走ること

明日も走ろうと思えるモチベーションを残すコツ

暑すぎてランニングスランプだ

毎日走っていると書いたばかりでこう言ってはなんだけれども、ここ1週間ばかり、ランニングスランプである。いや、スランプと言っても私はアスリートでもなんでもないためタイムが伸び悩むとかそういうことではなくて、単に、「死ぬほど走りたくない死んでも走りたくないまじでいや」という状態であった。

理由はわかっている。

暑い。暑すぎる。

私は冬よりも500倍夏が好きな人間ではあるけれども、ことランニングに関しては、夏より冬の方が100倍マシだ。いくら寒くても1キロも走れば身体はあったまってくるけれど、暑いのはもう救いようがない。1キロ走るごとに暑さが増す。地獄だ。なんでこんな辛い思いをして毎日走るのだ?なんでこんな辛い思いをして毎日毎日負けるヤクルトの試合を見るのだ?我ながらわけがわからない。

大事なことは「毎日走る」ことそのものだから、この走りたくない病とは本当に日々向き合っていかなければならない。メロスは戦わなくてはならない。

小さなハードルを日々越えることでモチベーションを保っていたけれど

基本的には走ることの自分のモチベーションを、「小さな目標を達成する」ことでなんとか保ってきた。タイムであったり距離であったり、わかりやすく「今日はこれ」とあらかじめ自分でハードル決めておく。もちろん走りながらある程度の調整もする。もう少しいけそうだな、と思ったら、スピードを速めて、距離を伸ばす。そうやって、自分で決めたハードルを越えることで、今日もできた、と、自分の小さな糧にしてきた。

だけどそれだけでは、いつかモチベーションの糸はぶちっときれるらしい。つまり暑い中しんっっどい思いをして走っても別にタイムも速くならない距離も伸びないただ紫外線を浴びまくってお肌を傷めるばかりであることに心底疲れる。なんで私走ってるんだっけ。もう定めるべきハードルがさっぱりよくわからない。

こうなっては結局、昨日のしんどさがあとをひいて、今日も明日も死ぬほど走りたくない、という気持ちになる。これは自分にとっては由々しき事態なのだ。

「明日も走りたいな」という余力を残す

あまりの暑さに、まずは走る時間を1時間早めた。子どもたちが家を出てから1時間くらいざっと仕事を済ませてから走る、というリズムだったのを、子どもたちが家を出たらまず走る。そのあとに仕事する。眠いけど。

この時期に関しては、1時間早めるだけでも暑さは随分和らいだ。格段と走りやすくなった。そしてここからが大事なのだけれど、こうなると、今までの私なら、これならまだ走れるな、と、距離かスピードを上げていた。そうすることで、今日も目標よりも速く(長く)走れたな、と、モチベーションを上げようとしていた。

でも、それで毎日本気で走って疲れ果ててしまうと、また心底走りたくない毎日の繰り返しになる。だからぐっとがまんして、スピードを上げすぎず、あらかじめ決めた距離(10キロ)のところで走るのをやめた。「まだいけるな」「まだ走りたいな」という余力を少し残して。

これはなかなかに効果てきめんであった。まあ、走りたくないものは走りたくないのだけれど、翌日の心持ちは随分と楽だった。

大切なのは、「毎日走る」こと。それならば、「毎日走る」ためのモチベーションをきちんと維持することが、何より大切。それはつまり、「明日も走りたいな」と思えること。だから、「もっと走りたいな」という状態で、今日は一旦やめる勇気、というのも必要なのだ。それ、今週初めて知った。ここすごい大事。

今日も走りながら気づく

村上春樹は長編小説を書くときに、あらかじ決めた文字数を毎日毎日同じ量だけ書き進めてゆくそうだ。どれだけ筆が進まない日も、あるいはとても調子が良くてもっと書けるなという日も、必ずその文字数だけは書き、そしてその文字数に達したらそこですぱっとやめる。「まだ書けるな」という余力を残しておくことがすごく大事、だそうだ。

そうか、これがその「余力」か。と、私はハッとしている。身をもって知った気がする。やっぱり私は頭でじゃなくて、身体や手を動かしながらじゃないといろんなことがわからない人間なのだなあと、またもや思う。もっと頭でいろいろ考えちゃうタイプだと思っていたのだけれど、全然そんなことなかったらしい。走るようになってやっと気づいた。

私はプロ野球選手でもアスリートでもないから、何かと戦っているわけじゃない。だから、日々(ある程度は)楽しく気持ち良く、走れることがすごく大事だ。まあ、しんどいものはしんどいけど、緩急をつけて、走りたいな、という気持ちをちゃんと維持することは、すごく大事だな、というお話。仕事だってなんだって、そういう「遊び」の部分は大事だ。ピッチャーはいつだってど真ん中にストレートを投げ続けるわけにはいかない。いやそういう話じゃなかったっけ。

こうしてなんとかかんとか、明日も走るべく整えるのです。走っても走ってもヤクルトが勝つわけじゃないのに。(今日こそ勝ってくれませんかね・・)

