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築地ランチのおすすめ10選

個人的な雑感ばかり書いておらず、たまには役に立つ(立つのだろうか)グルメ(なのだろうか)情報でも書いてみようと思います。

築地の会社で働き始めて気づけば10年目になりました。

さて私は銀座のOLなのだろうかそれとも新橋のサラリーマンなのだろうか。と、疑問に思ったりもしましたが、いやまあ築地のしがないサラリーマンです、実際のところ。

けど確かに立地的にランチの守備範囲は広くて。銀座〜新橋〜汐留〜そして築地市場(場外・場内)あたりどこでも行きます。そして今のチームメンバーがほんとランチに命かけてる人たちばかりなので、結構いろんなところのものを食べ歩いたような気がする、気づけば。

というわけでせっかくなのでちょう独断と偏見のおすすめランチをひとつまとめてみようかと思います。ただし。おしゃれ度はゼロです。まじで。

・磯野家 http://tabelog.com/tokyo/A1313/A131301/13014821/

言わずと知れた築地場内の名店。だいたいいつも生姜焼き定食を頼んでしましますが(ものっすごいボリューム。付け合わせにクリームコロッケ。もはや付け合わせじゃない。)おすすめはにらそば。それに牡蠣飯小。あんかけになったにらがやたら美味しくて、他では食べられない味です。市場が移転するに伴い、磯野家も移転するそうです。(こないだおっちゃんに聞いた。)泣きたい。お近くのみなさまぜひ今のうちに。ただしおしゃれ度はゼロです。

・鳥藤 http://tabelog.com/tokyo/A1313/A131301/13117868/

築地場内と場外の2店舗。親子丼が有名なお店で言うまでもなくおいしいですが、隠れた名品は海南鶏飯。チェーン店で食べるそれとはちょっとびっくりするくらいに違います。もうほかでは食べられない。場内はカウンターのみの小さいお店、場外はテーブル席は2席ほどありますが、お昼時は混むので少人数で時間を外すのが吉。ただしおしゃれ度はゼロです。

・東印度カレー商会 http://tabelog.com/tokyo/A1313/A131301/13184159/

この界隈で一番おいしいカレー屋さんだと思います。ある日突然閉店して途方にくれていたら、いつのまにか近所でまた開店していました。以前のお店より席数が増えて入りやすくなったのも◎。かなり量が多いので、初めての女性には、ご飯を少なめにするか聞いてくれます。(私は全部食べるのでもはやなにも聞かれずどーんと盛られますが。)あとここの素晴らしいところはなんと。ルーがお代わり自由です。奇跡。ただしおしゃれ度はゼロです。

・多け乃 http://tabelog.com/tokyo/A1313/A131301/13007634/

夜は素晴らしい居酒屋ですが。ランチもおいしい。お魚がおいしいですが、おすすめはてんぷら定食。古き良きてんぷらといった感じですが、なんかおいしい。とってもおいしいおうちのてんぷら、といった趣です。わたしはものすごく好き。あと、先輩が教えてくれた、カワハギのお刺身を肝醤油で食べる、ってやつがですねもう絶品です。大人って最高。と、思います。あー日本酒飲みたい。ただしおしゃれ度はゼロです。

・本種 http://tabelog.com/tokyo/A1313/A131301/13025023/

すっかり観光地化した築地場内&場外の海鮮丼の価格は、ちょっと信じられないくらい高騰しております。まあ自分のことを考えてみても、ちょっと遠出しておいしいものを食べよう、という時はお財布のひもも緩むもの。そんな中、ひっそり佇むこの(地味な)お店が出す海鮮丼は900円。

ところが私は間違いなくここの海鮮丼が築地で一番おいしいと思います。(地味な)外観からは想像つかないくらい見た目も美しい。こういうお店が築地の底力だと思う。ちょっと教えるのが惜しくなるお店。笑。ただしおしゃれ度はゼロです。

・フォーシーズン http://tabelog.com/tokyo/A1313/A131301/13053624/

あ、今おされなみなさまはフォーシーズンズだと思いましたね!高級ホテルだと思いましたね!いえこちらは高級フォーシーズンズにも負けないおいしいスパゲッティー(パスタではなくスパゲッティー)を出す名喫茶店です。ご夫婦二人でやっていらっしゃる小さい喫茶店ですが、なぜか(失礼)スパゲッティがどれもこれもやたらとおいしい。

