ランカウイにて思うこと。

朝5時に起きて一人で遊んでいたものの二度寝した息子と、入れ違いで6時に目が覚めて、一人でバルコニーでビール飲みながら書いた文章です。

(ただしお部屋はWiFiがつながらないので投稿は時間差。)

二回目のランカウイ。過去の自分のブログをみて、そのときチャーターしたタクシーの運転手さんに、「子供はとってもかわいいよ。僕も5歳と2歳の子供がいるんだけど、ミスター&ミセスも、子供ができたらまたランカウイに一緒においでよ!」と、言ってくれていたことを思い出した。あれから7年弱。ほんとに5歳と2歳の我が子と一緒にくることになろうとは。人生は悪くない。

アジアの島の空気がやっぱり好き

アジアの島が学生の頃からとにかく好きで、学生の頃から半ばバックパックのような形でいろんな島にいったけれど、ランカウイが一番親切ですごしやすい島のような気がします。
バリをもーーーーーっと田舎にした感じ。タイのサムイ島やパンガン島のように、バックパッカーであふれかえってビーチにはトップレスのおねーちゃんがいっぱいいる、ということもない。(あの島はあの島であまりに怠惰で大好きやったけれど、今はまた変わっているのかな。)

アジアにありがちな「ぼったくり精神」がほんとに皆無で、タクシーだって定額で連れて行ってくれる。誰もかれもが親切で、例えばカンボジアのプノンペンで出会う人出会う人全員に騙されたようなことはまず起こらない。(すごいのだプノンペンという場所は。もう10年前のことやから今は違っているのかな。)

なんとなくなのだけれど、世は空前のハワイブームのような気がしていて、いやそんなものはバブルの頃からだと言われればそれまでなのだけれど、10年前と比べてなんとなく海外旅行=ハワイ、のような形が強くなってきているような気がなんとなーくしている。
南国好きかつお洋服ならびにお買い物好きといたしましては、もちろんハワイは夢の国で、なんでもあるのに実は田舎なハワイ、というのが私も当然のごとく大好きです。

ただ私は、土地そのものとしてはハワイよりもアジアの島々の方が、個人的には好きなのだなあと思う。それは学生の頃からやっぱり変わらない。なんだかんだ繰り返しよく行くのはハワイなので、思い出もたくさん積もっていくし、行くたびに子どもの成長を感じられるし、(お買い物も楽しいし、)トータルで見てハワイという島々に思い入れはもちろんあるのだけれど、やっぱりアジアの島々の空気感が肌に合うな、と、来るたびに思う。私はアジア人なんだなーと、思ったりする。

ランカウイは特に、ほんとうに何もなくて、なんせこの決算期の忙しい時期に二人して休みをとる夫婦なんて日本でうちくらいなんじゃないかと思えるレベルで日本人にも会わない。

でも「なにもない」というのは、普段東京で情報の波にのまれながらせわしなく過ごしている私にとっては、究極のぜいたくなのだなと思う。

なにもないからホテルのプールでだらだらするしかない。プールサイドで海見てビール飲みながら本読むしかない。(そこではネットもつながらない仕事のメールも読めない。)あれしなきゃ、これしなきゃ、ここもいっとかなきゃ、と、思わずに過ごせる時間、というのは、私みたいな人間にとってはものすごく大切だ。

一人旅、と、家族旅、実は大きく変わらない

一人旅をしていた頃(涙なしには語れない貧乏旅行の数々・・・)、オットと結婚して、二人でよく旅行をするようになった頃、そして子どもたちを連れて家族旅行をするようになった今。

一緒に旅する人は変わってきたけれど、それでもやっぱり、私が旅すること、旅が好きなことの、本質的な理由や意味は、結局なんにも変わらないのだなと実感する。子どもたちと一緒に行って楽しいところは、私が一人で行って楽しかったところやオットと二人で行って楽しかったところと、ほとんどそんなに変わらないから。

たぶん子どもを生む前の私には想像もつかなかったと思うけれど、子どもたちもまた、そうした場所にきて、とても楽しそうに笑って過ごしてくれる。(いやもちろん調子に乗って私に叱られまくってはいますけどねええ。)

子どもを生む、という経験はたしかにものすごくドラマチックで出産そのものにしてもまあ大仕事でインパクトのあるものだったけれども、それでもなんというか、人生のうちのほんの一部分というか、流れの中で自然に起こった一つのできごとにすぎないのだな、とも、思ったりします。