「毎日走る」ために、自分と約束していることたち

シンプルに、なぜ走るのか

誰に言われたわけでも誰かと約束をしているわけでも誰かに脅されているわけでもない。焼肉をおごってもらえるわけでもないし、エルメスのサンダルが手に入るわけでもないし、セリーヌのデザイナーにフィービーが戻ってくるわけでもない。つまり何かが急激に好転するわけではない。

それなのに毎日毎日、私は走っている。今日も走りたくないと思いながら、走っている。なんでこんな辛い思いをして毎日走るのだ?あとなんでこんな辛い思いをして毎日毎日負けるヤクルトの試合を見るのだ?我ながらわけがわからない。

なぜ走るのか。メロスなのか。理由はたぶん、一つだけ。

少しでも、心身共に健康でより良い日々を送るため。

至って地味な理由である。なんだそれ。でもほんとうにこれだけだ。

だからそのために私が一番に大切にしたいことは、速く走ることよりも長く走ることよりも「できるだけ毎日走る」ことなのだと思う。

ノムさんが「速い球を投げられるのは、天賦の才であって、練習しても限界がある。目標設定にはなりえない。対して制球力は、練習をすればするほど、経験を積めば積むほど、向上する。つまり、どんな投手にも身につけられる可能性がある」と本に書いていて、私はそうだよ「目標設定」とはかくあるべき!と、目から鱗だったのだけれど、つまるところ私にとって走ることにおいての「目標設定」は「毎日走る」と位置付けられるべきなのだ。人生は野球だ。意味不明だ。

「毎日走る」ことの規則性そのものが大事

会社を辞めてから、毎日同じ時間に起き、同じ時間に電車に乗り、同じ時間に会社に行く、ということがなくなった。それは控えめに言って素晴らしいことなのだけれど、同時にあらゆる規則性が失われたということでもある。

何か一つ、自分の日々に規則性を持たせること、というのは何となく必要なことのような気がしていた。毎日走る、毎日書く。そういったようなものが。

だから走るということは、もちろん身体をある程度鍛えるといったわかりやすいものと同時に、日々に規則性を持たせる、繰り返すこと自体に、(あくまでも私にとっては)意味がある。まあたぶん一種の修行なのだ、あっほみたいに弱いヤクルトの試合をみるのと一緒だ、あれも修行だから。

「毎日走る」ためのルール

さて、だからと言って「毎日走る」というのはもちろんそんなにめちゃくちゃ簡単だ、というものではない。プロ野球選手になるとか、ZOZOの社長になるとか、石原さとみと付き合うとか、ヤクルトが優勝するとか、そのレベルの物事よりはもちろんよっぽど100億倍くらい簡単なことだけれど(だから私ごときにでもできるわけだけれど)、まあ「毎日ご飯を食べる」ことよりは、ちょっとだけ難しい。

続けるために、なんとなく、自分の中でこうしよう、と決めていることがある。(あるな、と、今日走りながら気づいた。)

具体的に自分が自分に決めていること(誰に言われたわけでももちろんないので、勝手に自分が自分に約束していること)を書き出してみるとこれくらい。

・平日は毎日走る、土日祝日家族の休みの日は走らなくて良い

・基本は月曜10キロ、火曜5キロ、水曜10キロ・・と、5キロと10キロを交互に走り、週に合計約40キロ以上走る

・それを繰り返して月に160キロ以上走る

・3泊4日以上の旅行にはランニングウェアを持って行き一度は走る

・雨の日雪の日暑すぎる日寒すぎる日はジムで走る

・前日に飲みすぎようがヤクルトがあほみたいな負け方をしようがオットとケンカしようが子どもともめようがとにかく朝が来たら走る

・午前中に走る

・午前中に予定が入っていて時間がなくてもとにかく1キロでもいいから走る

・短い距離しか走れなかった日の分は、1週間や1か月のうちに距離を調整して、最終的に月160キロにする

・できれば週に1回15キロを走る

・できれば月に1回20キロを走る

・できれば信号のない道を走り、歩かない、止まらない。

 

もちろんこの先に例えばタイムが速くなるとか、フルマラソンが走れるようになるとか、そういうことも目指したいと思うし挑戦したいとは思うけれども、本質的に大事なのはそういった数字のこと以上に「(休みの日以外は)できるだけ毎日走る」ことなのだと思う。だから、こういう自分なりの小さな約束ごとを、毎日地味に地味に守ることで、私の小さすぎるモチベーションをなんとか維持している。

「なんとかギリギリに守れる」約束であることが大事

だからそのために、自分に課すルールは「なんとかギリギリに守れる」範囲でなければならない。これは無理だわ毎日続けられない、というルールだと本末転倒なわけで、これならなんとか守れる、というギリギリのラインを、日々走りながら見極めてきた結果がこれ、という感じ。

最初から、月に160キロ走ろう!と思っていたわけでも、なんなら平日は休まず走ろう!と思っていたわけでもないのだけれど、日々走りながら、目標も、そのための自分との小さな約束も見つけてきた。