普段そんなに好きではないスープスパゲッティもここのはおいしい。場所柄か、海鮮系の素材がとてもおいしいです。そしてあさりとかこれでもかってほど贅沢に入ってます。これまたほかでは食べられない味。最近メディアに出ることが多くてやたらと混んでるのが玉に瑕。そこそこ量がありますが、完食するとおばちゃんがほめてくれます。ただしおしゃれ度はゼロです。

・つきじ芳野吉弥 http://tabelog.com/tokyo/A1313/A131301/13156873/

おいしい穴子を食べたい日はここ。「ばかしあい」という、煮穴子と焼穴子が両方楽しめるお重がイチオシのようですが、わたしはいつも煮穴子のみの「あなごのばかし」で十分満足しております。砂時計を一人ずつ持ってきてくれて、砂が落ちるまで蒸らして待つ時間がかなりオツです。ちょっとゆっくり食べたいとかちょっと誰か連れて行きたいとか、そういう日にもよい。あー食べたい。ただしおしゃれ度は。。まあここは少しあります。ちゃんとしたお店。(いやほかもちゃんとはしてます。)

・ととや http://tabelog.com/tokyo/A1313/A131301/13002330/

安定のととや。焼き鳥丼のお店です。おすすめはサービス丼。焼き鳥とつくねが乗っています。もうここの鶏はねほんと絶品。定期的に食べないと調子が出なくなります。シンプルなんやけど、シンプルだからこそおうちでは作れない味なので、主婦的外食にもうれしい、こういうお店。ただしおしゃれ度はゼロです。

・トミーナ http://tabelog.com/tokyo/A1313/A131301/13004983/

築地場内唯一のイタリアン。カウンターのみのお店ですが、ここのワタリガニのパスタがもう絶品。正直どんなおされ(っぽい)イタリアンのパスタよりも本格派でおいしいと思う。これまたおうちでは作れない味。ここも市場移転に伴い移転されるそうです。それまでに通わねば。。。こういうお店があるから築地市場は楽しいのです。ただしおしゃれ度はゼロです。

・喫茶マコ http://tabelog.com/tokyo/A1313/A131301/13045429/

いろいろ築地のおいしいものを食べたあとはぜひ喫茶マコへ。築地で一番古い喫茶店です。お店のおばあちゃんがほんとうーーーーーにかわいいです。名物はスタミナジュースですが、わたしはいつもコーヒーかソーダ水を頼みます。おばあちゃんとの会話が楽しいです。こないだなんとhanakoにでーんと見開きで大きく載ってました。決してhanako的お店ではないですが(失礼)わたしにとってはオアシスです。ただしおしゃれ度はゼロです。

以上、独断と偏見で選んだ築地ランチ10選。独断と偏見ではありますが、どこもほんとうに素晴らしいお店です。おしゃれ度はゼロとばかり言いましたが、ほんとうにおいしいものはそれでよい。きちんとしっかりおいしい、築地のまじめさが現れたお店ばかりです。築地へ行かれる際はぜひ行ってみてくださいませ。

哀しみの中で笑うということ

今朝の新聞で読んだ記事。「おやじのせなか」は大好きな連載なのですが、今日のIMARUさんのインタビューがこれまたよくて、朝から色々考えました。

(おやじのせなか)IMALUさん 悩みの相談に「笑え、笑え」

朝日新聞デジタル http://www.asahi.com/articles/DA3S12122305.html
※「無料会員登録すると1日3本まで記事が読めます→  http://t.asahi.com/7myt

「笑う門には福来る」

「笑う門には福来る」というのは本当によく言ったもんだ、と思う。

先日、昔の上司で今は某テレビ局でご活躍の大大先輩とばったり会社近くでお会いして、立ち話をしていたら、「そうやって笑っているうちは大丈夫ですよ。」なんてことを、言っていただいた。

