強い言葉を使うのは、得意じゃないけど

9年前からあふれていた強い言葉たち

もうすぐ8歳になる(!)息子の妊娠中に、twitterに出会った。周りにママ友なんて一人もいなくて、母も亡くしていて、不安だらけの私にとってtwitterは大げさでもなんでもなくオアシスだった。

その頃は今よりもきっとずっとtwitter人口は少なくて、まあこれは今もかもしれないけれど、ある程度の表現欲求があったりとか、何かこう、軸や芯を持つ人が多かった。その頃はにんぷさんや仕事の近そうな広告業界の人たちをフォローすることが多かったけれど(そしてにんぷさんたちは今も大切な友達になってくれているのだけれど)みんなしっかり自分の意見を持っているなあ、という印象だった。

だからなのか、その頃からtwitterには、力強い言葉があふれていた。社会的な歪みに怒る声や、子育ての不公平さに怒る声。そして「ワーキングマザー」という言葉がよく見られるようになったのもこの頃だったと思う。

特にこの「ワーキングマザー」たちのある種の怒りやパワーはすごかった。約9年前だ。今よりももっともっともっと、働くママさんという存在は、本人も会社も社会も手探りの状態だった。誰かが、大きな声で、何かを主張しなきゃ変わらない時期だったのだろうと、今振り返ってみて思う。

それでも白黒つけた物言いができない

その中で私は、どうしても、白黒はっきりつけた物言いができなかった。会社の制度はこうあるべき、にんぷさんに対してのマナーはかくあるべき、さらに、女性はこうあるべき、ワーキングマザーはこうすべき・・。

正直、その頃はどれが正しいのか自信がない、というものあったし、どこかで、強い言葉の威力で見知らぬ人を追い詰めたりしないだろうかと、怖かったというのも、ある。そしてそういう自分は、なんとなく弱いんじゃないかなあと、思っていた。こんなんで、「ワーキングマザー」とやらをやっていけるのかなあと、不安にもなっていた。

あれから9年がたった今、その頃のことを思い返してみるのだけれど。結局私は今も、「強い言葉」を使うことが得意じゃない。

天ないのマミリンみたいにはなれないけれど

3、4年ばかり距離を置いていた間に、twitter界隈の有名な人というのも様変わりしていて、いろんな「インフルエンサー」の人がたくさん登場していた。みんな、上手に「強い言葉」を使うなあ、という印象を持った。何かにはっきりと怒り、主張があり、それを感情的だけでなくロジカルに表す。

すごいなあと思う、かっこいいなあと思う。ずっと、はっきりとモノが言える人にちょっとした憧れはあったと思う。天ないで言うとマミリンみたいな。

だけど、3年経っても4年経っても9年経っても変わらないのであれば、まあ私自身は無理に強い言葉を使わなくてもいいのかな、それはそれでいいのかもな、と、思うようになった。それでもなんとかここまで、やってこられてはいる。もちろんまだまだだと思うところはかなりあるけれど。

そもそも自分にとって、これだけは譲れない、という、主張できるものって、もともとほんとうにものすごく少ない。(もちろん、少しだけはある。そりゃ、もちろん。誰だってそうだ。)たいていの物事は、裏も表もあるからなあ、と思っている。それ自体がどうなんだ、とずっと思っていたけど、まあそれが、私という人間なのだろうなあと、最近は少し思っている。

目立つような強い言葉は使えないけれど、たぶんそれが自分にとって、使いやすい言葉なのだ。みんながみんな、同じ言葉を使う必要はない。人には人の言葉や文体が、たぶん、ある。

それでも一つだけ変わってきた視点

ただ少しだけ、変わってきたなと思うのは、その強い言葉を使えない理由に、昔は「自分が嫌われるのがこわいから」というのがかなり大部分を占めていた、という部分があると思う。これはたぶん、息子が生まれてからのこの8年間で、私が一番向き合ってきた課題だ、と思っている。そして少しずつだけ、変わってこられたな、と思っている部分だ。もちろんまだ完全にとはいかないけれど。

できる限り(それでも100%は絶対無理なのだけれど)言葉で人を不必要に傷つけることのないよう、ということは、何より慎重になりたい部分だけれど、「嫌われないように」という保身は、全然なーんにも生まない。その視点は、意識的にとっぱらっていきたい。