決して頭が良い人間ではないから(あたりまえだ)、机の前に座ってじっと考えて、ものすごく良いアイデアとか、大切な「答え」とか、目標すら見つかるわけでは、ない。最初にこうしよう!と決めるのではなくて、走りながら、歩きながら、身体を動かしながら、少しずつなんとなく、わかってくることがある。そうやって私は、いろいろなことを見つけて決めてゆくのだな、と、改めて思う。

なんかそれも走ることの一つの重要な側面なのかな、と思ったりしている。直接的にも、比喩的にも、走りながら大切なものを見つけてゆくため。しんどいけど。

明日は、この「しんどさ」を乗り越えるためにこれ必要だわ!と、私が今日気づいたことについて書きます。すごい大事ですここテストに出ます。たぶん。

【50音blog 】え:駅伝ーー走るのは一人でできるからいいのだけれど

初めて「コツコツ」続けてこられたこと

バタバタ2月。貧乏ひまなしとはこのことである。ブログを書くひまもないくらいこんなに慌ただしいだなんて、一体日々何をしているかというと、そう、走っている。

走り始めてから、1年が過ぎた。子どもの頃から「コツコツ」やることが何よりも苦手で、テスト勉強はいつも一夜漬けだった私にとって、少しずつだけれども何かを続けてこられたというのは、もしかすると初めてのことだったかもしれない。

そして基本的に(まあ多くの人の予想に違わず)大した運動神経を持っていない私にとって、この歳になってもコツコツ続けることで苦手な運動方面で(ものすごくへなちょことはいえ)少しずつ伸びていくものがあるなんて、それは大きな驚きだったし、とてもうれしい気づきでもあった。

苦手な「コツコツ」を続けてこられたのは、たぶんこれが全て常に私のごく個人的な事柄だからだ。

誰かに走れと言われて走らされているわけでもないし、チームで一つの目標の向かって戦っているわけでもない。そして何より、誰かと競争しているわけでも、ない。

とにかく根本的に、競争が苦手

最近気づいたことなのだけれど、思うに私は昔から根本的に「競争」が苦手だ。例えばよく「会社の同期はなんだかんだ言ってライバルだ」みたいな話があると思うのだけれど、これ、そうかそういうものなのかと思ってなんどもそう思おうとしてみたのだけれど(なんかそう思わなくちゃいけない気がして)何度チャレンジしてみても、やっぱり最後の最後まで同期に対してさっぱり競争心が芽生えなかった。同期は最後まで、ただの同志であり友人のようであり、ライバルではなかった。

だいたい同じ会社の人に対して「ライバル」と思うことはどう考えても自分にとって不自然だったし、なんなら大きな声では言えないけれど同業他社のことすら私は「ライバル」とあまり思えないというか競争心がどうしても湧いてこなかった・・わけで・・あります・・・。(小声)

まあとにかくそういう人間のため、誰かと競争するスポーツというのは、根本的にさっぱり向いていないのだと思う。仕事にしたって、競争心がモチベーションになることはまあ正直、一切、ない。(もうほんとどうかと思うけれども仕方ない、もうそういう人間だと開き直るしかない)

そういう私にとって、ランニングというのは、誰かと競争する必要のない、結構向いているスポーツだったのだなあと、1年続けてみて思う。

自分一人で、好きな時間に、好きな場所でできること。大した道具もいらず、どこか(ジムとかプールとか)に行く必要もなく、ただ淡々とできること。競争をする必要がないと同時に、競争に巻き込まれることもないこと。(もうほんとどうかと思うけれども競争に巻き込まれるのももんすごいめんどくさいので嫌です、もうそういう人間だと開き直るしかない)最初はそこまで考えていなかったけれど、振り返ってみればどれも自分に向いている。

だめだめな私を、先輩が駅伝に誘ってくれた

と、これだけ「一人でできること」の素晴らしさを語ってきたわけですけれども、そんな私は先日、初めて駅伝に参加してきた。前職の先輩たちと4人のチームで、一人約4キロを走ることになった。

駅伝となると、一人じゃなくて団体競技だ。しかも私以外の先輩はみんなキロ3分台から4分前半で走るのであーる(は、はやい・・・)私だけ5分台である。信じられない。お荷物感甚だしい。大丈夫かいや絶対大丈夫じゃない。

しかしまあ、なんといってもダメダメな後輩を持つ私の先輩である。私が誘われるがまま何もせず待っている間に、エントリー等の事務作業を全部やってくれて、前日の完璧なリマインダーメールも送ってくれて、現地に応援に来てくれるオットに「見てこの先輩からのメール読めば集合時間も場所もスケジュールも全部わかるよめっちゃわかりやすい!」と、言ったところ、「うん、感心している場合じゃないよ、それ本来一番下っ端のまいがやるべきだよたぶん。」と、言い放たれた。・・・た、確かに。いつもありがとうございますすみません。