仕事的には色々あった一年、いやこの二年くらいで、ときに「笑っている場合じゃない。」みたいなことをよく言われる毎日だったりします。

ガハガハ笑っていると、楽しそうでいいねみたいなイヤミを言われることもあります。すみません毎日笑いすぎておりまして。てへ。

そりゃもちろん、「大変なとき」というのは、ときに笑い声が煩わしく思えることだってあるとは思う。けど、IMARUさんのインタビューにあったこのエピソードと言葉に、私はやっぱり深く共感するのです。

悩みの相談なんて照れくさかったのですが、19歳のころに1度だけ、人間関係で悩んで父に打ち明けたことがあります。

泣きながら電話したら、爆笑されました。「何で泣いてんねん、笑え、笑え」って。勇気を出して相談したのに、「は?」ってなって。もう絶対、この人には相 談しないって思ったんですが、後で考えると父らしい、良いアドバイスだったな。どれだけたくさん笑えるかで人生の楽しみ方が全然違う。一番大切なのは笑う ことだと、父を見ていて自然と感じるようになりました。

さすがさんまさんだなーかっこいい。そしてIMARUさんの気づきもいいな、と思う。

笑う、ということには、行為そのものにも浄化作用がきっとあるし、もっと根本的な、生きるということそのものにおいて、大切なことだと思うのです。

母のお葬式で「しっかりしたお姉ちゃん」を演じていた

それでふと、思い出したことがあった。

もう10年近く前になる(早いなー。)、母のお葬式でのこと。

たくさんの人が足を運んでくださって、会ったこともない人たちが、みんな泣きながら母との別れを悲しんでくれていた。

でも、三姉妹の長女でまだ23歳だった私は、そのときどうしてもうまく泣けなくて、「しっかりしたお姉ちゃん」を演じることでなんとか、その場というか、理不尽な哀しみみたいなものを、乗り越えようとしてた、ような気がする。

それはたぶん妹たちも同じで、妹たちも泣くことなくて、弔問に来てくださった方一人一人に、しっかり頭を下げて、挨拶してた。

目を見て、少し微笑んで、ありがとうございます、って挨拶をしていた。

姉ながらあの日のあの子たちは本当に立派やったと思う。

今思えば、本当の「しっかりしたお姉ちゃん」というのは、あの日の妹たちにしっかり泣かせてあげられるお姉ちゃんのことなんやけど、今ならそれがわかるんやけど、実際のところまったくしっかりなんてしていないお姉ちゃんは、結局いつものごとくしっかりした妹たちに支えられていた部分がおっきかったんやと思う。

そしてそうすることで私たちは、なんとかその場に立っていられた。

でも、そういう私たちを見て、「なんでこんな日に笑ってられるんや」と、言った人がいた。「お母さん亡くして、哀しくないんか。」と。泣きながら、そう言った人がいた。

その時は、考える余裕もなかったけど、今になって思う。

私も、妹たちだって、哀しかった。大好きだった母を亡くして、あらゆる理不尽さと哀しみにぺしゃんこになりそうやった。

でも今振り返ってみてもやっぱり、私にはあのとき、そうやって、弔問に来てくれた人たちに笑ってありがとうございますって言うことしかできひんかったと思う。

だって私たちはほんとは、あのとき来てくれた人たちの誰よりも哀しかったから。

同じように泣くことなんか、できひんと思ったから。

ほんとうに哀しい時、人は涙も出ないことがある

ほんとうにほんとうに哀しいとき、人は涙も出ーへんことがある。

そしてその場に立つためになんとか、笑うということがある。

そうでないと、壊れてしまうような瞬間がある。

あの日私はもちろん間違いなく無理をしてたけど、強がっていたけど、でもあの日笑っていたことは、今の私にとって、母の死を少しずつ受け入れて変わってこられた自分にとって、小さな宝物のようになっている気がする。

その頃のことをよく知っているオットは、最近になって母の思い出話をするたびいとも簡単にぼろぼろ泣く私をみながら、「泣けるようになってよかったね。強くなったねえ。」と、言う。

もしかすると、ほんとうに哀しいとき、人は泣くことができなくて、その哀しみを乗り越えようとするとき、人は泣けるようになっていくのかもしれない。

そして泣くことができないときも、人は笑うことでなんとか、泣くきっかけを探すのかもしれない。泣くまでの道を、作ってあげるのかもしれない。

泣くことと笑うことは、ときどき順番が入れ替わる。

哀しみを受け入れるということは、理不尽な哀しみに向き合うということは、その哀しみに伴う痛みを知るということ。それはもしかしたら隣にいる人が抱えているかもしれない痛みを、少し、分け合えるようになるかもしれないということ。

