子育て

子育ては小さなさよならの積み重ねだけれど。

あけましておめでとうございます。節目のごあいさつ、というのがなんだか清々しくてとても好きです。その割に毎年年賀状が遅くてすみません、関係者各位のみなさま♡

2016年プチ抱負

2016年、今年は「よりよい自分」である一年にしたいなと思います。とはいえ、神様仏様ではないので、完璧になんてぜったいに無理だし、それを目指して辛くなるくらいなら、どんどん肩の力は抜いてよい、というのがてきとう人間であるわたしのモットーではありますので、何かに縛られたりするわけではなく、あくまでも自由を大切にしつつ(自由というのはたぶん私の人生をかけたテーマである気がする。)しなやかにたおやかに、でも心がけとして、「よりよい自分」でありたいと思っています。

これまでは、母として妻として、もしくは友人として、先輩として、後輩として、よりよい自分であろうと心がけることが多かったけれど(そしてまったくよりよい母とか妻とか友人とか先輩とか後輩ではないんですけどすみません♡)、今年は少し視野を広く、社会にとっての「よりよい自分」であることは何か、つまり、自分が社会全体にとってできることは何なのか、ということを考え実行に移していけたらいいなと思っています。そんな大それたことじゃなくて、例えば私のSNSやブログを見て、少しほっとしてもらえたり、笑顔になってもらえたり、そういう輪が少しずつ広がってゆけばいいなと思っています。

そしてそのためにはもちろん、自分の身近な大切な人たちに対しても、できるだけ誠実に接していきたい。よりよいこと、とは、誠実であることにほど近い。誰かから見て「よりよく見える」わけではなくて、あくまでも自分の中で、よいことを積み重ねていく、そんなイメージ。そこから生まれるものがたくさんあるのだと信じています。

そんなこんなで2016年最初のブログは、2歳児むすめとのあれこれ。

むすめと二人でお出かけ(女子!)

先日のこと。オットと息子は博物館へいく!と、張り切っていたので、こちらは久々に2歳のむすめと二人きりでお出かけにいってまいりました。

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むすめのお洋服を見に行って、ラデュレでランチして、(スイーツも食べて)、母さんのウインドウショッピングにちょこっとおつきあいいただき(セリーヌのお姉さんたちが優しすぎて2歳児がくつろぎすぎていた)、みのりカフェでコーヒー買いつつ銀座テラスで走り回る。この日はベビーカーも持たずに銀座へ行ったので、なんだかほんとに女子(?)会のようでした。

「向かい合ってお茶」ができること

そして二人で、向かい合って座ってお茶しているときに、ふと思った。こうして向かい合って座ると、ぐんとお姉さんになったような気がするなーと。

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息子もちょうど同じくらいのとき、二人で京都の湯豆腐さんへ行って笑、二人で同じように向き合ってご飯を食べたのですが。向かい合って座ると、やたらと息子がお兄ちゃんになったような気がした。

離乳食が始まると膝の上で少し食べるようになって、おすわりが安定してくると隣に座って食べさせてあげられるようになって、そのうちにこちらが手助けしてあげつつ少し自分で食べられるようになって。

そして、いつしかこうして向かい合ってお茶ができるようになる。こうなると、子育てっていうのはぐいんと楽になる、ような気がする。

そしていつもこれくらいの頃っていうのは、とんでもなくかわいい。

子育てって、きっと少しずつ手を離していくことなんやろうと思うんやけど、それはやっぱり少しの切なさをいつも伴うもので、あーいつの間にか大きくなってしまったなあ、またひとつ、一人でできることができたなあ、という実感は、なんだか小さなさよならみたいに積もってゆく。

でも、そうして手を離してゆくことで、小さなさよならを積み重ねてゆくことで、きっと子供の目線が、少しずつ少しずつ、親である私に近づいてくるのかもしれない、と思う。

それはやっぱり何者にも代えがたい、素晴らしいことのような気がする。自分が生んだ子供が、自分の同志になっていくような。向かい合ってお茶をして、話ができるようになるというのは、その第一歩なのだと思います。