大切なものが、大切な人の人生が、自分の人生にそっと加わったような。それを最大限大切にしつつ、でもそれを気負いすぎず、それで起こった変化をまるごとそっと受け止めて、まいっかと思いながら過ごしてゆく。子育てってもしかしたらそんなものなのかなーと、思ったりする。

子どもがいる人生、いない人生、それぞれの幸せの形

すごくセンシティブなことなのでうまく言えているか自信はないのだけれど。つまり、例えば子どもを持たない人生というのも、それはそれですごく自然な一つの選択なのだろう、と私は思う。

あれは中学生の頃やったと思うんやけど、母の友達がご夫婦でされている喫茶店に家族で訪れて、そのとき母に、子どもを生まなくても、幸せな人生ってあるんだよ。まいちゃんがこの先そういう人生を選んだとしても、それはそれでいいんだよ。と、いう話をされたことがあります。

母はまあとにかく人からいろんな相談を受ける人だったので、そういった悩みもたくさん聞いていたんやろうなあと、今はなんとなく思う。

でもその頃はもちろんそんなのよくわからなくて。なんとなく、そうなのかー私も子どもを生まないかもしれないなーと思っていた。そしてそれは、大人になっても自分の根っこにずっとあった。

夫婦二人でも(もしかしたら一人でも)幸せに過ごす人生もある、というのは、それから自分の中で一つの覚書みたいにしてずっと残っていた。

それでもいろんな偶然が重なって、私はオットと子ども二人と過ごす人生を生きているけど、でもそれはやっぱり偶然で奇跡のようなもので、自分の人生に、大切な人の人生がそっと並走し始めた、という感じがする。それはもちろん幸せなことだし、大切に大切にしていきたいけれど、それは私にとっての幸せの形であって、誰かにとっての幸せの形の答えでは決してないと思う。

自分で選んだものを大切にすること、誰かの選んだものを否定しないこと

幸せなんて結局、だれかが決められることじゃないもんね。そんなの当たり前やけど。なんでもある(ように見える)日本の暮らしが、東京の暮らしが、ランカウイや、例えば宮古島の暮らしよりも幸せだなんて、それはだれかに決められることじゃない。

なんでも「自分自身で選ぶ」ということを私はすごく大切に思っているけれど、同時に、「誰かの選んだもの」を否定する権利は決してないと思っています。自分の選んだものだけが正しいと思うことは、実はすごくこわいことだったりすると思うから。もしかしてあのとき母が言いたかったことは、そういうことなのかもしれないと、思ったりもする。

そんなことを朝の6時からバルコニーでだらだらビール飲みながら思いました。
いやほんと私のこの旅の過ごし方一人旅の頃とかわりませんねええ。

背負うものがあっても、それがなくても、背負うものが背中から降りて一人で歩き始めても、肩の力を抜いて、そのときあるものを受け入れてまっすぐ生きていたいものです。それには、なーんにもしない旅を少しずつ加えてゆくことが必要だなうん。

子連れ冬の京都嵐山。その2

嵐山旅行記の続き。その1はこちら→子連れ冬の京都嵐山。その1

この日はわたしの大好きなお寺を目指してみんなでおさんぽ。

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竹林を抜けて、小倉山二尊院へ。

ダウンタウンととんねるずとウンナン大集合感のある仏像に会えない

ここの阿弥陀如来と釈迦如来の二尊像がすばらしくてですね。。。

阿弥陀さんとお釈迦さんの二尊像というのはもう、言うなればいいとも最終回でダウンタウンととんねるずとウンナンが全員集合したときのようなそんな素晴らしさが。いいんですとっても。

というわけでなかば強引に家族を引き連れてわたしだけわくわくしながら来たわけですが。

着いてみるとなんと本堂改装中。「お庭だけなら見てもらえるんですけど、すみません」とお寺の方。

嵐山の街中から二尊院のあたりまでというのは、歩くと結構な距離があるもので、ここまで来て会えないのかダウンタウン!じゃなかった二尊像!と、もちろんショックをうけましたが。

