雑感

心の中で生き続けるということ。成人の日に思い出す、ひとっちゃんのこと

成人の日が来ると、いつも、成人式に来られなかったひとっちゃんのことを思い出す。

わたしが生まれ育った町はとても小さな町で、中学校がひとつしかない。だから成人式は必然的に、中学校の同窓会になる。そこに一人だけ、来られなかった同級生がひとっちゃんだ。

田舎の中学校で、みんなまあやんちゃだったけれど、そういう学校にありがち・・なのかはわからないけれど、なぜかみんな部活だけはちゃんとやっていた。

私たちはそこで、「部活のメンバーに迷惑をかけない」ということをひたすらに学んでいた。「先生に怒られること」よりずっと、それはしちゃいけないことだった。そういう中学校だった。

ひとっちゃんはその気質が人一倍強かったような気がする。

しょっちゅう先生とけんかをして、謎に学ランを改造して、よく怒られて、でも友達にはとても優しかった。

うちのお母さんは、「ひとっちゃんは遠くからでも私のこと見つけたらこんにちはって挨拶してくれはる。ほんまいい子やなあ。まいちゃんの友達は、まあやんちゃやけど、心根が優しいわ」と、いつも言っていた。

だけどひとっちゃんは、誰よりも先にこの世を去った。突然に、さよならも言わずに。

高校一年生になったばかりの夏、花火大会の日に、事故で亡くなった。

その日、花火大会の最寄駅についた時、ひとつ下の後輩が、私を見つけて走ってきて、「まいちゃん、ひとしくんが…」と、目にいっぱい涙をためたまま、言葉に詰まった。

なんでもかんでもすぐに忘れる私だけれど、あの時、その浴衣姿の後輩が、金髪の髪を巻いて、めいっぱいおしゃれをして、メイクもして、とてもとてもかわいかったことだけは、なぜかすごくよく覚えている。そのあとどうやって家に帰ったのかも全然覚えていないのに、ただそのことだけを覚えている。

私たちはあの日、初めての誰かとのさよならを知った。もう二度と会えなくなるということが、本当にあるのだと知った。本当に悲しい時、人は涙も流さないのだということも知った。どうしてもかなわない願いがあることを知った。

今でも、15歳のあの夏の日、ひとっちゃんが亡くなってから、もう20年近く経とうとする今でも、ふと、時間が止まっているような気がすることがある。

私の記憶の中のひとっちゃんが、今も同い年くらいのように思えることがある。

やんちゃでも、いつも怒られていても、それでも、ひとっちゃんは、もしかしたらあの頃の私よりもずっと大人だったのかもしれない。もしくは記憶の中で少しずつ、ひとっちゃんも歳を重ねたのかもしれない。

成人式の日、私たちはみんなで、お墓まいりに行った。

慣れない振袖を着た私を、やんちゃだった、まあやんちゃどころかヤンキーみたいだった男子たちが、車から降りやすいように手を貸してくれた。みんなとても優しかった。

ひとっちゃんみたいなことをするな君たちは、と、私は思った。みんな大きくなったんだな、時間は過ぎていくんだな、と、私は思った。

あれから幾つかの、さよならを経験した。私はたぶん、少しは大人になった。痛みをたくさん知った。

それでも、もしかすると、ひとっちゃんとのさよならを、私はまだ乗り越えていないんじゃないか、と思うことがある。誰かとのさよならは、心の奥の奥にずっと残って、「乗り越える」なんてことが、できないのかもしれない。だけどたぶん、それでいいのだ。

いつまでも私は心の中でひとっちゃんに頼り続けているけれど、何かの場面でつい、名前を呼んでしまうことがあるのだけれど、20年間もそれが変わらないのだけれど、でも、今でもそうやって心の中に大切な誰かがいるというのは、それはその人が、生きた証だ。

ありきたりな表現だけれども、心の中で生き続けるというのは、そういうことだ。

ともに時間を積み重ねて来られなかったことを、私はこの先も一生悔やむのだろう。でも、誰かが生きたこと、残してくれたもの、そういうのは、きっと人生の大切なものになる。

春の風が吹くたび、私は中学生の頃のあの体育館を思い出す。バスケットボールの響く音や、乾いた風の匂いや、バレーコートの破れたネットや、そういういろんなものを。そしてひとっちゃんがバスケットボールをたたきながら家の前の道を通って、二階にいる私に呼びかけたことを。家の前で何時間も話したことを、その時話した夢を。

もう戻れない、その時間を。

大人になるにつれ、みんな何かを抱えながら生きるようになる。その記憶に、たまに心を揺さぶられながら、支えながら、歩いてゆく。

35歳になった今も、15歳の、もう息子との方が歳が近いあの頃のひとっちゃんに支えられているなんていうのも、なんだかおかしいなと思いながら。

強い言葉を使うのは、得意じゃないけど

9年前からあふれていた強い言葉たち

もうすぐ8歳になる(!)息子の妊娠中に、twitterに出会った。周りにママ友なんて一人もいなくて、母も亡くしていて、不安だらけの私にとってtwitterは大げさでもなんでもなくオアシスだった。

その頃は今よりもきっとずっとtwitter人口は少なくて、まあこれは今もかもしれないけれど、ある程度の表現欲求があったりとか、何かこう、軸や芯を持つ人が多かった。その頃はにんぷさんや仕事の近そうな広告業界の人たちをフォローすることが多かったけれど(そしてにんぷさんたちは今も大切な友達になってくれているのだけれど)みんなしっかり自分の意見を持っているなあ、という印象だった。

だからなのか、その頃からtwitterには、力強い言葉があふれていた。社会的な歪みに怒る声や、子育ての不公平さに怒る声。そして「ワーキングマザー」という言葉がよく見られるようになったのもこの頃だったと思う。

特にこの「ワーキングマザー」たちのある種の怒りやパワーはすごかった。約9年前だ。今よりももっともっともっと、働くママさんという存在は、本人も会社も社会も手探りの状態だった。誰かが、大きな声で、何かを主張しなきゃ変わらない時期だったのだろうと、今振り返ってみて思う。

それでも白黒つけた物言いができない

その中で私は、どうしても、白黒はっきりつけた物言いができなかった。会社の制度はこうあるべき、にんぷさんに対してのマナーはかくあるべき、さらに、女性はこうあるべき、ワーキングマザーはこうすべき・・。

