とにかく本が好きらしいということがわかった話

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好きな作家の本を時系列に読む

大学の時の恩師が、好きな作家の本は、時系列に全て読むと良い、その人の考えていることがなんとなくわかってくるから、というようなことを言っていて、「ほう、そんなものなのか。」と、その時はなんとなく思った。ただその先生が好きだった作家というのは松本清張で、私は松本清張の本を読んでもどうも感情移入できず(松本清張に憧れた宮部みゆきの本は、いくつか好きなものもあるのだけれど。特に「蒲生邸事件」は最高です。いずれまた。)やっぱり一人の作家のものを全部読むっていうのは厳ししいな、松本清張はこれ以上私には読めぬ。と、思ったのを覚えている。(ほんとすみません清張。)

でも村上春樹の本を読んでから、それが何だったかももはやさっぱり覚えていないのだけれど、よって最初は時系は全くもってデタラメだったと思うけど、とにかく村上春樹の本はいつの間にか全部読んでいて、そしていつだったか、時系列に全部読み直してみて、「あーこういうことか、先生の言ってたことは。」と、いうことがわかったような、気も、した。

それは村上春樹の考えていることがわかってくる、というわけでは全くないのだけれど、そこから私が得るものというか、感じるものというか、受け取るもの、が、少しずつクリアになってくるような感覚が、あったのです。ものすごく抽象的で分かりづらいのだけれど。それは確実に、私をなんだろう、勇気付けてくれたし、とにかく色々なことが「わかる」ようになるまでに時間がかかる私に、少なからずの軸のようなものを与えてくれたような気がしています。

読んだ物語が自分の軸を形作ってゆく

私はあまり人を「尊敬する」ということがなくて(ほんとすみません)、というか尊敬ってなんだ、よく分からないとか思ってしまう節があって(ほんとすみません)、そして大きな決断ほど人の忠告を無視するという大変困った性質を持つわけですが(ほんとに自分でもめんどくさいと思ってますほんとすみません)、自分なりになんとなくいつも軸というか、大切にしたいもののようなものは抱えていて(それが多分頑固だと言われる所以なのだけれどほんとすみません)、その軸はおそらく、人というよりは本からの影響がものすごく大きいように感じています。そしてその多くは、たぶん村上春樹の本なのだろうなあと、やっぱり思う。こっぱずかしいといえばそうなのだけれど、でもやっぱり、そう思う。

それは例えば、全然野球に興味がなかったくせに、息子が興味を持ち始めて野球を見始めてルールもわからないけれども神宮で飲んだビールがものすごく美味しかったからそうだヤクルトファンになろうと思ったことに村上春樹が影響しているとか、ハワイで急に走りたいなと思いついて走り始めて結局今も定期的に走っていることに村上春樹が影響しているとか、何事もすぐ「やれやれ」と口にしてしまうことに村上春樹が影響しているとか(嘘やけど)、そういう具体的なことではなくて(いやたぶん・・・いやそれもそうなのだけれど・・・)でも村上春樹のたくさんの物語を読んで、そこから受け取った何かを、なんだろう、なんというか自分の旗印にしているようなところが、あるような気がしています。それはあくまでも「何か」やから、具体的にどうといったものではないのだけれど。

それがまず一つ、私が影響を受けたこと。というかほぼこれがものすごく大きな影響そのもの。

もう一つ、読書体験の変化

もう一つ、村上春樹の小説を読むようになってから大きく変わったことは、とにかく古い外国の本を読むようになったこと。いやもちろん翻訳ですが・・・。それは私にとって大きな読書体験の変化です。たぶん『ノルウェイの森』に出てくる永沢さんの影響がでかいんじゃないかと思うんやけど・・・いやだめだあんなヤツに影響を受けては・・・。

