おばあちゃんのこと、夫婦のこと。

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おばあちゃんとのさよなら

昨年、大好きなおばあちゃんとさよならをしました。

危篤の連絡を受けて京都に帰って、それから一週間。おばあちゃんの病室には、毎日たくさんの人が来てくれて、そして誰かがいつも子供達と遊んでくれた。

おばあちゃんは最後に会った時も、子供達を見て、「かわいいなあ。」と、言ってくれた。6歳の息子は今でもその時のことを思い出しては、「おっきいばあば、かわいいなあって言ってくれたね。うれしかった。おっきいばあばだいすきだったんだ。またあいたい。ありがとうっていいたい。」と言っては母さんを泣かせる。いやこれはほんとうにちょっと、泣ける。ぐすん。

大好きなお母さんの、お母さんだったおばあちゃん。とても優しくてそして聡明で、昔の人ならではの、厳しさを知った上での本当の優しさを持つ人でした。

おじいちゃんがお通夜の挨拶の時に言っていた。「家内は、去年あたりに急に、『私もうそんなに長くないと思う。今年か、来年かくらいまでちゃうかなあ。』と、言い出しました。」と。ずっと持病はあったけれど、特段数値が悪いわけでもなんでもなかったのに、急に覚悟を決めたみたいだった、と、おじいちゃんは話していた。

おじいちゃんはそれを見て、「自分の妻ながら、この度胸はすごいなと思いました。」と、言っていた。「この歳になると、いざ自分の最後が見えてくると怖くなるもんやと思います。死にたくない、と思うのが普通です。でもさすが、昔から家内は本当に度胸が据わった人でした。」と。

そこから始まるいろんなエピソードを聞いていて、私は、あーこの二人は、やっぱりお互いを尊敬し合っていたんだな、と、心底思った。

実家でお母さんが小学生の頃の「せんせいあのね」(日記)を見つけて読んでいたら、おじいちゃんが九州に出張へ行っている時のことが書いてありました。
「電報で、『朝2時に帰る』というお知らせが来て、お母さんはちょっと大変そうでした。なぜなら、朝の2時まで起きて待っていなくてはいけないからです。」
朝2時。私ならもちろん余裕で寝ている。起きて待っていようという考えはごく控えめに言って(©村上春樹)まず浮かんでこない。
と、いう私にとって、この昭和の夫婦はなんだか少し、少しだけ、眩しくうつったものです。
ので、私も心を入れ替えてそれから毎日オットの帰りを起きて待つことに。。。したわけではもちろんありません。もちろん。

結婚するときに、おばあちゃんからもらった手紙

でもその時にふと、思い出したことがあった。

私が結婚する時に、私の友人があらゆるツテをたどって、サプライズでおじいちゃんとおばあちゃんからお手紙をもらってきてくれた。その時、おばあちゃんが書いてくれていたことを。

原稿用紙に万年筆で書かれた世界で一番かっちょいい手紙は、
「夏に植木やが狩りこんだ古い茶山花垣と貝塚垣から若い緑が育って来ました。
川の堤には彼岸花が咲き初めて百舌がけたたましく秋をたたえてゐるようです。」
と、私の実家がたいへん田舎であることがわかる描写で始まる。

でもあの田舎の風景がこんなにかっこいい文章になるのか、と、私はおばあちゃんの、こういった言葉の紡ぎ方が大好きで、いつかこんな文章を紡げるようになりたいなあと思った。

この短い手紙の中に、「仕事をもちながらの家庭経営は、むつかしいこともたくさんあることと、思はれます。」と、書かれていました。
今思うと、これは決して、共働きが時間的に厳しいとか、家事との両立が大変だとか、一億総活躍社会のあのふわっとした絵空事感はなんなんだとか、そんなことを言っているわけじゃないんだろうなあと思う。おばあちゃんが言いたかったのはきっと、お互いが仕事を持つことで、役割分担が曖昧になることで、感謝の気持ちが薄れがちになるから、ってことだったんじゃないかなあと。

おじいちゃんとおばあちゃんの時代は、おじいちゃんがお仕事をして、お金を稼いで、おばあちゃんは家のことを全部して、という、明確な役割分担があった。

だからお互いがお互いを必要としていたし、そこには感謝と尊敬が当たり前にあったのだろうと思う。だからこそおじいちゃんは、「妻はさすが度胸が据わった素晴らしい人でした」と最後まで言えたし、おばあちゃんは、仕事で遅くなる夫を当たり前のように起きて待っていた。そして、二人の娘であるお母さんを亡くしてからは、二人はいつも、足腰が弱くなったおばあちゃんを支えながら、手を取り合って歩いていた。それは、おじいちゃんがおばあちゃんを支えているようでいて、おばあちゃんの存在自体が、おじいちゃんを支えているようにも見えた。

「役割分担」がない時代の、尊敬し合える関係

でも、例えばお互いが仕事を持っている場合、そんなに明確な役割分担はなくて、そうすると、不満ばかりが見えがちになるかもしれないなあと思う。なんで自分ばっかり家事するのだろう、なんで自分ばっかり働いてるのだろう、なんで自分ばっかり・・・。

もちろん時代が全く違うから、おじいちゃんの時代の「役割分担」を今もすべきだとは、1ミリたりとも思わない。思わないし、これからどんどん共働きは今よりもっと増えて、「役割」は大きく変わっていくだろうなと思う。私はきっと仕事をしていないと死んでしまうし。。(それは言い過ぎですが。でも呼吸困難くらいにはなりそう。ならへんか。)

ただ、役割分担がその頃のようにはっきりしていない今は、おそらく、ちょっと意識しないと、尊敬する気持ちや、ありがとうと思える気持ちを、忘れてしまうかもしれないな、と思う。それが、「仕事をもちながらの家庭経営がむつかしいこと」の、一番の理由なんじゃないかなあと。

だから意識して、今の時代ならではの、いや、違うな、時代に合わせてというよりは、我が家ならではの、自分の家族ならではの、「ありがとう」と思える関係を、尊敬し合える関係を、築いていきたいなと、思った。それはきっと意識しないと、忘れてしまうことだから。

いつかおじいちゃんとおばあちゃんのように、(そりゃあいろいろとあっただろうけれど)さよならの瞬間に「すごい人でした。」と、言えるようになりたいなあと思う。言ってもらえるようでありたいなあと思う。

そして、息子の「さよなら」の痛みと成長

息子はほんとうにほんとうにおばあちゃんのことが大好きで、今でも急に「おっきいばあばに会いたい。おっきいばあばの夢が見たい。だっておっきいばあばいっつもやさしかったから。」と言ってしくしく泣きだす。

とてもとても大切な人がいて、その人とはもう会えない。という痛みを、もうしっかりと息子は知ったのだなと思う。「おっきいばあば」というフレーズが出るたびに、えらく切ない顔をする息子は、なんだか少し、大人になったような気がします。おばあちゃんはこうして、私にも、息子にも、なにか大切なものを、思い出を、言葉を、残していってくれたのだなと思います。こうしてきっと命はつながって、おばあちゃんが残してくれたものは、ずっとずっと私たちの中に残っていく。それがきっと、誰かが生きて、そして去ってゆくことのすべてなんだろう。

私もいつか、子どもたちや孫たちやひ孫たちに、そうして何かを残せるように。おばあちゃんやお母さんが残してくれたなにかを、伝えていけるように。今ならではの、自分ならではの形で、今はただまっすぐ生きてゆきたい。おばあちゃんの孫でいられたことを、誇れるように。

 

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