その上で、自分は自分なりに心地よい、自分の言葉で色んな物事を、紡いでゆけたらいいなと思う。

まあそんな私にでも今使える強い言葉といえば例えば「おいそろそろ再起しろよヤクルトスワローズ。」くらいでしょうか。ええ。まじで。ほんと。

明日も走ろうと思えるモチベーションを残すコツ

暑すぎてランニングスランプだ

毎日走っていると書いたばかりでこう言ってはなんだけれども、ここ1週間ばかり、ランニングスランプである。いや、スランプと言っても私はアスリートでもなんでもないためタイムが伸び悩むとかそういうことではなくて、単に、「死ぬほど走りたくない死んでも走りたくないまじでいや」という状態であった。

理由はわかっている。

暑い。暑すぎる。

私は冬よりも500倍夏が好きな人間ではあるけれども、ことランニングに関しては、夏より冬の方が100倍マシだ。いくら寒くても1キロも走れば身体はあったまってくるけれど、暑いのはもう救いようがない。1キロ走るごとに暑さが増す。地獄だ。なんでこんな辛い思いをして毎日走るのだ?なんでこんな辛い思いをして毎日毎日負けるヤクルトの試合を見るのだ?我ながらわけがわからない。

大事なことは「毎日走る」ことそのものだから、この走りたくない病とは本当に日々向き合っていかなければならない。メロスは戦わなくてはならない。

小さなハードルを日々越えることでモチベーションを保っていたけれど

基本的には走ることの自分のモチベーションを、「小さな目標を達成する」ことでなんとか保ってきた。タイムであったり距離であったり、わかりやすく「今日はこれ」とあらかじめ自分でハードル決めておく。もちろん走りながらある程度の調整もする。もう少しいけそうだな、と思ったら、スピードを速めて、距離を伸ばす。そうやって、自分で決めたハードルを越えることで、今日もできた、と、自分の小さな糧にしてきた。

だけどそれだけでは、いつかモチベーションの糸はぶちっときれるらしい。つまり暑い中しんっっどい思いをして走っても別にタイムも速くならない距離も伸びないただ紫外線を浴びまくってお肌を傷めるばかりであることに心底疲れる。なんで私走ってるんだっけ。もう定めるべきハードルがさっぱりよくわからない。

こうなっては結局、昨日のしんどさがあとをひいて、今日も明日も死ぬほど走りたくない、という気持ちになる。これは自分にとっては由々しき事態なのだ。

「明日も走りたいな」という余力を残す

あまりの暑さに、まずは走る時間を1時間早めた。子どもたちが家を出てから1時間くらいざっと仕事を済ませてから走る、というリズムだったのを、子どもたちが家を出たらまず走る。そのあとに仕事する。眠いけど。

この時期に関しては、1時間早めるだけでも暑さは随分和らいだ。格段と走りやすくなった。そしてここからが大事なのだけれど、こうなると、今までの私なら、これならまだ走れるな、と、距離かスピードを上げていた。そうすることで、今日も目標よりも速く(長く)走れたな、と、モチベーションを上げようとしていた。

でも、それで毎日本気で走って疲れ果ててしまうと、また心底走りたくない毎日の繰り返しになる。だからぐっとがまんして、スピードを上げすぎず、あらかじめ決めた距離(10キロ)のところで走るのをやめた。「まだいけるな」「まだ走りたいな」という余力を少し残して。

これはなかなかに効果てきめんであった。まあ、走りたくないものは走りたくないのだけれど、翌日の心持ちは随分と楽だった。

大切なのは、「毎日走る」こと。それならば、「毎日走る」ためのモチベーションをきちんと維持することが、何より大切。それはつまり、「明日も走りたいな」と思えること。だから、「もっと走りたいな」という状態で、今日は一旦やめる勇気、というのも必要なのだ。それ、今週初めて知った。ここすごい大事。

今日も走りながら気づく

村上春樹は長編小説を書くときに、あらかじ決めた文字数を毎日毎日同じ量だけ書き進めてゆくそうだ。どれだけ筆が進まない日も、あるいはとても調子が良くてもっと書けるなという日も、必ずその文字数だけは書き、そしてその文字数に達したらそこですぱっとやめる。「まだ書けるな」という余力を残しておくことがすごく大事、だそうだ。

そうか、これがその「余力」か。と、私はハッとしている。身をもって知った気がする。やっぱり私は頭でじゃなくて、身体や手を動かしながらじゃないといろんなことがわからない人間なのだなあと、またもや思う。もっと頭でいろいろ考えちゃうタイプだと思っていたのだけれど、全然そんなことなかったらしい。走るようになってやっと気づいた。