哀しみを受け入れる中で、笑うということが、なにか小さな、もしかしたら大きな、力になるかもしれない。

だから、今大きな哀しみを抱えている人たちが、明日は少し笑えますように。少しずつでいいから、笑う時間が増えていきますように。そしてきちんと、泣ける日が来ますように。そう願います。

そうすればきっと、哀しみは必ず、痛みを知る優しさに変わっていくから。

2/10のネガティブをスルーすること

村上春樹いわく、バーをやってるときに、10人に2人、そのお店を気にいる人がいてくれたら、そのお店はやっていける、それは小説家も同じ、と、いうことなのですが(たしか)(ちがったかも)。

10人に2人受け入れられないか、10人に2人好かれるか。

私が思うに、人というのは、例えば10人いたら2人には受け入れられない人とか、10人いたら2人には受け入れてもらえる人、というのがいると思うのです。(10人いたら10人が好き、というのは本質的にはたぶんありえない。)

で、それはどちらも素晴らしいことで、

村上春樹が言うように、10人中8人が、あの人はちょっと。。。

と、言っても、2人、でもあの人俺は好きだよ、みたいに言う人がいると、その人は世の中で社会で生きていけるのだと思う。

そしてどれだけ好かれる人でも、10人中2人くらいにはあの人はちょっと。。と、思われたとしても、それはそれで普通のことで、堂々と生きてゆけばいいとおもう。
まあ怖いのは、10人中、誰一人として受け入れられない人だよね、と、いうことをオットと話していて思った。

そういう人が唯一生き抜けるとすれば、その人が数百年に一度の天才であることしかないのではないかと。つまり、モーツァルトとか、ピカソとか、もしくはジョブズとか。それくらいのレベルでないと、0の人が生きてくのは厳しい。

人は基本的にいろんな人とつながって生きてくわけやから。

だから、子育てにおいては、子供たちを0の人にしないようには最低限育てなきゃね、と、いう話をしました。

いやもちろんピカソとかジョブズレベルの天才である可能性だってあるわけやけど、でも子育ての段階で、それを前提にしちゃいかんよね、と。

2/10か、8/10か。そこはほんとうにこだわらなくて、少し変わっていて2/10でもいい。

でも、2人の人には、愛される人にそだってほしいし、そして、2人の棘にはひるまない人に育ってほしいな、と、思うのです。

ネガティブなもの、に振り回されないこと

翻って自分のことを考えてみると、典型的な長女気質の私は、常に10人に好かれなきゃいけない、と思って生きてきた気がします。30年くらい。長い。

だから、2/10の棘にすべて反応しては、なにがいけなかったんだろう、自分のどこがダメなんだろう、ということをいつも考えていた気がします。

悪い理由を、いつも自分に求めていた。

でも、だいたいどこの世界にでも、2人くらいはどうでもいいことを言う人たちがいる、ということが大人になった私がようやく知ってそして受け入れたことです。

人はネガティブなものについつい反応してしまいやすい生き物だとおもう。

毎日みたいにSNSの情報が入ってきたら、いいものも悪いものも「気」のように巡ってきて、知らず知らずのうちに振り回されてしまうということがたくさんあるとおもう。

しかしですね、子供が生まれて、それでも欲張り母さんは相変わらず仕事もやりたくて、そして靴とかバッグとかファーベストとか黒いストレートパンツとか(また)欲しいものばかりがある毎日を送っていると、とにかく優先順位をつけてあれこれこなしていくしかなくなっていきます。

人生は短い。やりたいことは山のよう。靴はほしい。子どもはあほほどかわいい。なぜ急に絵本の読み聞かせを始めるのだこの2歳女子は。その本はパンやのくまさんの話で決してばいきんまんは現れないがなぜ今現れた。そしてなぜ最後は「あたしはかわいいです(ハート)」で締めくくられるのだ。

