがつがつしてなくてのんびりしててまあ車がきれいでもそうじゃなくてもどっちでもいいような感じではあったけど。でも田舎道の牛の横をびゅんびゅん新車が走っている理由はとても気になりました。何があったランカウイ。

それ以外は特に変わったところもなくて、のーんびりまーーーーーったりの相変わらずの島です。なんか、例えば西表島とかのように、圧倒されるほど自然の力が強いとかそういうことがなくて、島の自然自体もすごく優しい感じがする。だから人々もすごく穏やかに思える。島っていうのは古くからいろんな災害もあったやろうし、神様にお祈りすることもたくさんあっただろうと思うんやけど、ランカウイは(イスラム教の島だけれど)宗教色もバリとかよりも薄い気がなんとなくする。とにかくのんびりまったりしているのです、ランカウイというところは。

てきとーでなくおだやかなランカウイの人たち(すばらしい)

で、わたしはこういうのんびりしたところがやっぱりすごく好きなんだなあと思う。のんびりした空気、のんびりした人。ランカウイののんびりっていうのは、島にありがちな「てきとー」なのんびりではなくて、「おだやか」なのんびり、という感じがする。なんといってもホテルにメールで問い合わせたらすぐに返信かえってきてびびったからね。たぶん宮古島ですらこんなすぐにはメール返ってこないんじゃないかと思う。いやうんほんと。てきとーでなくておだやかなだな、ランカウイの人たち。すばらしいことだそれって。ちなみにわたしはおだやかではなくてきとーですけど。

ホテルはランカウイの端っこにあるタンジュンルーリゾートへ。

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今回はじめて、オールインクルーシブというものを体験したのですがもう最高でした。アルコールは除外なのですが、3つのレストランの食事とプールサイドでの食事や飲み物が飲み放題食べ放題。今回はほんとうにほとんどの時間をホテルで過ごしたので、このシステムはとってもありがたかったです。泳いでちょっと疲れたらプールサイドで南国のフルーツジュース飲んでまったりして。夜はリーディングルームでカプチーノ飲みながら本読んで。まあおかげさまで2kgくらい肥えて帰ってきましたけど。

3月24日、母の命日に。

新しいいのち。

先日、母の命日だったのでお花を買って帰りました。

私はカサブランカとか、カラーとか、白×緑のお花が大好きなのだけれど、この日はなんとなく母のイメージに合わせてピンクと白のお花を。

あれから9年。もう泣くこともそんなになくなってきたけれど、やっぱり今日はちょっとさみしいなー、人は孤独な生き物だなーぐすん、とか思いながら一人で歩いていた帰り道。

ふと携帯を見たら、大好きな友人の赤ちゃんが生まれたというお知らせが入っていました。

哀しい思い出がたくさんあった母の命日に、新しい命がまた生まれてきてくれた。もちろん偶然でしかないんやけど、それはとてもとても嬉しいことで、銀座のど真ん中でぽろぽろ泣いてしまった。

哀しみっていうのは多分、消えるということはないものなのだろうなと思う。あの頃私は世の中で一番かわいそうだみたいな顔をしていて(それは今思うとものすごく恥ずかしいことなのだけれど。)そしてもちろん実際哀しかったけれど、それでも世の中にはもっともっと、私にはちょっと想像もつかないくらいの哀しみや痛みであふれている。

例えば、今ならわかるけれど、「母」を亡くした私よりも、「娘」を亡くした祖父や祖母の気持ちは、私よりももっともっとやりきれないものだったにちがいない。自分が母親になった今は、それが少しわかる。子供が自分より先にいなくなるということは、きっと何よりも辛いことだと思うから。

哀しみが消えることはないけれど、うれしいことは積み重なっていく

世界中にはたくさんの痛みがあって、哀しみがあって、それはきっと消えることは一生ないのだろうと思います。

それでも。哀しみは、決して消えることはないけれど、その分、その隣で、うれしいことや幸せなことは、積み重なってゆく。それは確実なこと。哀しみのど真ん中にいるときは、そんなことに気づきもしないけれど、1年後、2年後、10年後、少しずつ、少しずつ、うれしいことや、幸せな思い出が、増えてゆく。小さな大切な命がまた、今日も生まれている。