こうしていやいやき終盤も乗り越えたい

子育てはいつも、小さなせめぎあいの積み重ねだなあと思う。成長がうれしい一方で、手放すことのさみしさはつきまとう。一人の時間がほしいーと思いながら、いざ一人になると子供のことばかり考えてしまう。まったくもうなんでこんなにわがままなんだこっちの言うことが伝わらないんだ、と思って1日中叱りまくっても、夜に寝顔を見ているとなんてかわいいんだはーまた叱りすぎたと反省する。でもなんかその全てはきっと、手を離してゆくことの練習なんだろうな、と思う。お互いに。

最後の手を離したとき、この子たちの中で、今の日々が、そしてこれからの日々が、小さな宝物のようになって、心の奥の奥の方で、生きていくこと、決断していくことの、自信につながってゆけばいいなと思います。いつか私がいなくなっても、その記憶が残れば、それだけでいい。それだけがきっと、本当の意味での母親の仕事なんじゃないかなと、私は思います。

だから今は、向かい合ってお茶ができるようになったこの時間を大切に。いやいやき終盤も乗り越えていきたい所存でございます。。。例えトランブでハートのエース(むすめ的にいちばん「カワイイ」図柄)がもらえなかったからってブチ切れてなぜかテーブルの上に乗って号泣していたとしても。。。母さんは決してめげない。。。たぶん。。。

5歳男子とのクリスマスプレゼント攻防

大人が選んでほしいプレゼント

クリスマスが近づいてきました。

我が家には5歳男子と2歳女子がいますが、それはそれはプレゼントに悩んでおりました。特に5歳男子。

この時期必ず新聞に折り込まれるトイザらスのチラシを子どもたちに渡したところ、ここに載っているのが世のおもちゃのすべてだと思い込んだ子どもたちは、あれがいいとかこれがいいとか、夢を膨らませておりました。

0歳や1歳の時というのは、はっきり言って、ママ好みのオサレなプレゼントでも許されます。なんなら、自分が着せたい服をるんるんと選んでプレゼントしたっていいわけです。もはや自分のためと言える超合法的なお買い物ですね、その頃のクリスマスプレゼントというのは。

でも、5歳にもなってしまうとそうはいかない。あれこれ欲しいものが出てくるし、いらないものをあげようならきっと、クリスマスにがっかりした顔を見ることになってしまう。

なのであの手この手で欲しいものを聞き出します。が、加えて、こちらがあげたいものへ誘導するというかけひきも行われます。

一応こちらも大人としての分別があるわけです。そんなおもちゃに5000円も6000円も出したって長く遊べるわけないだろう、とか、その遊びから得るものや学ぶものは何もないだろう、とか。

あわよくば、5歳男子とはいえ、センスのいいものとか、なんか賢こそうなものとか、長く使えそうなものとか、私も欲しいものとか、なんならSNS映えしそうなものとか(現代的)、そういうものを選んでくれないかな、とかちょっと思うわけです。そっちへもっていけないかなと。良い落としどころはないものか。と。

しかし人生と5歳男子はそう甘くない。

うちの息子の場合は、トイザらスのチラシを見て、「トミカ メカアクション自動車工場」とやらが欲しいと言い出しました。(↓これ。)

トミカ メカアクション 自動車工場

で、でかい。。。しかも5歳でトミカ。。。もう長くは使えなさそうであまりオサレっぽくはなくかしこそうというわけでもなくもちろんSNS映えしそうというわけでもない。。。

我が家には、0歳の頃から集め続けたトミカが、もうほんと山のようにあります。世の多くの男児とお同じく、うちも車と電車が大好きだったので、ちょっとしたおみやげやごほうびに手軽に買えるトミカはあっというまにたまってゆきました。

でもそんなトミカも、ここのところサッカーと野球ブームのきている息子とは、ちょっと距離が出てきたように感じていました。そろそろ卒業なのかなーと、思っていたところ。

ということで、これは、まあチラシを見て一時的に欲しくなっただけだなと判断して、そっかーこれもかっこいいけど、あ、これはー?スターウォーズのレゴとか!!(それなりにオサレっぽくてまあかしこそうな典型的なやつ。個人調べ。)とか、いろいろと誘導を試みてみました。が、あんまり息子の心を掴んでくれるものはなく。何を出しても結局トミカの自動車工場に戻ってくる。まあ翌日になれば、気も変わるだろうと思い、翌日になってまた聞いてみると、それでも自動車工場がいいと言う。ということを数日繰り返しました。