私はプロ野球選手でもアスリートでもないから、何かと戦っているわけじゃない。だから、日々(ある程度は)楽しく気持ち良く、走れることがすごく大事だ。まあ、しんどいものはしんどいけど、緩急をつけて、走りたいな、という気持ちをちゃんと維持することは、すごく大事だな、というお話。仕事だってなんだって、そういう「遊び」の部分は大事だ。ピッチャーはいつだってど真ん中にストレートを投げ続けるわけにはいかない。いやそういう話じゃなかったっけ。

こうしてなんとかかんとか、明日も走るべく整えるのです。走っても走ってもヤクルトが勝つわけじゃないのに。(今日こそ勝ってくれませんかね・・)

「毎日走る」ために、自分と約束していることたち

シンプルに、なぜ走るのか

誰に言われたわけでも誰かと約束をしているわけでも誰かに脅されているわけでもない。焼肉をおごってもらえるわけでもないし、エルメスのサンダルが手に入るわけでもないし、セリーヌのデザイナーにフィービーが戻ってくるわけでもない。つまり何かが急激に好転するわけではない。

それなのに毎日毎日、私は走っている。今日も走りたくないと思いながら、走っている。なんでこんな辛い思いをして毎日走るのだ?あとなんでこんな辛い思いをして毎日毎日負けるヤクルトの試合を見るのだ?我ながらわけがわからない。

なぜ走るのか。メロスなのか。理由はたぶん、一つだけ。

少しでも、心身共に健康でより良い日々を送るため。

至って地味な理由である。なんだそれ。でもほんとうにこれだけだ。

だからそのために私が一番に大切にしたいことは、速く走ることよりも長く走ることよりも「できるだけ毎日走る」ことなのだと思う。

ノムさんが「速い球を投げられるのは、天賦の才であって、練習しても限界がある。目標設定にはなりえない。対して制球力は、練習をすればするほど、経験を積めば積むほど、向上する。つまり、どんな投手にも身につけられる可能性がある」と本に書いていて、私はそうだよ「目標設定」とはかくあるべき!と、目から鱗だったのだけれど、つまるところ私にとって走ることにおいての「目標設定」は「毎日走る」と位置付けられるべきなのだ。人生は野球だ。意味不明だ。

「毎日走る」ことの規則性そのものが大事

会社を辞めてから、毎日同じ時間に起き、同じ時間に電車に乗り、同じ時間に会社に行く、ということがなくなった。それは控えめに言って素晴らしいことなのだけれど、同時にあらゆる規則性が失われたということでもある。

何か一つ、自分の日々に規則性を持たせること、というのは何となく必要なことのような気がしていた。毎日走る、毎日書く。そういったようなものが。

だから走るということは、もちろん身体をある程度鍛えるといったわかりやすいものと同時に、日々に規則性を持たせる、繰り返すこと自体に、(あくまでも私にとっては)意味がある。まあたぶん一種の修行なのだ、あっほみたいに弱いヤクルトの試合をみるのと一緒だ、あれも修行だから。

「毎日走る」ためのルール

さて、だからと言って「毎日走る」というのはもちろんそんなにめちゃくちゃ簡単だ、というものではない。プロ野球選手になるとか、ZOZOの社長になるとか、石原さとみと付き合うとか、ヤクルトが優勝するとか、そのレベルの物事よりはもちろんよっぽど100億倍くらい簡単なことだけれど(だから私ごときにでもできるわけだけれど)、まあ「毎日ご飯を食べる」ことよりは、ちょっとだけ難しい。

続けるために、なんとなく、自分の中でこうしよう、と決めていることがある。(あるな、と、今日走りながら気づいた。)

具体的に自分が自分に決めていること(誰に言われたわけでももちろんないので、勝手に自分が自分に約束していること)を書き出してみるとこれくらい。

・平日は毎日走る、土日祝日家族の休みの日は走らなくて良い

・基本は月曜10キロ、火曜5キロ、水曜10キロ・・と、5キロと10キロを交互に走り、週に合計約40キロ以上走る

・それを繰り返して月に160キロ以上走る

・3泊4日以上の旅行にはランニングウェアを持って行き一度は走る

・雨の日雪の日暑すぎる日寒すぎる日はジムで走る

・前日に飲みすぎようがヤクルトがあほみたいな負け方をしようがオットとケンカしようが子どもともめようがとにかく朝が来たら走る

・午前中に走る

・午前中に予定が入っていて時間がなくてもとにかく1キロでもいいから走る

・短い距離しか走れなかった日の分は、1週間や1か月のうちに距離を調整して、最終的に月160キロにする

・できれば週に1回15キロを走る

・できれば月に1回20キロを走る

・できれば信号のない道を走り、歩かない、止まらない。

 