そんな感じであれよあれよとことは進み(すみません)大丈夫かな私(全然大丈夫じゃない)と思いながら駅伝当日を迎えた。

だけど実際走ってみると、駅伝とはいえ走る間は当然自分一人であり、タイムも見知らぬ人と比較しても仕方がないので(あと本当に申し訳ないとは思うけれどもそれでもめちゃくちゃ速い先輩たちと比較してもやっぱり仕方ないので)やっぱり過去の自分と比べて速いか遅いかという捉え方しかできないわけで、基本はいつもと同じように、自分一人の世界で走れた。

それでも、同じチームの先輩を応援するのは楽しかったし、襷をもらう瞬間も、渡す瞬間も、やっぱりなんかじーんときて楽しかった。もう、思い出すよね、思い出さずにはどうしてもいられないよね、あれ

たまには誰かと並走することも楽しい

そして一番、なんというか、自分の成長を感じたのは、レースの前に、先輩たちとアップで2キロくらいを走った時、だったりとか、した。

よくランニングの記事とか見てると、「最初は人と話せるゆっくりのペースで」とか書いてあるけど、まじで絶対無理どれだけペース落としても人と話しながらとかしんどすぎてぜっっっったいにむり。と、ずっと思っていた。(だいたい人と一緒に走るのすら絶対無理だ私は。と、思っていた。)

でもこの日、たぶん先輩たちはもんっっっのすごい信じられないくらいペースを落として走ってくれていたと思うのだけれど(いけめん・・)それでも6分半くらいのペースで、息も上がらず笑いながら2キロ走れた。それは私にとってはちょっと奇跡に近いというかなんというか正直それが一番嬉しかったと後からオットに言ったら苦笑していたがでも本当の話なんである。

誰かと走るなんて絶対むりだと思っていた。一人でできるのが楽しい、それがランニングの良いところ、と思って1年間走ってきた。それは基本的に変わりはないのだけれど、たまにこうして誰かとレースに出たり、笑いながら並走したり、そういうのもいいもんだな、と思った。それは走ることの、新しい楽しみを見つけた瞬間でもあったし、もっと言えばたまには誰かと「並走」してみるというのは、自分にとって少し、大切なことなのかもしれないな、と思ったりもした。

ごく個人的な人間で、誰かと競争することすらできなくて、一人黙々と何かを書いて生きていたいと思っていて、半径3メートルくらいの世界しか普段たぶん見えていない。それでも、程よい距離感で誰かと並走していると、新しく見えてくる世界があるのだな、と、しみじみと思ったお話。

それでまた今日も、私は一人で黙々と走っております。

今日も走りながら考える

今日はギラギラ系じゃなくて微笑み系

ここのところ、タイムを速くしよう!という比較的ギラギラ系で走っていたのだけれど(なにそれ)まあ当然のことながらギラギラ系は全然自分に合わないので、今日の目標は景色を楽しみながらゆっくり走ること。いやいつものランニングコースなのだけれど。

キロ6分のペースを維持するようにして、あまりにペースが遅くなるようならそこはちょっと頑張って意識して上げるようにして、だいたい同じペースを維持。(ペースを途中で落とすと逆にしんどくなってしまう、私の場合)

特に前半の速くなりがちなところでは、意識的にペースと落として、とにかく同じペースを維持。という感じで、なんだかんだで16キロを走った。タイムはちょうどキロ6分の1時間36分4秒(目標より4秒遅かったけど)。

「景色を意識しよう」としたら、いつものコースなのに、川の水面に映る光のきらきらがやけに美しく見えたり、遠くに東京タワーが見えることに気づいたり、何なら自分のマンションすら綺麗に見えた。何だ、なんか変なホルモンが出てるのだろうか。

走り始めた頃は、何がどう転んでも、どれだけタイムが遅くても、しんどいものはしんどかった。何が何でもしんどかった。よくランニングのサイトや本を見ていると、「話しながら走れるペースで」とか書いてあるのだけれど、そんなもんどんなペースでも無理じゃわいあほなのかかく!と、思っていた。走りながら話すとかまじでむりむりむり、と、思っていた。

けど今日自分の目安として、走りながら話すは無理だけれど微笑むことはできるペースにしよう、と思い、たまに微笑みながら走った。もちろん一人である。隣には誰もいない。ホラーである。

ホラーだけれど、これで16キロを走りきれた。12キロ超えたあたりからさすがに結構しんどかったけれど、16キロ時点でも「まだ走れるな」という余力が、ほんの少し、残っていた。(もちろん微笑んだ。)

物事が続くのは、達成感だけじゃないのかも

やっぱりなにごとも、しんどいだけでは続かなくて、そしてきっと、「達成感」だけでも続かなくて、こういう、走りながら見える景色がやけにきれいに見えることとか、なんか自分、生きてるだけで儲けもんじゃない?と達観(というか楽観)できることとか、なんかそういう瞬間があるから、けっこうしんどいことも続けていけるのかもしれない。