いやはや、見仏でお寺を回るとこういうことは意外と結構しょっちゅうあるものでして。オットとかは事前に調べとけばいいのにって苦笑いやけど。

見仏が子連れになってからはなおさら、なんとなく、仏像を見に行くときくらいはあまり周到に準備せずふらりと行きたいなあという思いがどこかにあって、(普段はやっぱり色々準備が必要なので。子連れというものは。) 行ってだめなら仕方ない、そういうもんだ、と、思えるようになってきたというか、これを通してそういう精神を鍛えているような気がします、わたし。

唐招提寺の千手観音に4年越しに会えた感動

そういえば前にも奈良の唐招提寺に千手観音を見にいったときに、改装中で会えずじまい、ということがありました。そのときも、たしか工事期間が残り4年くらいあって。(だいたいお寺の改装というのはどえらい時間がかかる。)

じゃあまた4年後に来よう、と心に誓って、4年越しに会えた千手観音様ときたらこれはもう。涙がでるほどかっこよかった。会えない時間が愛育てるのさ的な。(それはもはや病気)

そういったわけで、改装が終わったらまた会いにこよう、二尊像。それまでの楽しみにとっておきます。

ところで関係ないけど唐招提寺の千手観音はほんとうに圧巻です。千手観音って、千手と言いつつそのほとんどが手は42本なのですが、唐招提寺の千手観音ときたらほんとにあるんです、(ほぼ)千本。手が。

これはねもう圧巻。ウルトラマンは仏像からインスピレーションを受けたと言いますが、それめっちゃわかる。ウルトラマン的かっこよさというか。なんかあーいう男子がわくわくしそうなかっこよさを秘めている。仏像。

あと唐招提寺に限らず、そもそも奈良のお寺って規模が京都よりもでかいところが多くて、そのくせ仏像との距離が近くて、見仏には京都よりもおすすめのお寺が多数です。

。。。えっと話がめっちゃそれましたが。

きっといつかこの旅も懐かしく思い出す

そんなわけで本堂に入れないと聞いた妹と父は赤子とうちの息子を連れて近くの喫茶店で休んでいるとのことだったので、オットとむすめと三人でお庭に入ることにしました。この組み合わせめずらしい。息子とオットと三人、という時間はもちろんあったけれど、むすめはパパとママを独り占めできることってそうそうないもんね。なんだかちょっとうれしそうでした。行ったとこはお寺ですけど。

外人さんのピースに憧れたむすめ。このあと二人で何度もピースしあって爆笑してた。ありがとう外人さん。

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そしてこの本堂に続く階段がすごく好きです。このお寺。

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この図、なんだかデジャブやなーと思ったんやけど、むすめがおなかにいる頃、雪降る中一度息子と二人でも訪れて、そのときも同じような構図で写真を撮ったのでした。

おなかの中に新しい命を抱いて、そしてこれから一人っ子ではなくなる息子の手をひいて訪れるお寺での静かな時間。その年の冬の嵐山はほんとあほほど寒かったけれども、それでも息子と二人きりの時間がとってもあたたかかったことを覚えています。

しあわせのど真ん中で「今がしあわせだ」と実感できることはほとんどなくて、こうして振り返ってみて改めて、その時間が持つあたたかさやそして儚さを、じーんと思い出したりできるもの。子育てなんてほんとうにそのくり返だと思います。美しいものが、二度と手に入らないものだったりするのと同じですね。

そうそう、息子と初めて「向き合って」ご飯を食べたのも、このときの嵐山でした。

慌ただしく過ぎてく毎日だけれど、小さな非日常はやっぱり心の隅に残りやすいし、ふとした時に成長を感じられるきっかけとして思い出されるものかもしれない。だからやっぱり小さなこの子たちの手をひいても、たまには遠くへでかけたいな、と思うのです。それはもしかしたら、子供たちがきっとすぐに大きくなって、この手から離れてしまうと心のどこかで知っている自分の、小さな焦りのようなものかもしれないけれど。