もちろんこの先に例えばタイムが速くなるとか、フルマラソンが走れるようになるとか、そういうことも目指したいと思うし挑戦したいとは思うけれども、本質的に大事なのはそういった数字のこと以上に「(休みの日以外は)できるだけ毎日走る」ことなのだと思う。だから、こういう自分なりの小さな約束ごとを、毎日地味に地味に守ることで、私の小さすぎるモチベーションをなんとか維持している。

「なんとかギリギリに守れる」約束であることが大事

だからそのために、自分に課すルールは「なんとかギリギリに守れる」範囲でなければならない。これは無理だわ毎日続けられない、というルールだと本末転倒なわけで、これならなんとか守れる、というギリギリのラインを、日々走りながら見極めてきた結果がこれ、という感じ。

最初から、月に160キロ走ろう!と思っていたわけでも、なんなら平日は休まず走ろう!と思っていたわけでもないのだけれど、日々走りながら、目標も、そのための自分との小さな約束も見つけてきた。

決して頭が良い人間ではないから(あたりまえだ)、机の前に座ってじっと考えて、ものすごく良いアイデアとか、大切な「答え」とか、目標すら見つかるわけでは、ない。最初にこうしよう!と決めるのではなくて、走りながら、歩きながら、身体を動かしながら、少しずつなんとなく、わかってくることがある。そうやって私は、いろいろなことを見つけて決めてゆくのだな、と、改めて思う。

なんかそれも走ることの一つの重要な側面なのかな、と思ったりしている。直接的にも、比喩的にも、走りながら大切なものを見つけてゆくため。しんどいけど。

明日は、この「しんどさ」を乗り越えるためにこれ必要だわ!と、私が今日気づいたことについて書きます。すごい大事ですここテストに出ます。たぶん。

反抗期息子(小2)との、絡まった関係のほどき方

関係性の糸がぐるんぐるんに絡まっている

小2息子は7年間で最大の反抗期を迎えている。原因はわかっている。私の余裕のなさだ。

一向に学校の宿題をやらない、くもんはここ1か月くらい宿題の残塁の山だし、明日の準備も全くしない。朝は朝で早起きするのにダラダラ準備をして、家を出る2分前に帽子がない!とか言い出す。

そのすべてにおいて、「だからあれだけ言ったのに!!」という言葉で私が片付けてしまう。そして、正直、今日々の息子とのコミュニケーションはほぼこれだけで終始してしまっている。

あれもこれも言ったのに、あれもこれもできていない。そんなことばかり言われていたら、大人だって嫌になってしまう。何を言われたって、聞く気が失せてしまう。そりゃそうだ。

それでも息子がギャーギャー言い、私がギャーギャー言い返し、それの繰り返しで息子の気持ちに寄り添う余裕がなくなっているなあと、思う。そう、息子が学校へ行っている間はつくづく心からそう思う。帰ってきたら今日こそ気持ちに寄り添うようにしよう・・

と、思いながら、帰って来た瞬間、一向に学校の宿題をやらない、くもんは・・のループが始まり、また同じことの繰り返しである。

なにを話してもケンカになってしまう。これは倦怠期のカップルのようである。ぐるんぐるんと絡みあっている。ぐるんぐるん。

そもそも、本来の私の性格として、あまりに他人に興味がなさすぎる、という問題点も、ある。もうこう言ってはなんなのだけれど、例えば息子が友達にやらせてもらったゲームの話とかするじゃないですか。ぜんっっっぜん面白くないわけです。なんでもにこにこ聞いてあげる、ということができない。あからさまに、てきとうな返しをしている、気がする。

そういえば昔から、誰かの話を聞いている時に、「ムシこの話全然興味ないでしょ!」と、よく言われていた。気がする。なんて失礼なやつなんだ誰だそいつは、私だ。

それをたった小2の我が子にもするんですよなんてひどい母親なんだ誰だそいつは、私だ。

こうなると本当に息子は大変だ。お母さんとの会話のすべてがあれやった?これやった?なんでやってないの?で終わってしまう。地獄だそんなの。ブラック企業だ。絶対勤めたくない。

