ランカウイにて思うこと。

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朝5時に起きて一人で遊んでいたものの二度寝した息子と、入れ違いで6時に目が覚めて、一人でバルコニーでビール飲みながら書いた文章です。

(ただしお部屋はWiFiがつながらないので投稿は時間差。)

二回目のランカウイ。過去の自分のブログをみて、そのときチャーターしたタクシーの運転手さんに、「子供はとってもかわいいよ。僕も5歳と2歳の子供がいるんだけど、ミスター&ミセスも、子供ができたらまたランカウイに一緒においでよ!」と、言ってくれていたことを思い出した。あれから7年弱。ほんとに5歳と2歳の我が子と一緒にくることになろうとは。人生は悪くない。

アジアの島の空気がやっぱり好き

アジアの島が学生の頃からとにかく好きで、学生の頃から半ばバックパックのような形でいろんな島にいったけれど、ランカウイが一番親切ですごしやすい島のような気がします。
バリをもーーーーーっと田舎にした感じ。タイのサムイ島やパンガン島のように、バックパッカーであふれかえってビーチにはトップレスのおねーちゃんがいっぱいいる、ということもない。(あの島はあの島であまりに怠惰で大好きやったけれど、今はまた変わっているのかな。)

アジアにありがちな「ぼったくり精神」がほんとに皆無で、タクシーだって定額で連れて行ってくれる。誰もかれもが親切で、例えばカンボジアのプノンペンで出会う人出会う人全員に騙されたようなことはまず起こらない。(すごいのだプノンペンという場所は。もう10年前のことやから今は違っているのかな。)

なんとなくなのだけれど、世は空前のハワイブームのような気がしていて、いやそんなものはバブルの頃からだと言われればそれまでなのだけれど、10年前と比べてなんとなく海外旅行=ハワイ、のような形が強くなってきているような気がなんとなーくしている。
南国好きかつお洋服ならびにお買い物好きといたしましては、もちろんハワイは夢の国で、なんでもあるのに実は田舎なハワイ、というのが私も当然のごとく大好きです。

ただ私は、土地そのものとしてはハワイよりもアジアの島々の方が、個人的には好きなのだなあと思う。それは学生の頃からやっぱり変わらない。なんだかんだ繰り返しよく行くのはハワイなので、思い出もたくさん積もっていくし、行くたびに子どもの成長を感じられるし、(お買い物も楽しいし、)トータルで見てハワイという島々に思い入れはもちろんあるのだけれど、やっぱりアジアの島々の空気感が肌に合うな、と、来るたびに思う。私はアジア人なんだなーと、思ったりする。

ランカウイは特に、ほんとうに何もなくて、なんせこの決算期の忙しい時期に二人して休みをとる夫婦なんて日本でうちくらいなんじゃないかと思えるレベルで日本人にも会わない。

でも「なにもない」というのは、普段東京で情報の波にのまれながらせわしなく過ごしている私にとっては、究極のぜいたくなのだなと思う。

なにもないからホテルのプールでだらだらするしかない。プールサイドで海見てビール飲みながら本読むしかない。(そこではネットもつながらない仕事のメールも読めない。)あれしなきゃ、これしなきゃ、ここもいっとかなきゃ、と、思わずに過ごせる時間、というのは、私みたいな人間にとってはものすごく大切だ。

一人旅、と、家族旅、実は大きく変わらない

一人旅をしていた頃(涙なしには語れない貧乏旅行の数々・・・)、オットと結婚して、二人でよく旅行をするようになった頃、そして子どもたちを連れて家族旅行をするようになった今。

一緒に旅する人は変わってきたけれど、それでもやっぱり、私が旅すること、旅が好きなことの、本質的な理由や意味は、結局なんにも変わらないのだなと実感する。子どもたちと一緒に行って楽しいところは、私が一人で行って楽しかったところやオットと二人で行って楽しかったところと、ほとんどそんなに変わらないから。

たぶん子どもを生む前の私には想像もつかなかったと思うけれど、子どもたちもまた、そうした場所にきて、とても楽しそうに笑って過ごしてくれる。(いやもちろん調子に乗って私に叱られまくってはいますけどねええ。)

子どもを生む、という経験はたしかにものすごくドラマチックで出産そのものにしてもまあ大仕事でインパクトのあるものだったけれども、それでもなんというか、人生のうちのほんの一部分というか、流れの中で自然に起こった一つのできごとにすぎないのだな、とも、思ったりします。

大切なものが、大切な人の人生が、自分の人生にそっと加わったような。それを最大限大切にしつつ、でもそれを気負いすぎず、それで起こった変化をまるごとそっと受け止めて、まいっかと思いながら過ごしてゆく。子育てってもしかしたらそんなものなのかなーと、思ったりする。

子どもがいる人生、いない人生、それぞれの幸せの形

すごくセンシティブなことなのでうまく言えているか自信はないのだけれど。つまり、例えば子どもを持たない人生というのも、それはそれですごく自然な一つの選択なのだろう、と私は思う。

あれは中学生の頃やったと思うんやけど、母の友達がご夫婦でされている喫茶店に家族で訪れて、そのとき母に、子どもを生まなくても、幸せな人生ってあるんだよ。まいちゃんがこの先そういう人生を選んだとしても、それはそれでいいんだよ。と、いう話をされたことがあります。

母はまあとにかく人からいろんな相談を受ける人だったので、そういった悩みもたくさん聞いていたんやろうなあと、今はなんとなく思う。

でもその頃はもちろんそんなのよくわからなくて。なんとなく、そうなのかー私も子どもを生まないかもしれないなーと思っていた。そしてそれは、大人になっても自分の根っこにずっとあった。

夫婦二人でも(もしかしたら一人でも)幸せに過ごす人生もある、というのは、それから自分の中で一つの覚書みたいにしてずっと残っていた。

それでもいろんな偶然が重なって、私はオットと子ども二人と過ごす人生を生きているけど、でもそれはやっぱり偶然で奇跡のようなもので、自分の人生に、大切な人の人生がそっと並走し始めた、という感じがする。それはもちろん幸せなことだし、大切に大切にしていきたいけれど、それは私にとっての幸せの形であって、誰かにとっての幸せの形の答えでは決してないと思う。

自分で選んだものを大切にすること、誰かの選んだものを否定しないこと

幸せなんて結局、だれかが決められることじゃないもんね。そんなの当たり前やけど。なんでもある(ように見える)日本の暮らしが、東京の暮らしが、ランカウイや、例えば宮古島の暮らしよりも幸せだなんて、それはだれかに決められることじゃない。

なんでも「自分自身で選ぶ」ということを私はすごく大切に思っているけれど、同時に、「誰かの選んだもの」を否定する権利は決してないと思っています。自分の選んだものだけが正しいと思うことは、実はすごくこわいことだったりすると思うから。もしかしてあのとき母が言いたかったことは、そういうことなのかもしれないと、思ったりもする。

そんなことを朝の6時からバルコニーでだらだらビール飲みながら思いました。
いやほんと私のこの旅の過ごし方一人旅の頃とかわりませんねええ。

背負うものがあっても、それがなくても、背負うものが背中から降りて一人で歩き始めても、肩の力を抜いて、そのときあるものを受け入れてまっすぐ生きていたいものです。それには、なーんにもしない旅を少しずつ加えてゆくことが必要だなうん。

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