正直、その頃はどれが正しいのか自信がない、というものあったし、どこかで、強い言葉の威力で見知らぬ人を追い詰めたりしないだろうかと、怖かったというのも、ある。そしてそういう自分は、なんとなく弱いんじゃないかなあと、思っていた。こんなんで、「ワーキングマザー」とやらをやっていけるのかなあと、不安にもなっていた。

あれから9年がたった今、その頃のことを思い返してみるのだけれど。結局私は今も、「強い言葉」を使うことが得意じゃない。

天ないのマミリンみたいにはなれないけれど

3、4年ばかり距離を置いていた間に、twitter界隈の有名な人というのも様変わりしていて、いろんな「インフルエンサー」の人がたくさん登場していた。みんな、上手に「強い言葉」を使うなあ、という印象を持った。何かにはっきりと怒り、主張があり、それを感情的だけでなくロジカルに表す。

すごいなあと思う、かっこいいなあと思う。ずっと、はっきりとモノが言える人にちょっとした憧れはあったと思う。天ないで言うとマミリンみたいな。

だけど、3年経っても4年経っても9年経っても変わらないのであれば、まあ私自身は無理に強い言葉を使わなくてもいいのかな、それはそれでいいのかもな、と、思うようになった。それでもなんとかここまで、やってこられてはいる。もちろんまだまだだと思うところはかなりあるけれど。

そもそも自分にとって、これだけは譲れない、という、主張できるものって、もともとほんとうにものすごく少ない。(もちろん、少しだけはある。そりゃ、もちろん。誰だってそうだ。)たいていの物事は、裏も表もあるからなあ、と思っている。それ自体がどうなんだ、とずっと思っていたけど、まあそれが、私という人間なのだろうなあと、最近は少し思っている。

目立つような強い言葉は使えないけれど、たぶんそれが自分にとって、使いやすい言葉なのだ。みんながみんな、同じ言葉を使う必要はない。人には人の言葉や文体が、たぶん、ある。

それでも一つだけ変わってきた視点

ただ少しだけ、変わってきたなと思うのは、その強い言葉を使えない理由に、昔は「自分が嫌われるのがこわいから」というのがかなり大部分を占めていた、という部分があると思う。これはたぶん、息子が生まれてからのこの8年間で、私が一番向き合ってきた課題だ、と思っている。そして少しずつだけ、変わってこられたな、と思っている部分だ。もちろんまだ完全にとはいかないけれど。

できる限り(それでも100%は絶対無理なのだけれど)言葉で人を不必要に傷つけることのないよう、ということは、何より慎重になりたい部分だけれど、「嫌われないように」という保身は、全然なーんにも生まない。その視点は、意識的にとっぱらっていきたい。

その上で、自分は自分なりに心地よい、自分の言葉で色んな物事を、紡いでゆけたらいいなと思う。

まあそんな私にでも今使える強い言葉といえば例えば「おいそろそろ再起しろよヤクルトスワローズ。」くらいでしょうか。ええ。まじで。ほんと。

球場に一人でリュックを背負って来てビールを飲むおじさんになりたい

だいたい野球のことを考えている

本当に一日の80%くらいは野球のことを考えている。許されるならば一日中、野球のYouTube見て過ごしていたい。とりあえずこないだ夜な夜なエイオキ(青木)が出ているYouTubeを見まくっていてわかったことは、鳥谷まじいけめん。ということである。あんな人早稲田にいたっけ・・・私は本当に無駄な学生生活を過ごしたような気がしてきた。知ってたけど。

あと今浪さんのヒーローインタビューがいちいち最高で笑った。ニヒルっていいわ。

最近いつも思うのは、そのうち子どもたちがそれなりに大きくなって自分で学校へ行けるようになって手がかからなくなったら、神宮の近くに住みたい。ということである。

これもエイオキが出ているYouTubeを夜な夜な見ていた時にわかったことだけれど、石井一久がメジャーからヤクルトに戻ってきたのは、古巣への愛でもなんでもなく、「立地」だということである。石井一久、天才。(ついでに、西武にあれだけ通えた自分は本当に偉い、とも言っていた。それも理由は、「立地」。まじで天才。)

まあそれだけ立地の良い神宮球場ですから(駅から遠いけど)そんな簡単に住めるもんじゃないですけれども一つの夢なのでそれはそっとしておいてくださいはい。

あそこの何がいいって、神宮外苑をランニングすることもできる。村上春樹も言っている。今の家も個人的に好きなランニングコースがあって満足しているので、そうするともう良いランニングコースがないところには住めないのでは、と、ちょっと思っている。(人は変わるものである)

で、神宮の近くに住んで、朝からランニングして、コーヒー飲んで、原稿書いて、お昼寝して、あとは何がしたいかというと、もちろん夕方からふらりと球場に行くのである。もう野球が始まっているくらいの時間にふらりと一人で行って、生ビールを飲んで、風にあたりながら試合を見て、あー今日も負けたかまあ人生そういうものだ、と思いながらとぼとぼ岐路につくのである。

イメージは、黒いでかいリュックを背負って、ヤクルトのキャップをかぶって、一人で球場へ来てビールを飲んで、点数が入った時だけおもむろに傘を取り出すおじさんである。で、その時だけ隣にいる小学生の男の子にニコッと嬉しそうに微笑んで、ぼく、野球好きか?と聞くのである。

そう、よく遭遇するのだ、そういうおじさん。たいてい、両隣のどちらかには座っている。で、勝ったら息子に、ぐっちの応援グッズくれたりする。きっとずっと、ヤクルトを応援し続けているんだろう。そして多くの年は負け続け、ちょっとした悲しみとともに人生を生きているのであろう・・・。でも優しさを知るのだ、そういう人は。ヤクルト好きのおじさんに悪い人はいない。(特に負け惜しみではない。)そういう人に、私はなりたい。

というわけで、10年後くらいは神宮の徒歩圏内に住むべく、私は今日も頑張って生きていきたいと思います。でも弱いはずのヤクルトが三連勝もしてしまって私は本当にちょっとどうしていいかわからなくなっている。でもまあとにかくヤクルト好きの気の優しいおじさんたちに、たまにはものすごく良い夢を見させてあげてください、と、少し願ったりしている。