きっとわたしはいつか、この嵐山のことを思い出してとてもなつかしく思うんだろうなあと思いながら。

今日も絶賛反抗期の5歳児といやいやきをようやく脱しようとする2歳児との攻防に明け暮れるわけです。あーがんばろ。

子連れ冬の京都嵐山。その1

3連休(+1日)で、京都へ行ってきました。

今回は、うちの家族+妹2人+姪っ子二人(4ヶ月のふたご!)+じいじという大勢メンバーだったので、実家だけではなく嵐山にもゆっくりして2泊して周辺を散策。

大人に対してやや子供の比率が高いという状況で笑、どうなることかと思いましたがそれなりに楽しめました♡

というわけで、巡ったとこいろいろ。

久々に赤子を抱っこしてごきげん

義弟がお仕事で来られなかったため、ふたご姪っ子の片割れは私がだっこ。久々のビョルンだっこにわたしのテンションはだだ上がり。渡月橋で姉妹の母気分。この角度からの赤子の眺めにいたく満足しております。

 

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ゆっくり歩いて天龍寺へ。1月の三連休は、ほかの連休と比べるとやや人出は少なかった気がするけれど、それでも嵐山というのは人が多い。そして京都はどこもたいがい道が狭い。

ので、小さな赤ちゃんはベビーカーよりも抱っこが懸命かと思われます。

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もうかれこれ15年来の仏像好きといたしましては、正直庭園よりも仏像が良いのですが、えぇ。

でも、歳を重ねるにつれて庭園もなんかいいなーと思うようになってきました。

子連れでお寺、って実はとても良い

まあなんせ子ども連れていると色々疲れることもありますゆえ、お庭を見ながら座ってぼーっと休憩する時間というのはやっぱり至福です。4ヶ月児といえずっと抱っこしてると重たくなってくるし。

そして仏像好きの母さんのもとに生まれた子どもたちは、息子なんて5歳にしてもう何箇所見仏に付き合わされたか。。。というくらい、帰省のたびあちこち連れまわされていますが、子連れのお寺、というのはなかなかいいものです。

静かで穏やかな場所だけれども子どもにとても優しい、という場所って実はなかなかないから。

お寺って基本的には静かな場所、だけれど、例えば子どもの泣き声や笑い声が、不思議とあまり不自然には響かない。そりゃもちろん一般的な気遣いは普段通り必要だけれど、必要以上に萎縮することもないような気がする。

そしてお母さんにとって、この「静かで穏やかだけれども必要以上に萎縮することもない場所」ってかなり貴重だと思う。子どもの少ないおしゃれなカフェや高級ディナーのお店(久しく行ってませんけど。)なんかじゃこうはいかない。とてもリラックスできるので、おすすめです。子連れでお寺。(とくに仏像。)

湯豆腐ランチ!そしてインスタ映えコーヒー

お昼は天龍寺近くの「湯豆腐嵯峨野」さんへ。ランチメニューは湯豆腐の1コースのみ。

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とっても広いお店で、12時前でもこの日はすぐに入れました。

お座敷なので赤ちゃん&子連れにはとっても優しい。

湯豆腐のコースとはいえ結構ボリュームがあるので、大人分のお料理を頼んで子どもたちとシェアしてもおなかいっぱいでした。お料理は一つ一つ美味しいし(湯葉の佃煮とやらが絶品でした)、立地とコース内容を考えるとなかなかお得。子連れ嵐山ではとってもおすすめです。

おなかがいっぱいになったあとは、父と妹たちとふたごたちなどなどはお宿に戻り、むすめと二人で再度ぷらぷら嵐山散策。

嵐山の新名所(?)アラビカコーヒーにも。

生まれつき(としか思えない)空間処理能力に著しく欠ける私としては、この空間としてのおされさを出せる能力というものを心から尊敬します。すごいよね、空間のおされ。

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渡月橋を渡ったところにある公園でむすめとひと遊び。

ここの公園は広くて子どもが大好きな「はとぽっぽ」もたくさんいるし、体力が有り余った子どもを遊ばせるにはなかなかよいスペースです。砂利でこけると痛いのでそこには注意やけど。

しかし最強の2歳児ににやにや追いかけ回されるはとぽっぽが不憫でならない。

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そんなこんなで続きます、たぶん。

京都に限らず、子連れ、とくに赤ちゃん連れの旅は、なにより「思い通りにならないこと」を前提として動くことがいちばん大事ですね。村上春樹も「旅とは基本的にうまくはいかないものだ(意訳)」と言っていることですし。

それでもそんな中から見えてくる風景があったりするから、旅はやめられないのであります。

一緒に行く人が変わっても、訪れる場所が少し変わっても、そして基本的にうまくいかなくても、やっぱり私は旅が好きだ。「思い通りにならないこと」に慣れ親しんでいくということは、旅においても子育てにおいても人生においても結構大切なことですね、たぶん。