家に帰ったら、子供たちが、お空のばあばに向かってたくさん話しかけてくれました。

「ばあばー、おはなきれいだねー!」「ばあばーみて、このおよーふくかわいいでしょー!」「ばあばー、サッカーしよー!ボールけるよー!」などなどまあ騒がしいこと。

本当は、ばあばにこの姿をみて欲しかったと思うけれど。それが本心だけれど。そしてそれが、私がこの先ずっと抱えてゆく痛みなのだろうと思うけれど。でも、同時に、こんな風にこどもたちが無邪気ににぎやかに、お空のばあばに向かって話しかけてくれるかわいい姿をみられるというのは、とてもとても幸せなことだなと思った。あの日の私にはこんなこと想像もつかなかったけれど、今、この子たちがいてくれて、本当によかったと思う。

今も世界中には、戦争で、テロで、震災で、(並べるものではないけれど。)大切な人を亡くした人がたくさんいらっしゃいます。大切な故郷に戻れなくなった人がたくさんいらっしゃいます。

降りかかる哀しみが消えることは決してないと思う。戻ったように見える日常にも、ぽっかりあいた穴をふと感じて立ち止まって泣いてしまう日はいつまでたっても訪れるのだろうと思う。

理不尽さと、どう折り合いをつければいいのかわからずに、自分を責めてしまう日があると思う。

でもどうか、亡くなった大切な人が愛してくれた自分を責めないで、そういう自分を存分に大切にして、日々を歩んでいってほしいなと勝手ながら思います。

そうしていれば、痛みのとなりで、喜びや幸せは、積み重なってゆくから。そしてそれは、すばらしいことだと思うから。さよならをした大切な人も、それを知ってきっとどこかで笑ってくれていると思うから。

3月24日。とても幸せな、大切な日に。

ランカウイにて思うこと。

朝5時に起きて一人で遊んでいたものの二度寝した息子と、入れ違いで6時に目が覚めて、一人でバルコニーでビール飲みながら書いた文章です。

(ただしお部屋はWiFiがつながらないので投稿は時間差。)

二回目のランカウイ。過去の自分のブログをみて、そのときチャーターしたタクシーの運転手さんに、「子供はとってもかわいいよ。僕も5歳と2歳の子供がいるんだけど、ミスター&ミセスも、子供ができたらまたランカウイに一緒においでよ!」と、言ってくれていたことを思い出した。あれから7年弱。ほんとに5歳と2歳の我が子と一緒にくることになろうとは。人生は悪くない。

アジアの島の空気がやっぱり好き

アジアの島が学生の頃からとにかく好きで、学生の頃から半ばバックパックのような形でいろんな島にいったけれど、ランカウイが一番親切ですごしやすい島のような気がします。
バリをもーーーーーっと田舎にした感じ。タイのサムイ島やパンガン島のように、バックパッカーであふれかえってビーチにはトップレスのおねーちゃんがいっぱいいる、ということもない。(あの島はあの島であまりに怠惰で大好きやったけれど、今はまた変わっているのかな。)

アジアにありがちな「ぼったくり精神」がほんとに皆無で、タクシーだって定額で連れて行ってくれる。誰もかれもが親切で、例えばカンボジアのプノンペンで出会う人出会う人全員に騙されたようなことはまず起こらない。(すごいのだプノンペンという場所は。もう10年前のことやから今は違っているのかな。)

なんとなくなのだけれど、世は空前のハワイブームのような気がしていて、いやそんなものはバブルの頃からだと言われればそれまでなのだけれど、10年前と比べてなんとなく海外旅行=ハワイ、のような形が強くなってきているような気がなんとなーくしている。
南国好きかつお洋服ならびにお買い物好きといたしましては、もちろんハワイは夢の国で、なんでもあるのに実は田舎なハワイ、というのが私も当然のごとく大好きです。

ただ私は、土地そのものとしてはハワイよりもアジアの島々の方が、個人的には好きなのだなあと思う。それは学生の頃からやっぱり変わらない。なんだかんだ繰り返しよく行くのはハワイなので、思い出もたくさん積もっていくし、行くたびに子どもの成長を感じられるし、(お買い物も楽しいし、)トータルで見てハワイという島々に思い入れはもちろんあるのだけれど、やっぱりアジアの島々の空気感が肌に合うな、と、来るたびに思う。私はアジア人なんだなーと、思ったりする。

ランカウイは特に、ほんとうに何もなくて、なんせこの決算期の忙しい時期に二人して休みをとる夫婦なんて日本でうちくらいなんじゃないかと思えるレベルで日本人にも会わない。