ヤクルトが二連勝なんてしたから考えたーー胆力を蓄えること

やっぱり負けに慣れておくことは大切だという話

ヤクルトが連勝した。信じられない。そんなの見たことない。去年の夏に一度だけ連勝してるところを見た気がするけど、あれは幻だったのかなと思うくらい、それ以来一度も見ていない。信じられない。

「だめだ、勝つことに慣れちゃいけない、何事も勝てばラッキーくらいの気持ちでいることは重要だ、これ以上高望みしちゃいけない、バチが当たる…」とぶつぶつ言っていたら、オットに「ねえ落ち着いて、たった2回、勝っただけだから。」と諭された。

そんなわけでこの週末はずっと、DAZNをクロームキャストでテレビにつなぎ、試合を観ていた。

私は昔から、スポーツに自分の人生を重ねるなんてちゃんちゃらおかしい、なんならださい、とまで思っていたはずなのですが、とりあえずこの開幕戦では、33歳になって新しいポジションに挑戦することになり、そこを必死に守り、打つべきところでしっかりヒットを打ち、得意分野の外野ではピンチを救う守備を見せつけてくれるいけめんぐっちに最高に励まされていた。そもそも10数年いたチームを卒業して別のチームに来て、這い上がってここまで来るなんていうところが泣ける。34歳で会社を辞めた私、がんばらなきゃ・・と、すっかり自分の人生を重ねあわせている。もう、ださいどころの話じゃない。うん、ださくなんてない。

そして、期待を一身に背負ってI’m back!してきたエイオキ(青木選手)の、やるべきところでしっかりやる、その姿にすっかりやられてしまった。

エイオキは、過去のインタビューで、不調になった時はどうしていますか?という質問に、「負けそうになる時はもちろんあるけれど、それはメンタルで負けてるんじゃなくて、間違いなく、技術の問題です」と答えている。毎日毎日練習をしていて、疲労がたまる、そうするとそれまでできていなかったことができなくなる。それに悩んでメンタルがやられることはあるけれど、そこでできることはやっぱり身体を整え、鍛えることだ、と。

私は完全なる「非」体育会系なので、何事もストイックなことは苦手で、努力とかはなるべく外に見えないようにするのが良いと思っていた。もしかしたらどこかで、努力そのものすらカッコワルイと思っているところがあったかもしれない。

だけど日々身体を動かすようになると、「何もせずに手に入るもの」なんていうのはやっぱりないのだな、と、思い知らされる。身体というのは特に正直で、やっぱり動かした分だけ変化があるし、動かさないとそれはそれで明らかに変化がある。(多くは良くない意味で)

たぶん、野球選手なんてきっと、その事を痛いくらいにわかっているのだろう。私なんて、34にしてやっと知ったのに。あほだ。

身体というのはすごくわかりやすいけれど、それは例えば「書く」ということにしたってきっと同じだ。「書く」ことって思いの外、体力仕事なのだなと思う。頭を使うことも、物理的に、いすに座り手を動かすということそれ自体でも。だからそれはきっと、ある程度は日々鍛える必要のあることなのだ。

生きていると、「ここぞ」という場面がやっぱり、ある。今やらなきゃいつやるんだ、という場面がある。大事なのはその時に踏ん張れる胆力をちゃんと持っていることだ。それは、生まれつき持っているものなんかじゃなくて、やっぱり鍛えなきゃいけないものだ。(そしてそのためには普段は6割くらいにチカラを緩めて、休ませておくこともきっと大切。)

まあそんなことを考えていたらもちろん、ヤクルトは翌日には負けた。そりゃそうだ。負けないわけがない。きっと胆力を蓄えているのだな、うん・・・

日々は続く、それに、救われているーー命日に野球を観ていた話

会ったことがあってもなくても、大切な人たちへ。

こういうことこそさらっと書きたい。

母の12回目(たぶん)の命日が過ぎました。この12年の間に、結婚したり、出産したり、会社辞めたり、妹が成人式を迎えたり、就職したり、まあそれなりにいろんなことがあった。

でもこの12年間を振り返ってみて、気持ちの面での一番大きな変化というのは、「母が亡くなったことに関して自分を責める気持ちがゼロになった。」ということに尽きるな、と思う。

そしてもしかしたらこの12年間は、その気持ちとの戦いだったのかもしれないな、と、少しだけ思う。

母が亡くなった日、私は朝から近所のスポーツセンターで1キロを泳いでいた。前日、弱気になった父から、「もう母さんダメかもしれない」と、電話があったばかりだった。

そういうことを言われると、私だってもちろん弱気になる。でも、無心に身体を動かしていると、「確かに、もう病気が完治することは難しいかもしれない。でも、ちょっとだけ体調がよくなって、みんなで最後に温泉に行ったりとか、そういうことは可能かもしれない。」と思えるようになった。

絶望感に押しつぶされそうな毎日で、そうやって小さな希望を見つけることは、今思えばすごく大切なことだった。そしてそれはきっと、身体を動かすことでクリアに見えてくるものだった。(その頃、とにかくプールでよく泳いでいた)だから父にも、「そういうことは言うもんじゃないよ。湯布院行けるかもしれないよ。少なくともそういう心持ちで過ごそう。」と電話をした。

でもその日、母は天国へ行ってしまった。

小さな希望を必死でつないで、毎日毎日襲ってくる絶望感を必死で押し返して、もちろん家族はみんな、とても頑張っていた。母自身も、見たことがないくらい弱気になってもそれでも、いつもユーモアを持っていた。(だから私はこの世で一番大切なものはユーモアだと信じている)

映画なら、ここで奇跡が起こるんだ、というくらい、みんな頑張っていた。ここで日々が失われてしまったら、この映画に救いが何もないじゃないか、というくらいに。

それでも、現実は、映画のようにはいかない。

小さな希望で日々を紡いでいても、それは、乱暴なまでに奪われてしまう。

病気だって、失恋だって、どんな悩みだって、「これ以上悪くなることはない」ということしか知らなかったのに、「どんどん悪くなって最後はもっと悪いことが起きる」ということがあると、初めて知った。いつでも、ここから日々は少しずつ良くなっていっていたのに。

