「とはいえ」の前に大切なこと

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走るときに考えることについて私の考えること ©村上春樹

1月末のハワイで思いついて走り始めて、2か月半ばかり。週に一度か二度、といったくらいですが走っています。

走り始める前は、走ったら悩みも吹っ飛ぶんじゃないかとか、仕事の企画のアイデアがめっちゃ浮かぶんじゃないかとか、煩悩が消えるんじゃないかとか、なんとなくある種の悟りを開けるんじゃないかという期待があった。

が。しかし。

現実は全くもってそんなに甘くはない。

走っている時に考えていることというと、まあ、「しんどい。」これ一言に過ぎる。あと、「今日は本当に途中でやめよう。」とか、「てゆーかなんで走ってるんやろうわたし。」とか。あと自転車に抜かされた時の言いようのない無気力感とか。私がへなちょこだからなんですけど、まあ、だいたいしんどい。と、思っている。

ただ、ここのところだいたい10キロを目標に走ることが数回あって(数回ですけど。)なんせへなちょこなので、10キロでだいたい1時間くらいかかるわけです。そうすると、1時間もずっと「しんどい」と考え続けるのも身体が飽きるらしく、途中、急に頭がすっきりするというか、まあ空っぽになるというか、結構頭の中の見通しが良くなる感じがする時間が、やってくる。

まあだからといって仕事の企画のアイデアはさっぱり浮かびませんが、というか複雑な思考は全くもって出来ず、逆にものすごく物事をシンプルに考えるようになり、というかシンプルにしか考えられないわけですが、とにかくそういう時に、前から走ってくるおっちゃんとかを見ると、「この人も昔はお母さんのおなかの中にいて、すごくしあわせな気持ちで迎えられたのだろうなあ。」みたいなことを、考えるようになる。

これ、思い返してみると妊娠中にもよく思うんですよね。「あのいやーーーーな上司も、それでも昔はお母さんのおなかにいて、こうして待ち望まれて生まれてきたのだろうなあ。」とか。あれは妊娠中の脳内がお花畑になっていたからそう感じたのかと思っていたけれど、案外思考がシンプルになると同じことを思うらしい。

そして同時に、「あーーーー子どもたちが今日も笑って元気に生きている、それだけでしあわせだなあ。」と、本気で思う。あの子たちが生きているだけで、ほんとにしあわせだ。と。

これも、妊娠中に何度もなんども思ったこと。検診のたびに、あーよかった、今日も心臓が動いている。今日も少し、大きくなっている。今日もお腹の中で育ってくれている。もう、この子が生まれてきてくれるだけで、それだけでいい。他には何も望まない。元気に生まれてきてくれること、それだけでいい。と。

「とはいえ」とつい口にしてしまうけれど

それでも、実際に本当に元気に生まれてきてくれて、そしてすくすく元気に育ってくれると、それはそれでいろんな悩みが出てきて、ハイハイするのが遅いんじゃないかとか、歩くのが遅いんじゃないかとか、なかなか10まで数えられないとか、文字をなかなか覚えられないとか、絵が苦手なんじゃないかとか、運動が得意じゃないとか、お友達とケンカばかりするとか、全然親の言うことを聞かないとか、勉強が苦手だとか、人によってはいい幼稚園に行けなかったとか、受験がうまくいかなかっただとか、とにかく色んなことが出てくる。「生まれてきてくれるだけで、元気に笑ってくれるだけでいい。」と思った気持ちを、つい忘れそうになる。

でもそれは、忘れてるんじゃなくて、そういうものなんだ、と、思いながら、多くの人が過ごしている気がする。私だってそうだ。「とはいえ」、現実の生活が始まるわけで、そんな生まれてきてくれてありがとうという気持ちだけでこのあわただしい子育ての日々を乗り越えられるわけがないじゃないかと。そんな風に思いながら、現実の子育てと向き合ってきた気がする。

でも、走りながら、「しんどい」と考えることにすら飽きて、ものすごくシンプルにしか物事を考えられなくなった状態で、私は思った。いや、「生まれてきてくれるだけでいい。」「元気に笑ってくれるだけでいい。」という気持ちは、それはきれいごとでも絵空事でもなんでもないな。と。それは、紛れもない真実だ。それが、何より一番大切なことだ。と。

いや、そんなの、当たり前なのだけれど。当たり前だけれど、何というかそれを、身体で理解した、気がした。

大人になると、そして社会人になると、つい、「とはいえ」という言葉を使いがちになる。そんなきれいごとばかり言っていられないよ、現実を見なきゃだめだよ、という自分へのある種の戒めになのか、あるいは言い訳なのか、照れ隠しなのか。ちゃんと現実を知っていますよ、「とはいえ」、そんな夢ばかり見ていられないのもわかりますよ、と、誰かに、そして自分に言い聞かせるために。

でも、本当に大切なのは、というか、自分の本心は、「とはいえ」の前にあるんじゃないのかなあと、その時私は思った。しんどいを通り越したシンプルな思考の中で。

本当は、「とはいえ」の後ろに続く現実的な言葉じゃなくて、その前の段階に、大切なことはちゃんとあるのだ。

あの時、まだ手も足もないような小さな胎芽を始めてみた時、いつしか大きくなったお腹をそっとなでながらゆっくり歩いた時、「この子が無事に生まれてきてくれるだけでいい。それだけでいい。」と思った気持ちは、それは、きれいごとでもなんでもなかったはずだ。それは、どんな人だって、きっと同じだ。そしてそれは、この世で多分、一番シンプルで、そして大切な真実だ。

とはいえ、子供はいつか立派な大人にならなきゃいけないとか、とはいえ、親は子供をちゃんと教育しなきゃいけないとか、とはいえ、学歴はあった方がいいとか、「とはいえ」は山のように思い浮かぶけれど、でもそのどれも「この子が無事に生まれてきてくれるだけでいい」と思った気持ちにはかなわない。だって、「この子が無事に生まれてきてくれ」なければ、そのどれも、かなわなかったのだから。

欲張りであることは大切かもしれないけれど、でも、一番大切なことは、すごくシンプルだ。そしてそれは、ものすごく簡単なはずなのに、日々の生活でいとも簡単に忘れてしまえるようなことだ。

生きてくれているだけでうれしい。生まれてきてくれて、生きていてくれて、本当にありがとう。それを、ちゃんと子どもたちに伝えていきたい。それを、ちゃんと自分の根っこに忘れずおいておきたい。

と、走りながら今日も私は思うのだ。とはいえ、やっぱり走るのはしんどい。今日は5キロで止めておこうか。と思いながら。

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