たぶん仕事も同じで、私はいつも「どうせやるなら楽しく」という心持ちでやってきたけれど、そんなこと言ってもしんどいことも山ほどあるわけで、こつこつ地味な作業を積み重ねていかなくちゃいけないこととか、ハードな交渉に巻き込まれるとか(私は逃げるけど。)、確定申告とか、そういうそもそも楽しくないことだってもちろんある。

けどそういうしんどいことを抱えながらも続けていけるのは、仕事の「達成感」だけじゃなくて、隣にいる人が意外といいやつだなと気付いた瞬間とか、同僚としょーもない話で爆笑した時間とか、通勤中に出会うサラリーマンがかっこいいとか、なんかそういうささやかなことが、活力になっているのかもしれない。

そういう、日々の、普通の毎日の、ささやかな喜びというのは、実はすごく大事なのかもしれないなあ。その積み重ねが、もしかしたら人の幸せを作っているのかもしれないなあ。と、なんかそんなことを思った。走りながら一人で微笑みながら。

相当ホラーである。

「不健全な魂もまた、健全な肉体を必要としている」

毎日走っていたら、気温が少しずつ下がっていくことも(でもまだ半袖で走れる)、木々が色づき始めることにも、日々の細やかな変化に気づくことができる。通勤で歩くだけじゃ、会社に急いで向かう時間だけじゃ、なかなか気づけなかった季節の変化だなあと思う。だから私は、一人で微笑む。ホラーである。

村上春樹は、名著『走ることについて語るときに僕の語ること』に、こう書いている。

真に不健康なものを扱うためには、人はできるだけ健康でなくてはならない。それが僕のテーゼである。つまり不健全な魂もまた、健全な肉体を必要としているわけだ。

これ名言だわ、と、思う。

健全な魂が健全な肉体に宿ることは感覚的によくわかるけれども、不健全な魂に向き合う時にも、健全な肉体は必要になる。

悪しきものは、自分が思うよりもずっと簡単に、自分の身体や魂を蝕んでしまう。だから私はできる限りそういうものからは物理的距離を置くようにしているわけですが(めんどくさいことからもすぐに距離を置く)、必要な「悪しきもの」というのは何かを作り出す時には必要になってくるわけで、いつかそれにも向き合えるような健全さを身につけられるといいなと思う。

それは、強さというより、健全さだ。

↓ものすごく面白いです。何度も読み返してボロボロになっている。カバーもどっかいった。走らないときに読んでも面白かったけど、走るようになってから読んだらさらに面白い。

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初心者ランニングウェアでこだわるところ

ジェームスパースのTシャツとシークレットクローゼットのコットンパンツで走っていたけれども

いいかげんちゃんとした服装で走ろうではないか、と、走り始めて半年くらいたった時にようやく決意した。それまではいつまで続くかわからないし、だいたいめっちゃへなちょこタイムのくせに、ウェアだけちゃんとしてるのは恥ずかしい、と、思っていたのです。普段はなんでも物欲から入るくせに、こういうところは慎重というかなんというかなのです。

でもこれだけ定期的に走っているのだからもういいじゃないか、と、ちょっとしたごほうびの気持ちでランウェアを買いに行った。木更津アウトレットに。(セール以外のものを買う気にはまだなれない)

ちなみにそれまで私が何を着て走っていたかというと、ジェームスパースのTシャツと、数年前に買ったシークレットクローゼットのコットンパンツ。ある意味ぜいたくっちゃぜいたくだけれど、走りづらいことこの上ない。今思えば。

とりあえずランニングといえばなんとなくナイキだろうということ(初心者)でナイキに行き、ノースリーブのトップス、ブラ、ショートパンツ、スパッツ、くつした(それすらなかった)、シューズを購入。あと、これ買い忘れてたわ、と、後日アディダスショップへ行き、セールになっていた(何がなんでもセール)アディダスステラのキャップも。

誰がこのちょう個人的ランニングウェア事情に興味があるのだ・・・

いやここまで書きながら、誰が私のランニングウェア事情に興味があるんだという声がすぐそばで聞こえる気がするのですがそもそもそんなこと言っていたらこのブログなんて誰がなんの興味があるんだという話なので恥を忍んで続けますはい。

それまではニューエラのキャップをかぶって走っていたのだけれど(信じられない)スポーツ用のキャップってすごいのね、めっちゃ軽いし気にならない。これは絶対買った方が良いです。「買った方がいいもの」ってそこかよ、という気がしますが、そこです。

しかもこのキャップ、洗濯できる。いや、できるのかは知らんが私は構わずしている。特に困ったこともない。

これ、洗濯できるということはどういうことかというと、濡れても大丈夫ということなんですね。で、私ときたら、夏に屋外のプールで泳ぐときも使っています。スイミングキャップ代わりに。日よけにもなって一石二鳥。最高だわ、アディダスステラのキャップ。

やっぱり専用のウェアというものには理由があるようで、やっぱりちゃんとしたウェアというのは走りやすいのですね。まあ気分の問題のような気もするけれども。なんと言っても一番感動したのはアディダスステラのキャップなので。