理不尽なことが起きると、なんとか理由を探し出そうとする。そして理由探しのために、自分が悪かったことを見つけようとする。「私がダメだったからこうなったんだ」と思うことで、なんとか自分を納得させようとする。それはとても不健康なことだけど。

もし、母に健診を勧めていたら。もし、長女の私がもっと早く病気に気づいてあげていたら。

そういう気持ちが、いっぱい襲ってくる。

でも、12年間で気づいたのは、そういうのは全く、全然、意味がない、ということだ。

「あの時もし」なんていうのは、考えたところで何も生まない。そこにあるのは、目の前の現実だけだから。

そして残された人がそんな「もし」で頭をいっぱいにすることを、先にゆく人は、1ミリも望んでいないだろうと思うから。

「起こってしまったものは仕方ない」と、ただ受け止めることは、簡単にはいかないけれどもそれでも、すごく大切なのだ、たぶん。

大切な人を亡くした時、そして「なくすかもしれない」と思う、その絶望感は、言うまでもなくあまりにも大きい。

それでもやっぱり、残された人にできることは、先にゆく人と生きた時間を胸に、ただ、日々生きてゆくことだけだ。ただ生きること、それしかできない。

そして、「日々生きてゆく」ということは、どういうことなのかというと、毎日寝て、起きて、ご飯を食べて、目の前の家族とただ笑いあうという、それだけの、ただそれだけのことなのだろうと思う。

今年の命日は、お墓まいりにもいかず、実家も帰らず、息子の習い事から帰った後、東京の自宅で家族みんなでダラダラとDAZNでヤクルトの試合を観ていた。(もちろんヤクルトは負けた。)

そこには、子どもたちのいつものケンカがあって、もうビールあけちゃったよ晩御飯作るのめんどくさいなあという、いつもの怠慢があって、それでも、まあなんか良い休日だなあと思える、何かがあった。

日々は続く。あの頃想像もしなかったようなことが起こったりも、する。(例えば、興味がなさすぎてルールすら知らなかったプロ野球を観るようになってファンクラブにまで入るとか。)でもそれはある意味において、とても素晴らしいことなのかもしれない。

あの日、これからも日々が続くことを、当たり前のように今年も来年も桜は咲くのだということを、心底辛く思ったけれど、それでも、続いてきたこの日々に、私は救われてきたのだろうと思う。

そこで出会った人たちや、生まれてきてくれた子どもたちや、あの頃は知らなかった小さな希望に支えられて。

今年、誰かとのさよならを抱えて、桜を見上げる誰かの、その痛みが、繰り返される日々の中で少しずつ癒されていきますように。

 

「二枚舌」を使わないように心に決めた話

フリーになって気づくあれこれ

フリーで仕事をしていると、なんというか会社員の時には見えてこなかったあれこれが、くっきりと見えてくることがある。そして、今までの自分についてちょっと色々反省したりする。

例えば、二枚舌。で、ある。

これ、会社員の頃、自分も使ってたと思う、正直。多分、結構、普通のこととして周りにも存在していた気がする。

取引先に話すことと、社内で話すことが違ったり。そういう場面に出くわしたり。そう進めるように言われたり。それはいわゆる「ホンネとタテマエ」的なこととして、当たり前のようにそこにあったような気がする。

だから、誰かの二枚舌に気づいても、まあそんなものだろうと思って、対して気にしていなかったと思う。

「まあ仕事だし。オトナだし。事情があるし。」と、いった感じで。でもこれ、フリーランスになっていざ目の当たりにすると、結構な衝撃があるのです。

フリーランスになって濃くなる人間関係

個人の立場としてクライアントと向き合っていると、なんというかやっぱり関係は濃ゆくなってくるわけで、それは正直、会社員の頃の「人間関係」より濃くなったと思う。

個人的には「濃い」人間関係を築く人はほんの数人で良いと思っているし、実際私が本当に濃ゆい関係なのってほんの数人だとは思いますが、それでも仕事での関係が濃くなるというのは、それはまあそんなに嫌なもんではない。仕事上の濃い関係、というのはお金が絡む分ある意味ドライだったりするわけで。濃いけど、ドライ。そんな感じ。

その「濃い」中でふと「二枚舌」に触れる瞬間がある。その衝撃が、結構、でかい。

触れる頻度としては、会社員の頃とそんなに変わらないのだと思う。むしろ減ったかもしれない。(関わる人は随分と減ったし。)

じゃあなんで、頻度が減ったのに衝撃がでかいのかというと、たぶん、会社員の頃は「二枚舌」に触れたところで、こちらの立場も、組織の中の一人でしかないわけで、まあ会社に対しての二枚舌だな、と、捉えていたのだと思う。で、そのある意味麻痺した感覚が、プライベートにも浸透してしまっていたところもあったかもしれない。

でもこう、一人でやっていると、どうしてもその濃ゆい関係の中で個人に対しての「二枚舌」として直に受け取るわけで、そうすると、衝撃が、数倍でかいのだ。

そして我が振りを思いっきり直したい

で、ここで私が思うのは、ひたすらに、「気をつけよう・・・」と、いうことだ。それは、振り回されないように・・とか、騙されないように・・とかではなくて、自分が絶対にしないように、という意味で。

これ、誰かを責めているとかでは全くなくて(本当に。)自らを振り返ってみて、絶対にやっていたよな、会社員の頃、と、思うからだ。

でもフリーランスになってみて、その衝撃のでかさに触れてみて、個人で仕事をするにあたって、誰かに(相手が組織であれ個人であれ)二枚舌を使うようなことはしちゃダメだ、と、つくづく思ったのである、ほんとうに。

こういうのは交渉のくせみたいについていたりするし、と、いうことは、もしかしたら子どもたち相手にもしてるかもしれないし(必要なウソ、みたいに思ってやっちゃいがちだったかもしれない)いや、ダメだわそれ本当、と、反省している、今日この頃です。

一人になってみて気づくこと、環境が変わって知ること、というのはたくさんあるものです。

誠実に愚直に、仕事をしていきたいと改めて思う、年度末。(年度という概念がほぼ消えたけど。)(請求書遅くなっててすみません・・・)

