今朝の新聞で読んだ記事。「おやじのせなか」は大好きな連載なのですが、今日のIMARUさんのインタビューがこれまたよくて、朝から色々考えました。
(おやじのせなか)IMALUさん 悩みの相談に「笑え、笑え」
朝日新聞デジタル http://www.asahi.com/articles/DA3S12122305.html
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「笑う門には福来る」
「笑う門には福来る」というのは本当によく言ったもんだ、と思う。
先日、昔の上司で今は某テレビ局でご活躍の大大先輩とばったり会社近くでお会いして、立ち話をしていたら、「そうやって笑っているうちは大丈夫ですよ。」なんてことを、言っていただいた。
仕事的には色々あった一年、いやこの二年くらいで、ときに「笑っている場合じゃない。」みたいなことをよく言われる毎日だったりします。
ガハガハ笑っていると、楽しそうでいいねみたいなイヤミを言われることもあります。すみません毎日笑いすぎておりまして。てへ。
そりゃもちろん、「大変なとき」というのは、ときに笑い声が煩わしく思えることだってあるとは思う。けど、IMARUさんのインタビューにあったこのエピソードと言葉に、私はやっぱり深く共感するのです。
悩みの相談なんて照れくさかったのですが、19歳のころに1度だけ、人間関係で悩んで父に打ち明けたことがあります。
泣きながら電話したら、爆笑されました。「何で泣いてんねん、笑え、笑え」って。勇気を出して相談したのに、「は?」ってなって。もう絶対、この人には相 談しないって思ったんですが、後で考えると父らしい、良いアドバイスだったな。どれだけたくさん笑えるかで人生の楽しみ方が全然違う。一番大切なのは笑う ことだと、父を見ていて自然と感じるようになりました。
さすがさんまさんだなーかっこいい。そしてIMARUさんの気づきもいいな、と思う。
笑う、ということには、行為そのものにも浄化作用がきっとあるし、もっと根本的な、生きるということそのものにおいて、大切なことだと思うのです。
母のお葬式で「しっかりしたお姉ちゃん」を演じていた
それでふと、思い出したことがあった。
もう10年近く前になる(早いなー。)、母のお葬式でのこと。
たくさんの人が足を運んでくださって、会ったこともない人たちが、みんな泣きながら母との別れを悲しんでくれていた。
でも、三姉妹の長女でまだ23歳だった私は、そのときどうしてもうまく泣けなくて、「しっかりしたお姉ちゃん」を演じることでなんとか、その場というか、理不尽な哀しみみたいなものを、乗り越えようとしてた、ような気がする。
それはたぶん妹たちも同じで、妹たちも泣くことなくて、弔問に来てくださった方一人一人に、しっかり頭を下げて、挨拶してた。
目を見て、少し微笑んで、ありがとうございます、って挨拶をしていた。
姉ながらあの日のあの子たちは本当に立派やったと思う。
今思えば、本当の「しっかりしたお姉ちゃん」というのは、あの日の妹たちにしっかり泣かせてあげられるお姉ちゃんのことなんやけど、今ならそれがわかるんやけど、実際のところまったくしっかりなんてしていないお姉ちゃんは、結局いつものごとくしっかりした妹たちに支えられていた部分がおっきかったんやと思う。
そしてそうすることで私たちは、なんとかその場に立っていられた。
でも、そういう私たちを見て、「なんでこんな日に笑ってられるんや」と、言った人がいた。「お母さん亡くして、哀しくないんか。」と。泣きながら、そう言った人がいた。
その時は、考える余裕もなかったけど、今になって思う。
私も、妹たちだって、哀しかった。大好きだった母を亡くして、あらゆる理不尽さと哀しみにぺしゃんこになりそうやった。
でも今振り返ってみてもやっぱり、私にはあのとき、そうやって、弔問に来てくれた人たちに笑ってありがとうございますって言うことしかできひんかったと思う。
だって私たちはほんとは、あのとき来てくれた人たちの誰よりも哀しかったから。
同じように泣くことなんか、できひんと思ったから。
ほんとうに哀しい時、人は涙も出ないことがある
ほんとうにほんとうに哀しいとき、人は涙も出ーへんことがある。
そしてその場に立つためになんとか、笑うということがある。
そうでないと、壊れてしまうような瞬間がある。
あの日私はもちろん間違いなく無理をしてたけど、強がっていたけど、でもあの日笑っていたことは、今の私にとって、母の死を少しずつ受け入れて変わってこられた自分にとって、小さな宝物のようになっている気がする。
その頃のことをよく知っているオットは、最近になって母の思い出話をするたびいとも簡単にぼろぼろ泣く私をみながら、「泣けるようになってよかったね。強くなったねえ。」と、言う。
もしかすると、ほんとうに哀しいとき、人は泣くことができなくて、その哀しみを乗り越えようとするとき、人は泣けるようになっていくのかもしれない。
そして泣くことができないときも、人は笑うことでなんとか、泣くきっかけを探すのかもしれない。泣くまでの道を、作ってあげるのかもしれない。
泣くことと笑うことは、ときどき順番が入れ替わる。
哀しみを受け入れるということは、理不尽な哀しみに向き合うということは、その哀しみに伴う痛みを知るということ。それはもしかしたら隣にいる人が抱えているかもしれない痛みを、少し、分け合えるようになるかもしれないということ。
哀しみを受け入れる中で、笑うということが、なにか小さな、もしかしたら大きな、力になるかもしれない。
だから、今大きな哀しみを抱えている人たちが、明日は少し笑えますように。少しずつでいいから、笑う時間が増えていきますように。そしてきちんと、泣ける日が来ますように。そう願います。
そうすればきっと、哀しみは必ず、痛みを知る優しさに変わっていくから。