でも、これはかなり自分の中で大きかったことだと思う。なんというか、正直に言って、村上春樹の本を読むようになってから、日本の小説に、どこか物足りなさのようなものを感じてしまう時期があった。今はもうそんなことはないのだけれど、一時期それが本当に強くて、あまり本を読めなくなってしまったというか、読む意欲を削がれてしまったというか、なんか斜に構えてしまって、その頃何を読んでたのかなあ、家に残っている、数少ない「何度も読み返したい本」を、ちまちまめくっていたような気がする。あとは古本屋で見つけた三島由紀夫だとか川端康成とか、その頃の本をめくっては「暗すぎる。」と、言っていたような気がする。(でも三島由紀夫は『金閣寺』が、そして川端康成は『古都』が最高傑作です。特に『古都』は何度読み返しても面白い。なかなかあんな本はないと思う。)あと、源氏物語。だめだ、完全におかしくなっている。

でもそのあと、外国の小説、特にサリンジャーの本に出会って、それからはまた読むことや、新しい本に出会う楽しみがぐんと増えた。それは本当に私にとって大きな読書体験の変化で、それからまた読みたい本がどんどん出てきた。「読みやすい最近の日本の本」も、それはそれで楽しめるようになった。重めの外国の本と、軽めの日本の本を、交互に読むというのが結構良いバランスだなと気づいて、最近はまた日本の本も読むようになってきた。

「良い本」を手にしていたい

ただ、今ようやく思うのだけれど、やっぱり、がむしゃらに手当たり次第その辺の本を読む、という時期は、過ぎたのだなあという気がしている。それはやっぱり、中学生や高校生や、大学生の、あの時間が有り余っていた頃の特権だったのだと思う。やっぱり、「良い本」というのが、それは自分の価値観を超えて存在するというのが実感だし、そして今はやっぱりもう、「良い本」だけを読んでいたいと、そう思ってしまう。もちろん好き嫌いはあるし、好みもあるし、例えば私はどうしても太宰治が苦手だし(又吉さんごめんなさい)、そういうのはあるにしても、でもなんだろう、本を手にする時、そこはやっぱり自分の信頼できる何か、人だったり物語だったり、本そのものだったり、あとは場所(本屋さんだったり、好きな本棚がある喫茶店だったり、旅館だったり)だったりなんだったりのそういう力を借りて、選びたいと思う。それは私の中ではamazonのおすすめとはちょっと違う。データに紐付けされたものというよりは、自分で選んだもの、自分が信頼出来るものを通じて広がっていく世界のような気がしている。

文章の持つ影響というのは思った以上に大きいと思っていて、あまりに良くない文章(それはあまりに信ぴょう性に欠けているものだったり、必要以上に何かや誰かを批判でなく「攻撃」しているものだったり、まあいろいろな形があるけれど。そして例えばそれは物語の中の「攻撃性」や「暴力性」とはまた別のものなのだけれど。)というのは、必要以上に人の心を消耗させて知らず知らずのうちに傷つけてしまったりもすると思う。

まあそんな中でこんな駄文を読んでいただくのは本当に心苦しい限りですがすみませんとしか言えないわけですが・・・。いやすみません・・・。

それは本当にすみませんなのですが、とにかく、やっぱり本を読むからには、「良い本」を手にしていたい。そう思うと、最初の読書体験のきっかけとして、母の本棚からスタートしたのは、今となっては良かったのかなあと思う。あの頃は影響が強すぎると思っていたけれど、結局離れて暮らしてみて、母の俗っぽいとことか、人間くさいとことか、弱いとことか、そういうところも知って、その上で、あの本棚は今も大好きだなあと、思うから。

そういったわけで、つらつらと本が好きだ、ということについて語ってみましたが、書いてみてわかったのだけれど私は本当に本が好きなのだな。。。これはもう恥ずかしいとかそういうことを言っている場合ではないなきっと・・・

なので、読んだ本についても、少しずつ書いていこうと思います。まずは『騎士団長殺し』を読み終わったらその時に。

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