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東京で通い続ける場所があるということ

なんと3ヶ月しかあいてないのに美容院へ行った。

髪を切りに美容院へ行った。ロングの時期が長かったのだけれど、1年前だったかもうちょっと前だったかにバッサリ切って以来、ちょっとでも伸びるとすぐに気になって美容院へいくようになった。

なんといっても、ロングの時は半年に1回しか美容院に行っていなかった。いつも気づけば半年が過ぎていた。

しかし。髪を切ってから私は生まれ変わった。なんと3か月に1回美容院へいくようになった。すごい。これはすごい。奇跡だ。

髪を切りながら、そうかこのお店に私はもう上京以来ずっと通っているのだなあ・・と、しみじみ思った。それってもしかしてちょっとすごいことなのでは。と。

この美容院に通い始めてからの自分の変化

上京以来、私に何が起こったかというと、大学に入学し、卒業し、就職し、結婚し、出産を2回し、会社を辞めた。それを、この美容院は全部知っているのだ。ちょっとすごい。まあ、年に2回しか行ってなかったけど。(それなのにそれを全部覚えてくれている美容師さんほんとすごい。)

東京に出てきてから、今年で何年目だろう、16年めになるのかな、そろそろ、京都より東京の生活が長くなりそうだ。その人生の約半分をかけて、通い続けている場所っていうのは、実はそんなに、多くない。

同じ東京でも住んでいる場所は学生の頃から数えて4回変わり、もちろん生活圏内も変わった。学生の時と、社会人になってからだと、飲む場所もお店も変わった。(まあやっていることはあんまり変わってない気もするけど。。。)

右も左もわからぬまま憧れのダイカンヤマへ行ってそのわかりづらすぎる道で迷った上京2日目の私と今の自分では、さすがに行くお洋服屋さんだって変わってきた。その頃から変わらず行っているブランドとかお店って、さすがにない気がする。それはちょっとさみしいけれど、まあでも年齢によって好きなブランドが変化していくのはある意味自然なことだ。

そう思うと、ほんとに、美容院くらいなのだ。ずっと通い続けている場所って。

初めてその美容院へ行った頃は、専門学校を出たばかりのアシスタントさんたちがみんな自分と同い歳くらいだった。そのアシスタントさんたちが、自分より歳下なのか!と、気づいたのは、就職してから結構経ってからだった。

遅い。高校球児たちが自分より歳下だと気付くのにも相当時間がかかった。遅い。まあこんな風に私は自分が歳を重ねていることをつい忘れるわけだけれど、通い続けていると、さすがにそのことも痛感する。だいたい周りの人が同い年とか歳下になっていく。

美容院というのは、話すのが苦手でもライフスタイルの変化の話をしがち

そもそも私はあんまり美容院やネイルサロンでお店の人と話すのがそんなに好きじゃなくて(めんどくさい)、基本的にはほっておいてほしい(なんといっても生きていく力に欠ける)。

そもそも美容院(もしくはGINZA SIXの蔦屋書店。それは今。)くらいでしか雑誌を読まないから、まあ美容院ではおしゃべりより雑誌を読みたい。読みかけの本があればそれも美容院に持ち込むし、それを読みたい。

そんな感じなので、美容師さんとたくさんおしゃべりしてる方ではないのだけれど、そんな自分でも、美容院というところは、ぽつりぽつりとライフスタイルの変化を話しがちな場所なのだ。

「シューカツするからちょっと髪色落ち着かせたい」と言えば「どんな業界受けてるの?」という話になり、職種の話もした。「実は結婚するから式に向けてちょっと伸ばしたい」といえば「そっかじゃあ顧客カードの名前書き換えるね!」と、新しい名字をおしらせした。

「実は妊娠中で出産したらしばらく来れないから、伸びても大丈夫な髪型にしてほしい」といえば「それは楽しみだね!女の子?男の子?」という話になった。

「上のお子さん何歳だっけ?もうそろそろ小学生だよね!」という話もついこの前にした。そして、「会社を辞めたから平日のこんな時間にも来られるようになったよ」という話をして、「おめでとう!そっか新しい仕事どう?」と、新しい仕事の話をした。

何と言っても、だいたい年2回、多くても4回ほどしか行かないわけだけれど、それでもコンスタントにずっと、この美容院は自分の変化とともにあったのだなあと、改めて思った。

目に見える資格やスキルだけじゃない、力を自覚すること

美容師さんというのはやっぱりものすごく会話のうまい人たちで、いつも何かしらの気づきをくれる。(いやまじであの人たちプロですよねすごい。終わった後全部メモしてるのかなあ、全部覚えててくれてほんとすごいと思う。)そしてその会話の内容は、やっぱり18歳から今までで大きくかわってきた。

前に、「美容師さんは手に職があっていいですよね、どこでも仕事していけるから。」という話をした時に(たぶん、私はその頃会社を辞めようかと漠然と考えていたのだと思う。)「いやでも美容師にとって一番の強みって、資格じゃないと思うんです。」と、その時たまたま担当してくれてた美容師さんが教えてくれた。

「こうやってお客さんとお話するコミュニケーションのスキルとか、あと次世代を育てていく力とかマネジメント力とか、そういう方がどこでも通用する力になるなと思っていて」と、その美容師さんは言っていて、なるほど!と、思った。

もちろん人それぞれに考えはあって、自分はハサミ一つでやっていくんだ!と、いう人もいるだろうしそれはそれでいいと思うのだけれど、自分の仕事からこう広がるスキルを自覚するってすごく大切だな、と思う。

目に見える(履歴書に書けるような)資格だけではなくて、そして美容師であれば「髪を切る」という分かりやすいスキルだけではなくて、長く続けてきた仕事にはきっと、誰から見てもわかるようなもの以上の、力がついているものだ。それをちゃんと自覚できるってすごく大切なこと。自分の力をいろんなことに応用していける、そういう柔軟性があるって良いな、と思う。

その時々で、美容師さんに教えられること

そしてこういう話にハッとしたり、何かに気づけるようになったのは、それはきっと私が16年くらいの間に、いろいろ変化してきたからなんだろうなあ。

18歳でダイカンヤマで迷いまくりのときにはいいお店をたくさん教えてもらって、結婚する時はステキなお花やさんを教えてもらって、出産してから子連れでいけるお店を教えてもらって、そして最近はやっぱり仕事の話が多くなる。その仕事ぶりから学ぶこともたくさんある。