みたいなことを考えていると、1日なんてあっという間に終わる。

そういう日々を送っていると、ネガティブなもの、人、空気に、関わる時間というのはやっぱり、ものすごく優先順位の 低いものになります。

そもそもネガティブなものっていうのは、捉えられるとあっという間に時間を奪われる。

ちょっと話は違うけど、タレントさんとか有名人の悪口を書いた記事をつい読んでしまって、そのうちどんどんリンクをさかのぼって気づ けばものすごい時間がたっていた、という経験ありませんか。そしてその読後感の悪さときたら。

そこから生まれるものは、正直言って何もないと思う。そしてどれだけ好感度の高い人でも、2/10くらいはネガティブに捉える人がいるもので、しかもそのパワーはいつもどうもでかいから、大きな声に聞こえがちやけど、まあ「否定」することというのはいとも簡単にできてしまうものやから、実はたいした意見ではないものがほとんどやと思います。(もちろん中にはとても建設的で愛のある批判もあるけれど。)

はっきり言って、人生にそんなことを気にしているひまはないのです。目の前でパンやのくまさんは急に「1、2、3、ばいばいきーん」と「ちっちゃい声で」言いだしたのだから。2歳児の手によって。

今は「子ども」という、否応なしに優先順位の高い対象が目の前にあるから、2/10のネガティブなものをスルーする力もある程度ついてきたけれど、この子育て時期が少し落ち着いて、またいろんな選択の自由が目の前にせまってきたときも、このことは忘れずいたいなと思います。

そして何にしても、そういう姿をみて、子どもたちには大切なことを知ってほしいと思うのです。

パンやのくまさんには、決してばいきんまんは出てこないという大切な事実を。

むすめ3歳のお誕生日に。

むすめの誕生日・・・に、病児保育

先日、うちのかわいくてお笑い系(でも本人はプリンセスに憧れている)の娘が3歳のお誕生日を迎えました。

迎えたのでありますが。当日、なんとお兄ちゃんと二人揃って発熱。その日はパパも私も仕事を休めず、病児保育のお世話になりました。

いやもうね。お誕生日の当日に何もできずお熱のむすめを病児保育に預けて仕事に行く私って何なんだとちょっと泣きそうになりながら出社して、でも溜まった仕事がありすぎてバタバタと片付けて。

そしたら仕事場で回覧しているVERYが机にドンっと置かれました。相変わらずVERYの重いのなんの。

キラキラ輝く雑誌の世界観と、朝から病児保育のために慣れないお弁当をバタバタと作って雨の中タクシーで病児保育に駆け込んで診察してもらって手続きして自分の洋服なんて全く気をつかう余裕もなくほぼすっぴんで出社する私のこの差。(しかも我が子は誕生日。)

隣の後輩に、「見てこれはファンタジーだおとぎの国のお話だ。。。」と言うと、よくできた後輩が「ほら、先輩の好きな小島慶子さんのコラムここですから。はい、読んで。今月もいいこと言ってますから。」とわざわざ開いてくれる。なんてよくできた後輩。

なんというかダメな先輩でありダメな後輩である私には、常に素晴らしい先輩と素晴らしい後輩がついてくれるものですねいつもありがとうございます。。

桜の花びらが舞う帰り道

で、私の一番好きなページ小島慶子さんのコラムにまた励まされながらなんとかその日の仕事を終えて、ダッシュでお迎えに向かう途中。

空からひらりひらりと桜の花びらが舞ってきました。

いつの間にやら葉桜になっていた桜の木。今年はゆっくりお花見をする間もなくバタバタと過ぎていった。でもやっぱりこれくらいの桜がいちばん好きだ。田舎の、桜並木が続く川沿いの家に生まれ育ったので、いつも桜は近くにあったのだけれど、やっぱり幼い頃からひらりひらりと桜の花びらが散る時期がいつも好きだった。儚い美しさはなんだか人の心を打つ。

あーーー今年も、そして今日も、桜がきれいだ、むすめ氏おめでとう、ぐすん。とか思いながら、帰路を急ぐ。

で、お迎えに行ったらですね。もうかわいいかわいい我が子たちが満面の笑みで走ってきてくれる。(お熱ちょう高いのに元気だなおい。。。)