でも「なにもない」というのは、普段東京で情報の波にのまれながらせわしなく過ごしている私にとっては、究極のぜいたくなのだなと思う。

なにもないからホテルのプールでだらだらするしかない。プールサイドで海見てビール飲みながら本読むしかない。(そこではネットもつながらない仕事のメールも読めない。)あれしなきゃ、これしなきゃ、ここもいっとかなきゃ、と、思わずに過ごせる時間、というのは、私みたいな人間にとってはものすごく大切だ。

一人旅、と、家族旅、実は大きく変わらない

一人旅をしていた頃(涙なしには語れない貧乏旅行の数々・・・)、オットと結婚して、二人でよく旅行をするようになった頃、そして子どもたちを連れて家族旅行をするようになった今。

一緒に旅する人は変わってきたけれど、それでもやっぱり、私が旅すること、旅が好きなことの、本質的な理由や意味は、結局なんにも変わらないのだなと実感する。子どもたちと一緒に行って楽しいところは、私が一人で行って楽しかったところやオットと二人で行って楽しかったところと、ほとんどそんなに変わらないから。

たぶん子どもを生む前の私には想像もつかなかったと思うけれど、子どもたちもまた、そうした場所にきて、とても楽しそうに笑って過ごしてくれる。(いやもちろん調子に乗って私に叱られまくってはいますけどねええ。)

子どもを生む、という経験はたしかにものすごくドラマチックで出産そのものにしてもまあ大仕事でインパクトのあるものだったけれども、それでもなんというか、人生のうちのほんの一部分というか、流れの中で自然に起こった一つのできごとにすぎないのだな、とも、思ったりします。

大切なものが、大切な人の人生が、自分の人生にそっと加わったような。それを最大限大切にしつつ、でもそれを気負いすぎず、それで起こった変化をまるごとそっと受け止めて、まいっかと思いながら過ごしてゆく。子育てってもしかしたらそんなものなのかなーと、思ったりする。

子どもがいる人生、いない人生、それぞれの幸せの形

すごくセンシティブなことなのでうまく言えているか自信はないのだけれど。つまり、例えば子どもを持たない人生というのも、それはそれですごく自然な一つの選択なのだろう、と私は思う。

あれは中学生の頃やったと思うんやけど、母の友達がご夫婦でされている喫茶店に家族で訪れて、そのとき母に、子どもを生まなくても、幸せな人生ってあるんだよ。まいちゃんがこの先そういう人生を選んだとしても、それはそれでいいんだよ。と、いう話をされたことがあります。

母はまあとにかく人からいろんな相談を受ける人だったので、そういった悩みもたくさん聞いていたんやろうなあと、今はなんとなく思う。

でもその頃はもちろんそんなのよくわからなくて。なんとなく、そうなのかー私も子どもを生まないかもしれないなーと思っていた。そしてそれは、大人になっても自分の根っこにずっとあった。

夫婦二人でも(もしかしたら一人でも)幸せに過ごす人生もある、というのは、それから自分の中で一つの覚書みたいにしてずっと残っていた。

それでもいろんな偶然が重なって、私はオットと子ども二人と過ごす人生を生きているけど、でもそれはやっぱり偶然で奇跡のようなもので、自分の人生に、大切な人の人生がそっと並走し始めた、という感じがする。それはもちろん幸せなことだし、大切に大切にしていきたいけれど、それは私にとっての幸せの形であって、誰かにとっての幸せの形の答えでは決してないと思う。

自分で選んだものを大切にすること、誰かの選んだものを否定しないこと

幸せなんて結局、だれかが決められることじゃないもんね。そんなの当たり前やけど。なんでもある(ように見える)日本の暮らしが、東京の暮らしが、ランカウイや、例えば宮古島の暮らしよりも幸せだなんて、それはだれかに決められることじゃない。

なんでも「自分自身で選ぶ」ということを私はすごく大切に思っているけれど、同時に、「誰かの選んだもの」を否定する権利は決してないと思っています。自分の選んだものだけが正しいと思うことは、実はすごくこわいことだったりすると思うから。もしかしてあのとき母が言いたかったことは、そういうことなのかもしれないと、思ったりもする。

そんなことを朝の6時からバルコニーでだらだらビール飲みながら思いました。
いやほんと私のこの旅の過ごし方一人旅の頃とかわりませんねええ。

背負うものがあっても、それがなくても、背負うものが背中から降りて一人で歩き始めても、肩の力を抜いて、そのときあるものを受け入れてまっすぐ生きていたいものです。それには、なーんにもしない旅を少しずつ加えてゆくことが必要だなうん。

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