子育ては小さなさよならの積み重ねだけれど。

あけましておめでとうございます。節目のごあいさつ、というのがなんだか清々しくてとても好きです。その割に毎年年賀状が遅くてすみません、関係者各位のみなさま♡

2016年プチ抱負

2016年、今年は「よりよい自分」である一年にしたいなと思います。とはいえ、神様仏様ではないので、完璧になんてぜったいに無理だし、それを目指して辛くなるくらいなら、どんどん肩の力は抜いてよい、というのがてきとう人間であるわたしのモットーではありますので、何かに縛られたりするわけではなく、あくまでも自由を大切にしつつ(自由というのはたぶん私の人生をかけたテーマである気がする。)しなやかにたおやかに、でも心がけとして、「よりよい自分」でありたいと思っています。

これまでは、母として妻として、もしくは友人として、先輩として、後輩として、よりよい自分であろうと心がけることが多かったけれど(そしてまったくよりよい母とか妻とか友人とか先輩とか後輩ではないんですけどすみません♡)、今年は少し視野を広く、社会にとっての「よりよい自分」であることは何か、つまり、自分が社会全体にとってできることは何なのか、ということを考え実行に移していけたらいいなと思っています。そんな大それたことじゃなくて、例えば私のSNSやブログを見て、少しほっとしてもらえたり、笑顔になってもらえたり、そういう輪が少しずつ広がってゆけばいいなと思っています。

そしてそのためにはもちろん、自分の身近な大切な人たちに対しても、できるだけ誠実に接していきたい。よりよいこと、とは、誠実であることにほど近い。誰かから見て「よりよく見える」わけではなくて、あくまでも自分の中で、よいことを積み重ねていく、そんなイメージ。そこから生まれるものがたくさんあるのだと信じています。

そんなこんなで2016年最初のブログは、2歳児むすめとのあれこれ。

むすめと二人でお出かけ(女子!)

先日のこと。オットと息子は博物館へいく!と、張り切っていたので、こちらは久々に2歳のむすめと二人きりでお出かけにいってまいりました。

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むすめのお洋服を見に行って、ラデュレでランチして、(スイーツも食べて)、母さんのウインドウショッピングにちょこっとおつきあいいただき(セリーヌのお姉さんたちが優しすぎて2歳児がくつろぎすぎていた)、みのりカフェでコーヒー買いつつ銀座テラスで走り回る。この日はベビーカーも持たずに銀座へ行ったので、なんだかほんとに女子(?)会のようでした。

「向かい合ってお茶」ができること

そして二人で、向かい合って座ってお茶しているときに、ふと思った。こうして向かい合って座ると、ぐんとお姉さんになったような気がするなーと。

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息子もちょうど同じくらいのとき、二人で京都の湯豆腐さんへ行って笑、二人で同じように向き合ってご飯を食べたのですが。向かい合って座ると、やたらと息子がお兄ちゃんになったような気がした。

離乳食が始まると膝の上で少し食べるようになって、おすわりが安定してくると隣に座って食べさせてあげられるようになって、そのうちにこちらが手助けしてあげつつ少し自分で食べられるようになって。

そして、いつしかこうして向かい合ってお茶ができるようになる。こうなると、子育てっていうのはぐいんと楽になる、ような気がする。

そしていつもこれくらいの頃っていうのは、とんでもなくかわいい。

子育てって、きっと少しずつ手を離していくことなんやろうと思うんやけど、それはやっぱり少しの切なさをいつも伴うもので、あーいつの間にか大きくなってしまったなあ、またひとつ、一人でできることができたなあ、という実感は、なんだか小さなさよならみたいに積もってゆく。

でも、そうして手を離してゆくことで、小さなさよならを積み重ねてゆくことで、きっと子供の目線が、少しずつ少しずつ、親である私に近づいてくるのかもしれない、と思う。

それはやっぱり何者にも代えがたい、素晴らしいことのような気がする。自分が生んだ子供が、自分の同志になっていくような。向かい合ってお茶をして、話ができるようになるというのは、その第一歩なのだと思います。