二人とも初めての病児保育室だったので、不安だったかなと思いながら、どうだった?と、聞くと、「おやつの時間にみんなでむすめちゃんのおいわいしたんだよー!ハッピーバースデーしたら、むすめちゃんがうれしそうに、ありがとうって言ってたよー!」と、息子が教えてくれました。

むすめもうれしそうに、ちょっと照れながら、おたんじょうびしたのー♡と言ってくれました。

二人とも、一緒に過ごせたことがなんだか嬉しかった様子。

病児保育の看護師さんたちも、今日はお誕生日だったんですね、おめでとうございます!お弁当に入っていたハッピーバースデーのピック、とっても喜んでましたよ!と、にこにこ言ってくださいました。

本当に気にしているのは、自分に下す評価

はーなんかもう。子育ても仕事も、一人じゃ絶対できひんな、こうしていろんな人たちに助けてもらって見守ってもらって、子供達もそして私自身も、少しずつ成長してゆくのだな、と改めて思いました。すごくうれしかった。子育てを支えてくれる周りの人たちや、家族や、そして子供達のたくましさを知ることができて、こんな日もいいな、と思えた。

大好きなドラマSATCで、好きな回の一つが、キャリーが本を出したときやったかな、本の批評が新聞に載るんやけど、それがなかなか辛辣な批判で、キャリーは傷つく、というストーリーがある。しかもそのあと、元カレエイダンがキャリーのあとに付き合った女の子が、キャリーのことを悪く言いふらしている、という噂を聞く。で、キャリーは、その悪口を言いふらしている女の子に実際に会って、あの内容は事実と違う、というようなことを面と向かって言うのです。(多分。めっちゃうろ覚えやけど。)

けど、その時にキャリーは気づくわけですね。本当に気にしているのは、他人の評価じゃなくて、自分が自分に下す評価だと。だから批判する相手に何を言っても、しっくりこない。結局は自分で認めてあげられるかどうかだ、と、いったようなストーリー。(いやほんと違うかも、ごめんなさい。)

大好きな娘のお誕生日に病児保育に預けて、ごちそうは一切準備できなくて、晩御飯はクッタクタの煮込みうどんで、お熱の子供達と一緒にすらいられなくて、キラキラした要素は皆無のお誕生日だったこと。申し訳なく思う気持ちももちろんいっぱいいっぱいあった。

だけど、ひらりひらりと舞う桜を見たとき、にこにこ笑う子供達と歩いてタクシーを拾いに向かう帰り道。こういうのもありだな、嫌いじゃないな、と、自分で思うことができた。

あれもこれもしてあげたかったのに、あれもこれもできなかったけれど、想定外の一日だったけれど、私は本当にすっぴんでひどいかっこをしているけれど、でも、たくさんの人の愛情に触れて、あたたかさを知って、なんかいい一日だったよな、と。

こういう仕事の仕方や、こんな毎日しか送れないけれど、それをとやかく言う人はもちろんいるかもしれないけれども、でも私はこれしかできないし、私はこれでいいよな、と。大切なのは自分自身がそう思えて、そして目の前の大切な人たちがにこにこしていることだな、と。

他人の目に映る自分ではなくて、自分の心が認めてあげられる自分

キラキラした情報があふれかえっているこの時代。そして、キラキラした情報の反動かのように、心ないバッシングやヘイトスピーチやベビーカー論争やなんのかんのでなんだか少し窮屈な時代。言いたいことも言えないこんな世の中じゃぽいずんな時代。

ついつい自分の価値観を見失いそうになるけれど、大切なのは他人の目に映る自分ではなくて、自分の心が認めてあげられる自分。そして目の前にいる、大切な人が笑っていてくれること。当たり前なんやけど、改めてそんなことを思った、むすめ3歳のお誕生日でありました。

むすめお誕生日おめでとう。私に大切なことをいつもたくさん思い出させてくれて、気づかせてくれて、ありがとう。私を二人のお母さんにしてくれてありがとう。生まれてきてくれて、ありがとう。ママができることはほんの少ししかないけれど、いつまでも、ママはあなたの一番の味方です。おっきくなったらむすめが欲しがっているバッグと靴とピアスとネックレスと指輪とお洋服あげるからねうん。。。(本当に、おっきくなったらこれちょーだい♡と、のたまう3歳児。こわい。)

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