だけど、そんなブッラク企業と化した家の中でも、唯一共通に楽しめる会話として糸口になってくれるものそれが。野球である。なんだよまた野球かよほかに話題はないのかそうですないです人生は野球だ。(キテいる)そう、野球なら私も好きなことなのだ。他人に興味がない私でも、好きなことの話ならいくらでもできる。

ヤクルトの試合を見ながら一喜一憂するとき、昨日の試合を振り返って、あれ良かったよね、これすごかったよね、あのときのプレーかっこ良かったよね、と話すとき。あまりに負けが続いて、これは打順が絶対悪い、どうしたら得点につなげられるか、って、紙に書き出して二人で考えるとき。未だにわからないルールや用語を見つけて、息子にていねいに教えてもらうとき。(野球のルールってめちゃくちゃ奥深くて知らないことがまだ出てきておもしろい)

好きなものを共有する時間は、二人ともごきげんだ。そうやって、実際には何の役にも立たない、ヤクルト球団が知る由もない、余計なお世話なことを二人でぐだぐだと話す、その時間は、ぐるんぐるんに絡まった関係性の糸を全く感じることなく過ごせる時間だ。好きなものを共有しているって、こんなに良いものなのだな、と思う。

それは、オットと私の関係でも言えることだなと思う。普段から本当に家にいないのでじっくり話す機会がほぼないような我が家で、共通の話題といえばいつも子どもと仕事の話ばかりだったのだけれど、野球を観るようになってから、格段に野球の話が増えた。おもしろい記事を見つけたらすぐに LINEするし、多分会話の数もLINEの数も増えた。

私は本当に個人的な人間だなと思うけれど、やっぱり好きなものっていうのは、とことん話せる人がいるっていいものだと思う。昔からずっと好きだった本に関しては、なかなか思いの丈をぶつける人が周りにいなくて、ずっと一人で咀嚼して反芻してああ誰かと共有したいでもできない、と、もどかしく思いながら生きてきた。(というか、そう思っていたのだなきっと、ということに最近気づいた。)

だけど、例えばファッションのことはディープにとことん話せる友達がいるし、野球にしても家族や先輩ととことん話せる。その、好きなものを「とことん」話せるってめちゃくちゃしあわせなことだし、人との関係において大事なのって、もしかしてそういう好きなものの共有だったりするのかな、とか思ったり、する。当たり前のことなのだけれど、好きなものに関して話している間、人は、ごきげんなのだ。そしてごきげんなことというのはとても大切なことだ。

だからまあ何が言いたいかというと、今日も野球は楽しいねということと、息子の話はちゃんと聞きましょうということです。あーーー早く終われー反抗期ー(他力本願)

 

100%の力でやってみることを怖がらないようになりたい。

「どれくらい頑張るのか」という問題

ずっと、努力を人に見せるのが恥ずかしいなあと思ってきた。というか、努力をしなくてもサラリとできることに憧れていた。もちろんもういい大人になって、そんなことはありえないと今ではわかるのだけれど。

もう一つ、「努力をするのがカッコ悪い」と思っていた(思い込もうとしていた)理由の一つに、「頑張ってしまうと、自分の限界が見えてしまうんじゃないか」という怖さがどこかにあったのだと思う。頑張って出来なかったということは、自分はそれ以上はできないということだ、と、自分の能力の限界を知ることが怖かったのかもしれない。

いつも80%にしておけば、失敗した時も、あと20%の力を出せば成功できていた「かもしれない」という、思い込みを残せる。その根拠のない自信の余白を残すために、どこかで頑張ることを恐れていたのかもしれない。

書いてみたら、なんとまあ恥ずかしい考え方なんだと思うのだけれど、そういう気持ちのバランスをとりながら、いろんなことに向き合ってきた部分はあると思う。

あと、これは私に限ったことだと本気で思うけれど、サラリーマンでいた時、どうしても出る杭になるのが怖い気持ちもどこかにあった。80%の力と、100%の力で、お給料も変わらない空間に身を置いていると、なんというかいろんな保険を考えて80%にとどめてしまいがちだった気がする。

もちろん、毎日毎日100%の力を出していたら人は簡単につぶれてしまう。緩急が大切で、いざという時に100%の力を出せるように、普段は緊張を緩めておくことも大切。だけど、きっと私はそのいざという時の100%そのものを、怖がっていたような、気がする。