こうしていやいやき終盤も乗り越えたい

子育てはいつも、小さなせめぎあいの積み重ねだなあと思う。成長がうれしい一方で、手放すことのさみしさはつきまとう。一人の時間がほしいーと思いながら、いざ一人になると子供のことばかり考えてしまう。まったくもうなんでこんなにわがままなんだこっちの言うことが伝わらないんだ、と思って1日中叱りまくっても、夜に寝顔を見ているとなんてかわいいんだはーまた叱りすぎたと反省する。でもなんかその全てはきっと、手を離してゆくことの練習なんだろうな、と思う。お互いに。

最後の手を離したとき、この子たちの中で、今の日々が、そしてこれからの日々が、小さな宝物のようになって、心の奥の奥の方で、生きていくこと、決断していくことの、自信につながってゆけばいいなと思います。いつか私がいなくなっても、その記憶が残れば、それだけでいい。それだけがきっと、本当の意味での母親の仕事なんじゃないかなと、私は思います。

だから今は、向かい合ってお茶ができるようになったこの時間を大切に。いやいやき終盤も乗り越えていきたい所存でございます。。。例えトランブでハートのエース(むすめ的にいちばん「カワイイ」図柄)がもらえなかったからってブチ切れてなぜかテーブルの上に乗って号泣していたとしても。。。母さんは決してめげない。。。たぶん。。。

5歳男子とのクリスマスプレゼント攻防

大人が選んでほしいプレゼント

クリスマスが近づいてきました。

我が家には5歳男子と2歳女子がいますが、それはそれはプレゼントに悩んでおりました。特に5歳男子。

この時期必ず新聞に折り込まれるトイザらスのチラシを子どもたちに渡したところ、ここに載っているのが世のおもちゃのすべてだと思い込んだ子どもたちは、あれがいいとかこれがいいとか、夢を膨らませておりました。

0歳や1歳の時というのは、はっきり言って、ママ好みのオサレなプレゼントでも許されます。なんなら、自分が着せたい服をるんるんと選んでプレゼントしたっていいわけです。もはや自分のためと言える超合法的なお買い物ですね、その頃のクリスマスプレゼントというのは。

でも、5歳にもなってしまうとそうはいかない。あれこれ欲しいものが出てくるし、いらないものをあげようならきっと、クリスマスにがっかりした顔を見ることになってしまう。

なのであの手この手で欲しいものを聞き出します。が、加えて、こちらがあげたいものへ誘導するというかけひきも行われます。

一応こちらも大人としての分別があるわけです。そんなおもちゃに5000円も6000円も出したって長く遊べるわけないだろう、とか、その遊びから得るものや学ぶものは何もないだろう、とか。

あわよくば、5歳男子とはいえ、センスのいいものとか、なんか賢こそうなものとか、長く使えそうなものとか、私も欲しいものとか、なんならSNS映えしそうなものとか(現代的)、そういうものを選んでくれないかな、とかちょっと思うわけです。そっちへもっていけないかなと。良い落としどころはないものか。と。

しかし人生と5歳男子はそう甘くない。

うちの息子の場合は、トイザらスのチラシを見て、「トミカ メカアクション自動車工場」とやらが欲しいと言い出しました。(↓これ。)

トミカ メカアクション 自動車工場

で、でかい。。。しかも5歳でトミカ。。。もう長くは使えなさそうであまりオサレっぽくはなくかしこそうというわけでもなくもちろんSNS映えしそうというわけでもない。。。

我が家には、0歳の頃から集め続けたトミカが、もうほんと山のようにあります。世の多くの男児とお同じく、うちも車と電車が大好きだったので、ちょっとしたおみやげやごほうびに手軽に買えるトミカはあっというまにたまってゆきました。

でもそんなトミカも、ここのところサッカーと野球ブームのきている息子とは、ちょっと距離が出てきたように感じていました。そろそろ卒業なのかなーと、思っていたところ。

ということで、これは、まあチラシを見て一時的に欲しくなっただけだなと判断して、そっかーこれもかっこいいけど、あ、これはー?スターウォーズのレゴとか!!(それなりにオサレっぽくてまあかしこそうな典型的なやつ。個人調べ。)とか、いろいろと誘導を試みてみました。が、あんまり息子の心を掴んでくれるものはなく。何を出しても結局トミカの自動車工場に戻ってくる。まあ翌日になれば、気も変わるだろうと思い、翌日になってまた聞いてみると、それでも自動車工場がいいと言う。ということを数日繰り返しました。

