
オットの激務月間(というか数ヶ月)
夫の激務が続いている。たぶん10月いっぱいのはずだけれども、結局その案件が11月まで延びたのかどうかを聞くひますらないくらいに家にいない。たぶん生きてはいる。
大人なので自分の健康管理は自分でしていただきますが、それにしても今回ばかりはほんとにだいじょーぶかなこの人、と思うことの連続であった。趣味:仕事、とはいえ、ほんともうよくそこまで働くな・・・と。
そしてこういう時期(に限らずいつもですが)まあもちろん家のこととか子ども周りのあれこれは一人でやっているわけですが。
子どもたちが寝てから、キッチンで一人、お鍋の地味な焦げ付きをゴシゴシしながら考えた。
こういう時つい、「なんで私だけ家事やってるんだ・・・」とか「家のこと全部やってるんだ・・」と、考えがちだけれど、そのもやもやの根元って、この家事ひとつひとつを「大事なもの」として認めてあげていない、自分自身の気持ちにあるのではなかろうか、と。
たとえば仕事で、これは君が得意なところだからまかせるよ!と、任された大きな仕事をしているとき、そしてその仕事にやりがいを感じて楽しいときは、なんで自分ばっかり。。。とは、思わないはず。
一方で、この仕事必要なのかなと感じながら、いやいや進める仕事は愚痴も多くなりがちになるかもしれない。
職業に貴賎はないので(と、すずかんさんもおっしゃっているので→文科省が考える21世紀を生き抜く人を育む教育改革とは?)(←やった仕事をこっそり入れ込む)結局その仕事にやりがいを持てるかどうかって、自分の心持ち次第だと思うわけです。
と、いうことは。
家事だって育児だって、まず最初に、やっている自分が、「これは非常に尊い仕事であるぞよ。」と、認めてあげることが大事なんじゃないか、と。
心のどこかで「こんな仕事」と思っちゃっていると、それを頑張る自分を認めてあげられないことになってしまう。一番大事なのは自分の気持ちだから、まずは自分が「こんな仕事」と思わないところから始めねば、と、思った次第です。
「こんな仕事」って自分で思わない
家事は毎日毎日のルーティンだし、なんというかある意味100%でないと達成感が得られなかったりするし(掃除機かけても洗濯物がぐちゃぐちゃだったりするとなんとなくやりきった感を感じづらい)、もちろん誰かにものすごく感謝されるわけでもない。お給料も出ない。だからつい、その仕事を低く見積もりがちになる。
けど、仕事だって、感謝されるためにしているわけじゃないんよね。「ありがとう」の言葉がなくたって、自分がしている仕事が、見えないところで誰かを助けていることって山ほどある。それでいい、そういうものだ、そう思って好きな仕事をしていると思う。
それに比べれば家事って、それをしないと困る人がいるというのがすごくわかりやすい。(だからプレッシャーなわけですが。)こんなにダイレクトな仕事を日々やっている私たちってちょうえらい。まじですごい。天才。
もちろん、心穏やかに過ごすため、家事を100%自分の手でやる必要なんて全然なくて、お惣菜に頼る日があってもパルシステムの三日分のお料理セットならびに冷凍マグロ丼に助けられまくっても(ほんとに助けられまくっている)別に掃除を外注しちゃっても全然良いと思う。そういう工夫はいくらでもして良いと思う。
ただその前に、その工夫よりも前に、まず自分で、「毎日の素晴らしいお仕事(家事)をしている自分、おつかれ、ちょうえらい。」と、認めてあげたいな、と思う。そうじゃなきゃ、まじめな主婦のみなさんは「手抜きしちゃって・・」と、責めることにもなりかねない。(私はまじめな主婦では全くないけれど)
地味なお鍋の焦げ付きを夜な夜なとってる私はちょうえらい。洗濯物がしばらく溜まってたとしても他のことやってる私はめっちゃえらい。
と、いうことを、みんな認めてあげましょう。というか認めて。というかほんと頑張ってる私。というか、オットの次の休みはいつなんだろう。と、いう独り言です。
(なんせ私は今、パルシステムから届いたものをトランクルームから出して冷蔵庫と冷凍庫に食材を入れることすらめんどくさくて現実逃避をしている)
(でもえらい)
・・・と、ここまで書いて記事を終わりにしようと思い、トランクルームにパルシステムを取りに行ったら、なんと私が頼んでいたのは翌週のパルシステムであり、今週はケースの中が空っぽであった。衝撃。そんな私のレベルの低すぎる家事でもやってる自分めっちゃえらい。と認めてあげよう、というお話です。(ひどい)