むすめを保育園に送っていく途中、少し遠いパン屋さんの袋を持った、小さな赤ちゃん連れのお母さんとすれ違った。
あぁそんな頃があったな、と、私はふと思い出す。
まだ話せない息子やむすめと、商店街を歩いた日。
その頃住んでいたマンションの近くの商店街では、朝早くからあいているお魚屋さんやケーキ屋さんなんかもあって、早起きの赤ちゃんを連れて買いに行ったのだ。
そこには、その時にしかない、すごく特別な空気があった。
まだ話せない、歩くこともできない息子やむすめに向かって、何とはなく「お魚どれにするー?」「なんか今日寒いよなあ」と話しかける。返事がないことを知りながら、「おなかすいたー?」と聞く。息子やむすめは、わかったような顔をして笑ったり泣いたりしている。
まだ、おなかにいた頃の続きのような、そんな時間。私が母乳を与えなければ、すぐにでも死んでしまいそうな、ほとんど、一心同体のようにして過ごした時間。
つい数年前のことなのに、それは遠い遠い昔のことのようにも思える。もう息子もむすめも、あの頃の二人からは随分遠くへ行ってしまった気がする。あの頃からすると、もう私の手をだいぶん離してしまった気がする。
いつだってそうなのだけれど、その時間がとてもとても素晴らしいものだったということは、過ぎ去った後にわかることだ。
私はこの夏、バカみたいに子どもたちと一緒に神宮へ行った。
ほんと、バカみたいに神宮にいた。もちろん、お金だってかかる。子どもたちと三人で行けば、日によって外野でも内野の良席と同じくらいのお金がかかる。私は随分このシーズン、欲しかった洋服を諦めた気がする。(あんまりよく考えてないけど)
一人で行けば気楽だけどなあと思うことだってもちろんある。むすめのトイレに付き合って、ぐっちのヒットを見逃すことだってある。(はらじゅりが点を取られるところを見なくて済むこともあるけど。)エイオキのタオルをどっちが掲げるかという子どもたちのしょーーーーもない言い争いにため息をつくこともある。しかもヤクルトはしょっちゅう負ける。
でも、それでも私はバカみたいに子どもたちと一緒に神宮にいた。
それは、この時間が、失われゆく時間であることを、心のどこかで私が知っているからだ。
小さな小さな、赤ちゃんだった息子やむすめをベビーカーに乗せ、朝の早い時間の商店街をゆっくり歩いたあの時間が、もう二度と戻らないように。きっと、今こうして三人で、たまにケンカしながら、ぶつかりながら、それでも球場に足を運ぶ、この時間がきっと戻らないことを、私は知っているからだ。
子どもたちと球場で過ごした夏は、二度と戻らないこの夏は、もしかするとヤクルトにとって二度とない二位という結果を残した夏は(いやそんなことはさすがにないと思うけど。ないですよね?)、CSまで行ったのに最後にスガノにノーノ…いやなんにもない、とにかくこの夏は、すごく楽しかった。
いつか子どもたちは(きっとあっという間に)私の手を離れて、友達と、恋人と、野球を見に行くようになるかもしれない。もしかしたら野球なんてまったく見なくなるかもしれない。でも、何はともあれ私の人生に、この夏があってよかったなと思う。そしてできることなら、子どもたちの記憶に、この夏のことが残るといいなと思う。
そのどれもが失われゆく時間で、そしてだからこそそれは、美しいのだから。