9年前からあふれていた強い言葉たち
もうすぐ8歳になる(!)息子の妊娠中に、twitterに出会った。周りにママ友なんて一人もいなくて、母も亡くしていて、不安だらけの私にとってtwitterは大げさでもなんでもなくオアシスだった。
その頃は今よりもきっとずっとtwitter人口は少なくて、まあこれは今もかもしれないけれど、ある程度の表現欲求があったりとか、何かこう、軸や芯を持つ人が多かった。その頃はにんぷさんや仕事の近そうな広告業界の人たちをフォローすることが多かったけれど(そしてにんぷさんたちは今も大切な友達になってくれているのだけれど)みんなしっかり自分の意見を持っているなあ、という印象だった。
だからなのか、その頃からtwitterには、力強い言葉があふれていた。社会的な歪みに怒る声や、子育ての不公平さに怒る声。そして「ワーキングマザー」という言葉がよく見られるようになったのもこの頃だったと思う。
特にこの「ワーキングマザー」たちのある種の怒りやパワーはすごかった。約9年前だ。今よりももっともっともっと、働くママさんという存在は、本人も会社も社会も手探りの状態だった。誰かが、大きな声で、何かを主張しなきゃ変わらない時期だったのだろうと、今振り返ってみて思う。
それでも白黒つけた物言いができない
その中で私は、どうしても、白黒はっきりつけた物言いができなかった。会社の制度はこうあるべき、にんぷさんに対してのマナーはかくあるべき、さらに、女性はこうあるべき、ワーキングマザーはこうすべき・・。
正直、その頃はどれが正しいのか自信がない、というものあったし、どこかで、強い言葉の威力で見知らぬ人を追い詰めたりしないだろうかと、怖かったというのも、ある。そしてそういう自分は、なんとなく弱いんじゃないかなあと、思っていた。こんなんで、「ワーキングマザー」とやらをやっていけるのかなあと、不安にもなっていた。
あれから9年がたった今、その頃のことを思い返してみるのだけれど。結局私は今も、「強い言葉」を使うことが得意じゃない。
天ないのマミリンみたいにはなれないけれど
3、4年ばかり距離を置いていた間に、twitter界隈の有名な人というのも様変わりしていて、いろんな「インフルエンサー」の人がたくさん登場していた。みんな、上手に「強い言葉」を使うなあ、という印象を持った。何かにはっきりと怒り、主張があり、それを感情的だけでなくロジカルに表す。
すごいなあと思う、かっこいいなあと思う。ずっと、はっきりとモノが言える人にちょっとした憧れはあったと思う。天ないで言うとマミリンみたいな。
だけど、3年経っても4年経っても9年経っても変わらないのであれば、まあ私自身は無理に強い言葉を使わなくてもいいのかな、それはそれでいいのかもな、と、思うようになった。それでもなんとかここまで、やってこられてはいる。もちろんまだまだだと思うところはかなりあるけれど。
そもそも自分にとって、これだけは譲れない、という、主張できるものって、もともとほんとうにものすごく少ない。(もちろん、少しだけはある。そりゃ、もちろん。誰だってそうだ。)たいていの物事は、裏も表もあるからなあ、と思っている。それ自体がどうなんだ、とずっと思っていたけど、まあそれが、私という人間なのだろうなあと、最近は少し思っている。
目立つような強い言葉は使えないけれど、たぶんそれが自分にとって、使いやすい言葉なのだ。みんながみんな、同じ言葉を使う必要はない。人には人の言葉や文体が、たぶん、ある。
それでも一つだけ変わってきた視点
ただ少しだけ、変わってきたなと思うのは、その強い言葉を使えない理由に、昔は「自分が嫌われるのがこわいから」というのがかなり大部分を占めていた、という部分があると思う。これはたぶん、息子が生まれてからのこの8年間で、私が一番向き合ってきた課題だ、と思っている。そして少しずつだけ、変わってこられたな、と思っている部分だ。もちろんまだ完全にとはいかないけれど。
できる限り(それでも100%は絶対無理なのだけれど)言葉で人を不必要に傷つけることのないよう、ということは、何より慎重になりたい部分だけれど、「嫌われないように」という保身は、全然なーんにも生まない。その視点は、意識的にとっぱらっていきたい。
その上で、自分は自分なりに心地よい、自分の言葉で色んな物事を、紡いでゆけたらいいなと思う。
まあそんな私にでも今使える強い言葉といえば例えば「おいそろそろ再起しろよヤクルトスワローズ。」くらいでしょうか。ええ。まじで。ほんと。