家族と離れて東京で一人暮らしを始めて、そしてまた結婚して新しい家族を持つ今まで、たぶんこの16年の間に自分の人生は大きくかわったわけだけれど、その間ずっと変わらず通い続けてこられた同じお店があるっていいもんだなと、改めて思う。

次回は半年開かないように行こうと思います、たぶん、きっと。生まれ変わったし、うん。

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伝統を守ること、について

その組織らしさ、ってなんだろう

よく学校や会社で、「その組織らしさ」という話になることがある。「最近、この学校らしさが失われてきた・・」とか、「最近の新入社員はうちの会社らしくない・・・」とか。

もう結構前になるけれど、とある伝統ある高校にお子さんが通っているママが、先生から「最近生徒たちから、100何年と続くこの学校らしさが損なわれてきているように感じる。どうしてこの学校を選んだのだろうかと思うことも多い。」という話をされたんだーと、話していた。でもなんでかモヤモヤする!この学校は好きだけどなんかこれはモヤモヤする!なんでだ!と、そのママが言う。

私も話を聞きながら、確かにそれはモヤモヤする!なんでだろう!と、二人で話していたのだけれど。

例の黒髪事件に思う

まず、公立の学校であれば、当然「その学校らしさ」を背負った生徒ばかりが集まるわけではない。私立にしたって、学校を選ぶ理由は、生徒の「その学校らしさ」だけではないと思う。中にはそういう人もいるかもしれないけれど、そうじゃない人もいると思う。「選ぶ」理由は人それぞれで良いはず。

少し前に、女子高生が髪を無理やり黒に染めさせられた話が話題になっていた。あの時、多くの人が学校に批判的だったと思うけれど(そりゃそうだ)、一部で、「ただ、それならその学校を選ばなければよかった」という意見も見かけた。

でも何だか、それも違うんだよなあ、と、私は思う。その学校を100%気に入って入学する、ということはなかなかない。何だって、100%のものなんてない。ここは好きじゃないけれど、こことここはすごく気に入ったから選ぶ、ということもあるだろうし、受験のある学校であれば、第一希望ではなかったけれどここになった、ということだってある。

そして、いろんな事情があって属したコミュニティで、例えば90%は納得して入ったとしても、組織側から「あなたはここに入ったからルールを全て守ってください」と一方的に通告されるのはやっぱり健全ではないなあ、と思う。おかしいなと思うことがあれば、より小さい個人側からだって、声を挙げられる組織がやっぱりいいなと思う。

私が通っていた高校で、昔、校則を変えようという大運動が生徒たちから起こって、そこでいろんな衝突を乗り越えて、山ほどあった校則をたった3つだけにした、という話があって、それがすごく好きなのだけれど、(むしろそれを聞いてこの学校へ行きたい!と思ったわけだけれど。)そういう、簡単にではないけれど、時代や環境に合わせてルールを変えていくというのはすごく大切なことだと思う。

(それにしてもたった3つしかなかったその校則を私は一つも思い出せない。どういうことだ。全くもって自分が信じられない。)

「その学校らしさ」は生徒がつくるものではない

そしてもう一つ、「その学校らしさ」というのは、生徒ひとりひとりが作るものでは、多分ない。それは、生徒が背負うものではない。

学校らしさというのは、例えばその学校がある土地の文化や、歴史が作り出すものかもしれないし、独自の授業や行事が作り出すものかもしれない。そういう、ハード面からまずは作られるものなんじゃないかな、と思う。生徒たちは、あくまでその影響を受けて、何かを感じ取る立場であって、「学校らしさ」を、生徒たちに押し付けちゃいけないんじゃないかな、と。

そういえばこの前の仕事でまとめたこの記事でも、「広尾」という土地、そしてブランドを生かして再生した広尾学園のお話があったのだけれど、これはまさに、その学校の本当の強みを生かした好例だと思う。

そこに集まる生徒たちは、当然、時代によって色々と変わってくるものだと思う。もちろん、その土地の文化や、独自の授業や行事だって、時代の流れとともに変化してゆく。

生徒が先に変わるのか、ハードである文化や行事が先に変わるのか、それはわからないけれど、とにかく変化してゆくことは避けられない。変化は成長でもあるのだから。

「比叡山の1200年消えない火は、今の空気と油で燃えている」

みたいなことを考えていた時、愛読書『翼の王国』で、京都の特集を読んだ。そこに、大好きな「雲母唐長」のトトアキヒコさんのインタビューが載っていた。

唐長は、京都で400年続いてきた、日本で唯一現存する唐紙屋さん。「京都の伝統ある唐紙屋さん」というだけで、死ぬほど敷居が高そうなのに、今の感覚でも「ああ素敵だな」と自然に思えるものがたくさんある。

四条烏丸のココン烏丸に入っているKIRA KARACHOで数年前に購入した「双葉葵色づくし」というこの和紙のセット。ちょっとしたお礼状とかお便りに重宝しまくっている。全部で10色もあるので、子ども達もたまに自分で好きな色を選んで、お便りを書いたりしている。

そのトトさんが、翼の王国でのインタビューでおっしゃっていた。

「比叡山に1200年消えていない炎があるけれど、それは1200年前の炎じゃない。今の空気と油で燃えていて、それが文化だと思うんですよ。」

あーまさに。と、ストンと腑に落ちた。

例えば伝統ある学校にも、ずっと燃え続ける伝統のような炎はあって、それはずっと守られるべきものだろうと思う。炎を決して消さないこと。それはすごく大切なこと。

でもその炎を消さないためには、トトさんの言葉を借りると、今の空気と油が必要だ。その空気と油と、そしてずっと燃え続ける炎から、子どもたちはそれぞれ、一人ひとり、いろんなことを学びとっていく。それが伝統校であるということの素晴らしい強みなんじゃないかな、と思う。

そこには色んな生徒が集まって、そしてそれぞれが違うことを学びとっていく。でもそこに色んな違いがあるから、色んな価値観が集まるから、きっと何か新しいものが、ひとりでは作れないものが、生まれていく。

やっぱり学校ってそういう一人ひとりの違いや価値観を大切にする場所であってほしいし、本当の伝統っていうのは、そうして「今」の空気を入れながら守られていくものなのだと、改めて思う。