ナイキの高級スパッツに手を出す

でもって会社を辞めてからは毎日走るようになったので、ウェアがひと組では足りない。と、言うわけで、もう一揃えすることにします、今度は御殿場のアウトレットで。(あくまでもアウトレット)

昔、御殿場アウトレットのアディダスにはステラアディダスの扱いがあったと思うのだけれど、これがなくなっていて残念でした。ここで買おうと思っていたのに。(あくまでもアウトレット)

そういったわけで結局またナイキにいったんですけど、スパッツを見ていたら、ナイキのおねーさんが、ランニング用ですか?それならスパッツはこれ一択です。と、勧めてくれたスパッツ。

じゃあそれにしよーと値札をみたらなんと。約1万円。いやなんの変哲もない(ように見える)黒いスパッツがですよ。1万円って。なんと高級。

なんといってもへなちょこ初心者の分際で、これに1万円を出すのはどーなのか。。。だって、最初に上から下までそろえたときもトータルで2万円弱だったのですよたしか。それをスパッツ一枚で1万円。。。

オットに、1万円のスパッツ勧められたわさすがに初心者には高いわ。。と、言ったところ、基本けちんぼ(失礼)のオットが、「いやいやスパッツとはそれくらいするもんだよ!そこはこだわった方がいいよ!」と珍しいことを言う。え、まじで、じゃあ試着してみようかな。。。と調子に乗るツマ。

ちなみにオットはランニングをするわけでは、まったく、ない。ただのスポーツウェアおたくである。なぜかスポーツウェアをいっぱい持っている。あのジャージかっこいい!と思っていた高校生くらいで感性がとまっているのだろうね。。。

試着してみたら、また別のおねーさんも出てきて二人がかりで「ぜったいこれです。特に長距離走るならこれ以外ありえないです。ぜったい。」と、熱弁される。そんなこと言われたら致し方ない、だまされたと思って買うわ!と、購入しました高級スパッツ。(アウトレットやけど。)

ちなみにこれです。(amazonにあった。便利な時代だ。)

 

これがめっちゃいいのです。着圧がすごくて例えるならばあのメディキュットみたいにきゅっとひきしまるのですが、これのおかげで走っていても疲れにくい、気がする。

いや、しんどいものはしんどいのです、走るのって。どれだけウェアをちゃんとしたところで、しんどいものはしんどいし、急激にタイムが伸びるということも全くない。魔法の一手のようなものが、一切ない、走ることって。ただコツコツやるしかない。

ただ、なんとなくこう、姿勢が崩れないという感じがある。ちゃんとしたスパッツ履いていると。気分の問題かもしれないけれど。

なので、10キロ以上走るときはこのスパッツを履くようにしています。5キロくらいだと安いもので全然大丈夫だけれど、10キロ以上だと良いスパッツの方がなんとなく気分が楽。

そんなわけでスパッツとキャップが大事だったという話

ちなみに「ランニングは全くしないけれどもスポーツウェアおたく」であるところのオット曰くおすすめのスパッツはこれだそうです。これもamazonにあった。

ほ、欲しい・・・

そんなわけで、これからウェアを揃えようという方がいらっしゃいましたら、キャップとスパッツ!に、こだわると良いかと思います。いやもんのすごい独断と偏見すぎて全く参考にならない気がしますが・・。(靴とかじゃないんや、っていう。)あとはやっぱり、気分のあがるものが良いですね。道具ってやっぱり大切だ。(結局そうなる。)

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ランニングに必要なたった一つのもの

 

 

 

またブログっぽいタイトルを書いてしまった。

走ってます、まだ。信じられないことに。

1月のハワイで走り始めた2017年もなんと11月。何をしても続かない私が。まだ。走っています。アンビリーバボー。

特に9月に会社を辞めてから、通勤というものがなくなったため、そして時間が有り余るほどあるため、平日はほぼ走っている。アンビリーバボー。そして10月、月の走行距離の目標を160キロにしたのだけれど、そうするとあまりに急激に走る距離が増えたせいか、後半足首を痛め、元駅伝選手の友達に「しばらく走るの休みなさい」と言われて走れなくなり、あえなく142キロで終えてしまった。こういう、「故障した経験」含め、もはやアスリートと呼んでもらいたい。ちなみにタイムはすこぶる遅い。

前に書いたこの記事を読みながら、むふむふかわいいやつめ・・・と、思っている怪しいのが私です。かわいいもんだ、こんなの。

10月半ばに、初めてクオーターマラソンというものに出場した。そう、とうとうレースにも出たのだ。もう、これはアスリートと呼んでもらいたい。ちなみにタイムはすこぶる遅い。

基本的に「一人でできる」スポーツであることと、ボールなどの道具を使わないスポーツであることが、ランニングが続く一番の理由でありたぶん私はそれ以外のスポーツは絶対にできないわけだけれど、だからして基本的にランニングなんて私の中で自己満足の世界なのだけれど、それだというのにレースに出たということはつまり、「何かに勝ちたい」という気持ちが湧いてきているということです。