ところが最後に「これ対象年齢3歳からやって!3歳用かなー!」と、いう、プライドの高い5歳男子を一番説得できそうな呪文をとなえたところ、案の定「うっ」ときたらしく、「やっぱり妖怪ウォッチにするー。。」と、言い出した。

よっしゃ勝った。(妖怪ウォッチは決してオサレっぽくてかしこっぽいわけではないが、トミカの自動車工場ほど場所もとらへんしまあしまいやすい。という許容範囲。)

でも「答え」を大人が用意しちゃダメだ、と気づかされる

と、思った、気がした、のですが。

なーんか、これでいいのかなー、というもやもやが消えない。

なんかこれってもしかして、クリスマス当日にプレゼントを見ても、喜びはするやろうけど、それって親の気持ちを汲んだ上での喜びなんではなかろーかと。

妙な罪悪感に苛まれた母さんは、トミカの自動車工場でも、妖怪ウォッチでもいいから、どっちがほんとうにほしいか、もうちょっと考えてごらん、という、おいどっちなんだよというようなことを言って、その日はおしまいにしました。

そしたら次の日に息子から、「ママー、やっぱりトミカの自動車工場がほしい。」と、なんか少し恥ずかしそうに言われました。そっかうん、わかったよというと、うれしそうに飛 び跳ねて、ちょっと久しぶりにトミカの道路を出してきて、えらい立派な街を作って、お気に入りのトミカを並べて楽しそうに遊んでた。それは、0歳や1歳の 頃とはまた違う、お兄ちゃんになった息子のトミカの遊び方でした。

なんかその姿がけなげでかわいくてちょっと母さんはじーんときたのです。

普段はいつもお兄ちゃんとしていっぱい我慢もして頑張ってる息子に、クリスマスくらいは、ほんとうに欲しいものあげればいいじゃないか、と思えました。クリスマスまで親の都合を押し付けてちゃいけない。普段母さんがオニババとして君臨してる分、クリスマスくらい夢いっぱいわがままいっぱいの日にしてあげたっていい。愛する友人の助言もあり、そんな風に思いました。

そして何よりも、息子自身が「ほんとうに欲しいもの」を自分でちゃんとわかって、それをきちんと伝えられることって、すごく大事なことじゃないか、と思ったのです。

5歳男子というのは、ほんとうにあほで単純な生き物ではありますが、少しずつ「空気を読む」ということを知ってきます。特に、親の喜怒哀楽にはある程度、敏感になってくる時期のような気がします。

するとなんとなーく、こっちが求めてる「答え」を、子どもが感じ取る気がするのです、クリスマスプレゼントのかけひき一つとっても。

これから長い人生で、相手の感情を知ること、特に痛みを知ること、というのはものすごく大切になってくる。相手の「痛い」は、たくさん感じられるようにならなきゃいけない。

そういう意味で、大人が持っているべき「答え」はたくさんあって、まだまだ導いてあげなきゃいけない局面もたくさんあると思います。相手の痛みを教えてゆくことも、その一つ。そこの見極めは、きちんと大人として、親として、していかなきゃいけない。

でも、だからと言って、相手の「答え」に合わせるようにはしちゃだめだ、と思うのです。その「答え」からは、長い目でみたら何も生まれないし、何の成長もない。お互いの「答え」を持ち寄って、つまりこちらの「答え」もきちんと示して、対話をして、そこからちゃんとまた新しい何かが生まれるはずやから。

まだ5歳の子どもを相手にしていると、「答え」はいつも大人である自分の中にあるはずだとこちらは思いがちになってしまう。

でも、そればかりじゃないはずだな、と思うのです。子ども自身が「答え」を持っていることももちろんあって、大人がそれを勝手に導いたりしちゃいけない場面が必ずある。それをちゃんと、見極めてあげよう、と、クリスマスプレゼント攻防戦を通じて感じました。きっと今だからこその、トミカの遊び方を、この5歳男子は編み出してくれる気がするのです。

基本的に日々ほんとーーーーうにのほほんとてきとうな子育てをしながら過ごしているわけですが、それでもときどきはっと色々気づかされたりするから、まったく子育てというのはあなどれないな、と、思います。

息子よいつもありがとう。母さんはトミカの自動車工場を探してくるよ、でかいけど。

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