京都の伝統あるお店から、教育についても考えてしまったという今日のお話。

それにしてもやっぱり我が高校の3つの校則が思い出せない。なんだっけな。

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家事やってる自分めっちゃえらい、と認めてあげよう。

オットの激務月間(というか数ヶ月)

夫の激務が続いている。たぶん10月いっぱいのはずだけれども、結局その案件が11月まで延びたのかどうかを聞くひますらないくらいに家にいない。たぶん生きてはいる。

大人なので自分の健康管理は自分でしていただきますが、それにしても今回ばかりはほんとにだいじょーぶかなこの人、と思うことの連続であった。趣味:仕事、とはいえ、ほんともうよくそこまで働くな・・・と。

そしてこういう時期(に限らずいつもですが)まあもちろん家のこととか子ども周りのあれこれは一人でやっているわけですが。

子どもたちが寝てから、キッチンで一人、お鍋の地味な焦げ付きをゴシゴシしながら考えた。

こういう時つい、「なんで私だけ家事やってるんだ・・・」とか「家のこと全部やってるんだ・・」と、考えがちだけれど、そのもやもやの根元って、この家事ひとつひとつを「大事なもの」として認めてあげていない、自分自身の気持ちにあるのではなかろうか、と。

たとえば仕事で、これは君が得意なところだからまかせるよ!と、任された大きな仕事をしているとき、そしてその仕事にやりがいを感じて楽しいときは、なんで自分ばっかり。。。とは、思わないはず。

一方で、この仕事必要なのかなと感じながら、いやいや進める仕事は愚痴も多くなりがちになるかもしれない。

職業に貴賎はないので(と、すずかんさんもおっしゃっているので→文科省が考える21世紀を生き抜く人を育む教育改革とは?)(←やった仕事をこっそり入れ込む)結局その仕事にやりがいを持てるかどうかって、自分の心持ち次第だと思うわけです。

と、いうことは。

家事だって育児だって、まず最初に、やっている自分が、「これは非常に尊い仕事であるぞよ。」と、認めてあげることが大事なんじゃないか、と。

心のどこかで「こんな仕事」と思っちゃっていると、それを頑張る自分を認めてあげられないことになってしまう。一番大事なのは自分の気持ちだから、まずは自分が「こんな仕事」と思わないところから始めねば、と、思った次第です。

「こんな仕事」って自分で思わない

家事は毎日毎日のルーティンだし、なんというかある意味100%でないと達成感が得られなかったりするし(掃除機かけても洗濯物がぐちゃぐちゃだったりするとなんとなくやりきった感を感じづらい)、もちろん誰かにものすごく感謝されるわけでもない。お給料も出ない。だからつい、その仕事を低く見積もりがちになる。

けど、仕事だって、感謝されるためにしているわけじゃないんよね。「ありがとう」の言葉がなくたって、自分がしている仕事が、見えないところで誰かを助けていることって山ほどある。それでいい、そういうものだ、そう思って好きな仕事をしていると思う。

それに比べれば家事って、それをしないと困る人がいるというのがすごくわかりやすい。(だからプレッシャーなわけですが。)こんなにダイレクトな仕事を日々やっている私たちってちょうえらい。まじですごい。天才。

もちろん、心穏やかに過ごすため、家事を100%自分の手でやる必要なんて全然なくて、お惣菜に頼る日があってもパルシステムの三日分のお料理セットならびに冷凍マグロ丼に助けられまくっても(ほんとに助けられまくっている)別に掃除を外注しちゃっても全然良いと思う。そういう工夫はいくらでもして良いと思う。

ただその前に、その工夫よりも前に、まず自分で、「毎日の素晴らしいお仕事(家事)をしている自分、おつかれ、ちょうえらい。」と、認めてあげたいな、と思う。そうじゃなきゃ、まじめな主婦のみなさんは「手抜きしちゃって・・」と、責めることにもなりかねない。(私はまじめな主婦では全くないけれど)

地味なお鍋の焦げ付きを夜な夜なとってる私はちょうえらい。洗濯物がしばらく溜まってたとしても他のことやってる私はめっちゃえらい。

と、いうことを、みんな認めてあげましょう。というか認めて。というかほんと頑張ってる私。というか、オットの次の休みはいつなんだろう。と、いう独り言です。

(なんせ私は今、パルシステムから届いたものをトランクルームから出して冷蔵庫と冷凍庫に食材を入れることすらめんどくさくて現実逃避をしている)

(でもえらい)

・・・と、ここまで書いて記事を終わりにしようと思い、トランクルームにパルシステムを取りに行ったら、なんと私が頼んでいたのは翌週のパルシステムであり、今週はケースの中が空っぽであった。衝撃。そんな私のレベルの低すぎる家事でもやってる自分めっちゃえらい。と認めてあげよう、というお話です。(ひどい)

 

洋服を選ぶ時の「ストーリー」

新しいもの、流行を楽しむこと

物欲低下の季節です。暑いし。いや、暑いのは嫌いではないのだけれど、なんといっても気持ちは秋冬物に向いているのに、秋冬物を見るには暑い。暑すぎる。というかまあ外に出るのも暑い。というわけで、この季節は物欲が低下する。けどこの物欲低下、季節的なものだけじゃなくて、ちょっとした考え方の変化があったんじゃないかと思い、考えてみた。

洋服を楽しむ時、やっぱりその時その時の流行りを楽しむ、というのは醍醐味であると思う。前にも書いたけれど、やっぱり流行を取り入れること、それにチャレンジすること、っていうのは自分の幅を広げることであったりもして、楽しみの一つであることは間違いない。

洋服の宿命として、どれだけ良いものでも、どうしても翌年には「これはやっぱり去年のカタチだな・・・」と思ってしまうものが出てくる。買う時はもちろん、「できるだけ長く使えるものを・・・」と思うわけだけれど、翌年にはどうしても手が伸びない、ということはままある。これはもう、仕方がないと私は思う。

村上春樹は(ほんといつも村上春樹で申し訳ないのだけれど)過去の自分の小説はほとんど読み返すことがないという。それは、どうしても「古いな」という感じがしてしまうからだと。数年前の洋服が古く思えてしまうのと同じだ、と。