そして「何か」というのはつまり、「過去の自分のタイム」です。もはやアスリートと呼んでもらいたい。

なんとなく、身体にも良いだろうと思って走り始めたわけだけれども、走るとどうしても、「もっと速く」「もっと長く」走りたくなってくる。私にはそういう、タイムを気にする、とか、なんともスポーツっぽい思考とは無縁だと思っていたのだけれど、10キロを60分をなんとか切りたい、というところから始まり、10キロ55分でなんとか、とさらに目標を高め、達成した今度は調子が良ければなんとか50分で・・・!と、思っているのが今日の私。(今の自分的にはかなり厳しいけど。)そして1年後くらいにはフルマラソンに挑戦したい・・と、心のどこかで思ってしまっているのが今の私。

でもやっぱりそういうちょっとした目標があると走っていてメリハリが出てくる。そして、結局そういう、速く走りたいとか、長く走りたいと思うようになると、もうちょっと姿勢良く走ろうとか、普段から筋トレして体幹鍛えておこうとか、足に変なストレスをかけないようにしようとか、色々気を配るようになる。もはやアスリートと呼んでもらいたい。ちなみにタイムはすこぶる遅い。

タイムを速めるために必要だったものそれは。

で。

私がもはやアスリートとして目標なんてものをいっちょまえに持ち始めた時、このタイムを速くする、という目標を達成するために一番役に立ったものは何か。それは、体力でもなく気力でもなく筋力でもなく。

アップルウォッチである。

もう。これは。走る人は今すぐに買ったほうがいい。

10キロ60分がどうしても切れなくて、なぜにこんなに遅いかなと思ってiPhoneのnikeアプリでラップタイムを見ていたところ、6〜7キロあたりでタイムがすこぶる落ちていた。

それを元駅伝選手の友達(勝手にコーチと呼んでいる)に見せたところ、これはしんどいわ。1キロ目をもっと落としていいから、ラップタイム安定させてみて。と、言われ、その足で銀座にアップルウォッチを買いに行った。ほんとにその足で。いつかほしーなーと、思っていたけれど、ランニングのタイムを伸ばすためという理由ができたならそれは今だ。今すぐだ。もはやアスリートと呼んでもらいたい。

ラップタイムを計るためならもちろん別にApple Watchでなくてもいいんやけど、洋服に合わせてもかわいいというところが確保されるならそれはもう私にとって迷うところは一切ない。Apple Watch一択。

いちいちポケットからiPhoneを出さなくても、腕を見ればすぐ、その時点でのタイムがわかる。その時点でのスピードを、キロあたりで計算して表示してくれる。ついでに言うと、そのまま帰りにコンビニでApple Watchをぴっとかざせば、デカビタCも買って帰れる。なぜかここのところデカビタCがやたらおいしい。アスリートだ。

目標のタイムをちょっとでも下回ると、その時点ですぐにちょっとスピードを立て直せる。細かくタイムを確認して調整することで、結局10キロ続けてタイムが安定して、あっという間に目標のタイムで走れるようになった。

そして、かーーーーなーーーーりーーーーー疲れづらくなった。いや、しんどいものはしんどいのだけれど、少なくともこの記事を書いた時みたいに、世の中全てにだんだん腹が立ってくるくらいしんどくてしんどくて死にそうだ、というレベルではなくなった。6〜7キロあたりでバテることもなくなった。

それまでは、走り始めの1キロ時点でのタイムが一番速くて、どんどん遅くなってくる、という感じだったのだけれど、それだと1〜2キロ時点がほんっっっとにしんどくてもうその時点で世界が敵になる。

けれど、1キロ目はとにかくタイムを抑えて、1キロあたりのスピードを、目標よりも5〜10秒くらい抑えて走る。で、だんだん、タイムを速めて行って、5〜6キロあたりからは目標より少し速めのタイムをを維持、最後9キロからさらに速めて走る、みたいな感じだと少なくとも1〜2キロ時点で世界を敵に回すことはなくなる。たぶん。

とにかく私は、最初に飛ばしすぎないことと、ラップタイムを安定させることで10キロを走るのがものすごく楽になった。いや、しんどいけど。しんどいものはしんどいんやけど。

で、調子に乗ってこないだ20キロを走ってみたら、これがもうしんどいのなんのってもうまた世界が敵になった。やはり10キロと20キロは違う。人生は甘くない。

しばらくは、ハーフマラソンを安定したラップタイムで走れるようになるべくまた練習したい所存です。ほんと、もはやアスリートと呼んでもらいたい。

確定申告はこわいけど。

走ることは出産のようだ、全然違うけど。

走り始めて約1か月のとりあえずのキロク

ハワイで走り始めて早1か月。ここのところは全然走れていない、週1回も走っていない。そんなへなちょこですが、できるだけ定期的に走っていきたいなと思い始めている。ので、ものすごおおおおおおく初心者の今の気持ちを一応残しておこう、と、思いついた。