ところが最後に「これ対象年齢3歳からやって!3歳用かなー!」と、いう、プライドの高い5歳男子を一番説得できそうな呪文をとなえたところ、案の定「うっ」ときたらしく、「やっぱり妖怪ウォッチにするー。。」と、言い出した。

よっしゃ勝った。(妖怪ウォッチは決してオサレっぽくてかしこっぽいわけではないが、トミカの自動車工場ほど場所もとらへんしまあしまいやすい。という許容範囲。)

でも「答え」を大人が用意しちゃダメだ、と気づかされる

と、思った、気がした、のですが。

なーんか、これでいいのかなー、というもやもやが消えない。

なんかこれってもしかして、クリスマス当日にプレゼントを見ても、喜びはするやろうけど、それって親の気持ちを汲んだ上での喜びなんではなかろーかと。

妙な罪悪感に苛まれた母さんは、トミカの自動車工場でも、妖怪ウォッチでもいいから、どっちがほんとうにほしいか、もうちょっと考えてごらん、という、おいどっちなんだよというようなことを言って、その日はおしまいにしました。

そしたら次の日に息子から、「ママー、やっぱりトミカの自動車工場がほしい。」と、なんか少し恥ずかしそうに言われました。そっかうん、わかったよというと、うれしそうに飛 び跳ねて、ちょっと久しぶりにトミカの道路を出してきて、えらい立派な街を作って、お気に入りのトミカを並べて楽しそうに遊んでた。それは、0歳や1歳の 頃とはまた違う、お兄ちゃんになった息子のトミカの遊び方でした。

なんかその姿がけなげでかわいくてちょっと母さんはじーんときたのです。

普段はいつもお兄ちゃんとしていっぱい我慢もして頑張ってる息子に、クリスマスくらいは、ほんとうに欲しいものあげればいいじゃないか、と思えました。クリスマスまで親の都合を押し付けてちゃいけない。普段母さんがオニババとして君臨してる分、クリスマスくらい夢いっぱいわがままいっぱいの日にしてあげたっていい。愛する友人の助言もあり、そんな風に思いました。

そして何よりも、息子自身が「ほんとうに欲しいもの」を自分でちゃんとわかって、それをきちんと伝えられることって、すごく大事なことじゃないか、と思ったのです。

5歳男子というのは、ほんとうにあほで単純な生き物ではありますが、少しずつ「空気を読む」ということを知ってきます。特に、親の喜怒哀楽にはある程度、敏感になってくる時期のような気がします。

するとなんとなーく、こっちが求めてる「答え」を、子どもが感じ取る気がするのです、クリスマスプレゼントのかけひき一つとっても。

これから長い人生で、相手の感情を知ること、特に痛みを知ること、というのはものすごく大切になってくる。相手の「痛い」は、たくさん感じられるようにならなきゃいけない。

そういう意味で、大人が持っているべき「答え」はたくさんあって、まだまだ導いてあげなきゃいけない局面もたくさんあると思います。相手の痛みを教えてゆくことも、その一つ。そこの見極めは、きちんと大人として、親として、していかなきゃいけない。

でも、だからと言って、相手の「答え」に合わせるようにはしちゃだめだ、と思うのです。その「答え」からは、長い目でみたら何も生まれないし、何の成長もない。お互いの「答え」を持ち寄って、つまりこちらの「答え」もきちんと示して、対話をして、そこからちゃんとまた新しい何かが生まれるはずやから。

まだ5歳の子どもを相手にしていると、「答え」はいつも大人である自分の中にあるはずだとこちらは思いがちになってしまう。

でも、そればかりじゃないはずだな、と思うのです。子ども自身が「答え」を持っていることももちろんあって、大人がそれを勝手に導いたりしちゃいけない場面が必ずある。それをちゃんと、見極めてあげよう、と、クリスマスプレゼント攻防戦を通じて感じました。きっと今だからこその、トミカの遊び方を、この5歳男子は編み出してくれる気がするのです。

基本的に日々ほんとーーーーうにのほほんとてきとうな子育てをしながら過ごしているわけですが、それでもときどきはっと色々気づかされたりするから、まったく子育てというのはあなどれないな、と、思います。

息子よいつもありがとう。母さんはトミカの自動車工場を探してくるよ、でかいけど。

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