洋服ほどではないにしても、なんだって、「古いな」とネガティブに感じてしまうというのはある程度避けられないことなのかもしれないなと思う。それは例えば料理の味付けとかにだってあるのかもしれない。いや私は思ったことはないけれど、私の洋服好きのベクトルが食に向いてる人は、そんな風に思うこともあるのかもしれない。

だから、去年あんなに厳選して色々買ったのに、今年もやっぱり欲しいものが出てくる、というのはごく自然なことで、ある程度はやっぱり色々アップデートしていきたい。していきたいと決意するまでもなく、どうしても毎年欲しいものは出てくる。何度も言うけれど、そういうものが人生の中で一つくらいあったったいいじゃないか、と私は思う。もちろん自分の「楽しめる」範囲で。

「欲しい」というモチベーションの変化

それでも、今年のもの、新しいもの、そういうのがどうしても欲しい!といった感覚が、少し減ったような気がしている。それはもちろん、歳を重ねて、良いものを少しずつ集めてきたから、というのもある。コートなんて、エッグクロンビーとムートンがあれば事足りると本気で昨冬思った。

けどそれだけじゃなくて、なんとなく洋服に対する考え方が変化してきたからじゃないかなとも思う。

インスタで洋服を見るようになってからの一番大きな変化は、インスタ界隈の流行りを素早く知ることができるようになったところかなと思う。私はファッション雑誌をほとんど読まないので(仕事で読むことはあれど)詳しいことはわからないけれど、多分雑誌で紹介されてバカ売れ!みたいなものが、インスタにうつってきたという流れがあったのだと思う。何を今さらという話ですが。

ちなみに私はインスタで見てこれかわいい!と思って購入する、という、この昔で言う所の(今も意外と言うのだけれど)AIDMAを絵に描いたような流れについて、決してネガティブに思っているわけではない。むしろわかりやすくて健康的でいいじゃないかと思っている。いや、持たない暮らしもシンプルライフも素晴らしいと思うし、実際良いものを長く、という方が実のところ何かと「便利」だったりするわけなのだけれど、でもそれだけじゃあ日々味気ないと思う。それは別に洋服に限らず、一つくらいは、たまには冷静な判断ができなくなっちゃうくらいに好きなものがあっても良いじゃないか、と私は思っている。何でこれ買ったんだろ、何でこれがどうしても欲しくなるんだろ、というものが一つくらいあった方が、日々張り合いが出ると思いませんか。まあこれは洋服好きの壮大な言い訳なんですけど。

ただあまりにそればかりになると、人間の心理として、この流行っているやつを手に入れておきたい、完売する前に手元に置いておきたい、自慢したい、みたいな気持ちが湧いてくるように思う。それは別にSNSが出てくる前から、人間が普通に持っていた感情として。エアマックス全盛期の頃から人々が持っていた欲望として。(すぐにエアマックスを持ち出す昭和生まれ)

でもそういう感情は、多分そんなに長続きしない。感情というか、そういうモチベーションというか。「流行っているから」「品薄だから」「自慢できるから」というモチベーションって、瞬発力はものすごくあるのだけれど、持続力はそんなにない。

それよりは、「新しい仕事を始めたからジャケットを買おう」とか、「人生の節目にバーキンを買う!」とか、そういったストーリーの方が、持続力はずっとある。婚約指輪に飽きる、ということは早々ないですよね多分。極端な話ですが。

自分は最近、そういうモチベーションでものを選ぶようになってきたのかもなあ、と、思う。だから、シーズン始めの今のうちに完売しそうなこれだけは買っておかなきゃ!みたいなことがものすごく減ったように思う。そしてこれはもしかして私だけじゃなくて、世の流れとして結構多くの人が思ってたりするんじゃなかろーかと、ちょっと思ったりしている。

メゾンが持つストーリー

こうなってくると、洋服の流行り廃りが絶対に避けられないものとはいえ、結構、去年より前のものも「古いな」と感じることなく着られたりする。それはもしかすると、一つ一つにストーリーを感じながら選んだものだからなのかもしれない。流行りとは違うかもしれない、人から見ると古いかもしれない、でもこれは自分にとって大切なストーリーのあるアイテムなのだ、と。

これから先こういう、ストーリー性のようなものはすごく大切になってくるんじゃないかなあという気がしている。そしてこれは、古くからいわゆる高級メゾンが得意として、大切にしてきたことだと思う。ヴィトンには旅行というストーリーがあり、エルメスには乗馬というストーリーがあるように。

ってこれは実は10年以上前、大学のゼミで、当時のヴィトン(LVJグループ)の社長だった秦郷次郎さんを招いてお話を聞かせていただいたことがあって、その時に秦さんがおっしゃっていたことそのものなのですが。うろ覚えすぎてもし間違っていたら本当に申し訳ないのだけれど、こういうお話だったように記憶しています。一時期、女子高生がこぞってヴィトンを持っていたことがあって、ともすれば偽物でもいいから手に入れたいというような流れが出てきてしまった。でも、ブランドってそういうものじゃない。初めてパリへ行った時、ヴィトンの本店で、その日のために頑張って貯めたお金で小さな小物を買う。そういうったストーリーこそがブランドなのだ、と。

その時に聞いたお話がものすごく印象深くて、なんでもすぐに忘れてしまう私としては珍しく覚えているわけだけれど(とはいえその話を誰と聞いたのかとかほんとにゼミで聞いたのだっけとか細部はすっかり忘れておりますが。)あれは今も通じる真理だったなあと思う。

SNSの台頭があろうと、ファストファッションがこれだけ流行ろうと、メゾンが持つストーリーっていうのは、やっぱりすごく強い、と私は思う。個人的にはやっぱりものすごく、そのストーリーの持つ力にひかれる。わくわくする。そのストーリーが「真実」であれば、だけれど。

私はファッションの専門家でもなんでもないのでビジネス視点ではわからないし、これはただの洋服好きの戯言にすぎないのだけれど、こういう、選ぶ時にストーリーを感じてわくわくできるような、そういう体験を積み重ねられるような、そんなブランドに、そしてブランドにかかわらずそういう洋服に、これからも触れていきたいなと思う。そしてそういうわくわくするようなストーリーを、私も誰かに伝えていけたらいいなと思う。

もちろん、衝動買い的にこれ欲しい!っていう短期戦な選び方もたまには楽しみながら。

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