1年後、ペーペーのくせにこんなこと言ってるわ・・・と、思うのか、この時から全然成長していないな私・・・と、思うかは、今の所もちろん全くわからない。

普段から走っている人にとっては何ら面白くないというかふざけるなといった話かと思いますが、初心者の記録なので大目に見ていただけますと幸いですほんとごめんなさい。(先に謝る)

ハワイでは海までの道をだいたい往復3キロ、4日間毎日走った。ワイマナロのきちんと舗装されていない道だったというのもあってか、というかまあ走るのなんて何年ぶりだろうというのも、3キロちょっとでゼイゼイハアハア言って全然走れなかった。いや、走ったのだけれど、その距離ですっかり疲れ果てていた。

毎日きれいな海まで走るのはなんだか楽しかったような記憶もあるのだけれど、それはハワイのきれいな海を見ながら走るというのはそりゃあ楽しかろう、という、過去を振り返ってなんとなく美化されている感覚のような気もしている。実際走ってる時はもっとしんどかったのかもしれない。

東京に戻ってから走ってみると、高低差は意外とあるものの、東京の道というのはやっぱりきれいなのですごく走りやすくて、一気に5キロまでは走れるようになった。それでもやっぱりしんどいものはしんどい。会話を楽しみながら軽やかにジョギング、とかよく言うけどあんなの絶対無理だ・・・と、何度も思う。でもなんとなく、ある程度距離を走ってみたいなあという感覚も生まれてきた。昔から、「早く」は苦手だけれど「長く」は結構得意だったような気がする、そういえば。いや、この時点でまだ5キロしか走ってませんけども・・・。

そして今日は、「10キロ走ろう」と、なんとなく決めてスタート。iPhoneせんぱいの「1キロ通過・・・」「2キロ通過・・・」を励みに走る。いやもう途中6キロ地点くらいが本当にしんどくて、なんでこんなことをしてるんだとか、なんでこの道上り坂なんだとか、そもそも私はなんで走り始めたんだとか、なんで10キロって決めたんだ別に5キロでいいじゃないかとか、そもそもこの靴もしかして走りづらいんじゃないのとか、だいたいこんなしんどいことをするとかあほなんじゃないかとか、まあもう色々な思いが巡る巡る。あほなのかな私うんあほなのだなと結論づける(※あくまでも個人的な見解です←よくあるテロップ)

※あくまでも個人的な見解です

なのだけれど、8キロすぎて9キロすぎて10キロが見えると、やっぱりうれしくなってきて、これはいけるなという感じがしてくる。ただし、5キロ走ってた時とは違って、ゴールが見えてくるからスピードアップ・・・とはいかず、物理的に足が結構痛くなっていて、機械的に交互に足を前に出すことしかできなくなっていたのでタイムはほぼ横ばいで上がらず。(ただ先週5キロ走った時から1キロ当たりのタイムは落ちてもいないのでそれはそれでよく頑張ったと自分で自分をほめてあげたい。と言ったのは誰やっけ。オリンピック選手やったっけ。)

これに関しては、初めて10キロ走ったからまあ足もびっくりしたのだろうとは思うけれど、とはいえたった10キロな訳で、世の中にはもっと長い距離を走る人もいるわけで、というか、実感として人間はきっともっと長い距離を走れるだろうという感じはあって、そうすると走り方とかももっと足に負担がないように気にした方がいいのかもしれないと思ったりした。これは課題。メモ。

そんなわけで、6キロ地点で「こんなランニングする人とかあほだ(※あくまでも個人的な見解です←よくあるテロップ)もう私は二度と走らない決して走らない」と思ったのもつかの間、走り終わったら「まあまたこれ続けていってもいいかもなそのうちハーフくらいなら挑戦してみてもいいんじゃないかな」とか思っている私はほんとうにあほなのだと思う。(※あくまでも以下略)

しかし、そういえばあれは上の子を生むときの陣痛の最中、「こんな痛いとかまじできいてないこんなんみんなやってきたとかどう考えてもおかしい正気の沙汰じゃないっていうかこれで二人目生もうと思うのとかほんとうにあほだどうかしている(※あくまでも以下略)」と、思ったくせに、生んでみたら「まあいいかもう一回くらいあっても」とか思ってしまう私はほんとうにあほだなと思ったけれどもそれと同じだな。いや、全然違うけど。

そういったわけで、人は忘れてゆくいきものですが、私はほんとうに昔から何もかもをほんとあっという間に忘れていく人でして(忘れ物もしょっちゅうでして)だから痛みもすぐに忘れてしまうらしく、だからきっとまた走るのだと思う。うん、あほだな。(もう断言)

そんなわけで、走り終わったらもう抜け殻のようになって足痛いわ眠いわだるいわでその後何も手につかなくなったけれど、でもまた走りたい、できれば10キロくらいはさらりと走れるようになりたい、と、思う。そんなさらりと走れるようになるとは到底思えないけれど。

1年後、10キロ走っただけでフルマラソン走ったみたいな顔してるよこの人、と、笑えるくらい、軽やかに走れるようになっていたい、なんかまたあほなんじゃないかと思いながらゼイゼイハアハア言ってそうな気もするけれど。

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