いや、正直に言えば、今も少し、怖い。

大きな会社を辞めて、一人になった。その理由はいろいろあるけれど、「言い訳なしの個人の力でやっていきたい」という気持ちもあった。だけど、今まだ、その「個人の力」に向き合うのが怖いという気持ちが、残っているなと感じる。

会社にいれば、100%を一生出さなくても、食いっぱぐれることはなかったかもしれない。(これから厳しくはなってくると思うけれども。)でも一人になったからには、怖がる気持ちを克服しなきゃな、と思っている。

あれは高校受験の時だったか、刺繍が趣味だった母が、

「It’s better to regret doing something than to regret not doing it.」(やらないで後悔するより、やって後悔した方がいい)

っていう言葉を入れた額をくれた。(ような気がする。)(うろおぼえ)

なんかまさに、その通りだと思う、34歳の春。15歳の春にその精神で頑張ってたはずなのに、もうすっかり忘れていたよ・・・。

なんだか踏ん張りどきな気がしている。恐れずに、いろんなことにチャレンジしてゆきたいな。そう、野球選手のように。(本当に野球のことしか考えてない。)ぐっとお腹に力を入れて。

 

【50音blog 】お:音読ーー息子の音読を聞くのが好きだ

声に出して読む、聞く、物語も良いものだ

子供が生まれてから知ったことの一つに、「音で聞く(読む)物語もいいものだ」ということがある。

ずっと本は一人で読むものだと思っていたし、昔は本を読むときに声を出して読み上げたら怒られたような・・気がする。声に出さずに読むもの、と教えられた気がする。

本を一人で読めるようになってからもう30年近く、ずっとそうして生きてきたわけだけれど、子どもたちに読み聞かせをするようになって、「声に出して読む」と、物語がまた違った印象を持ってぐんと迫ってくることを知った。この世に朗読会とかがある意味がものすごく良くわかった。

絵本を声に出して読んでいると、その言葉のリズムがすごく心地よくて、良い本だと普通に泣いてしまったりする。読み聞かせしながら泣くとかどーなんだと思うけれど、仕方がない、母ちゃんも人間だ。あたりまえだ。

声に出して読む方が、ゆっくりと読めるわけで、言葉をかみしめやすい。音にすることで見えてくる情景もあるのだなあと、私は初めて知った。

そういう中で息子が小学生になり、毎日毎日来る日も来る日も夏休みも冬休みも音読の宿題を聞かされている。

まあ、めんどくさいのだけれど(忘れてて朝出る前に思い出すとかキー!ってなる。)でも息子の声で聞く小さな物語は、なかなか良いものだな、と思う。

7歳の男の子が聞かせてくれる言葉遊びや、詩や、お話を聞く。ちょうど良いところで今日の分は終わったりして、いっちょまえに先が気になったりする。ご飯を作りながら聞くその時間は、ちょっとだけスペシャルだな、と思う。

そのうちきっと恥ずかしがったりとかして、今のように素直に感情を込めて読んではくれなくなるだろう。セリフの声を大きくして話したり、ちょっと寂しげに言ってみたり、抑揚をつけたり、まだ素直だからこそ見られるその表現は、きっと失われてしまうものだったりするのだろう。

子育てなんてきっと、後から振り返って懐かしくなるものごとのオンパレードだと思うけれど、できることなら、少しはその瞬間に、ああこれいいなあ、と気づいてみたい。小学生の男の子が、物語を読み聞かせてくれる時間なんて、きっとほんの一瞬で過ぎ去ってしまうことだから。

球場に一人でリュックを背負って来てビールを飲むおじさんになりたい

だいたい野球のことを考えている

本当に一日の80%くらいは野球のことを考えている。許されるならば一日中、野球のYouTube見て過ごしていたい。とりあえずこないだ夜な夜なエイオキ(青木)が出ているYouTubeを見まくっていてわかったことは、鳥谷まじいけめん。ということである。あんな人早稲田にいたっけ・・・私は本当に無駄な学生生活を過ごしたような気がしてきた。知ってたけど。

あと今浪さんのヒーローインタビューがいちいち最高で笑った。ニヒルっていいわ。

最近いつも思うのは、そのうち子どもたちがそれなりに大きくなって自分で学校へ行けるようになって手がかからなくなったら、神宮の近くに住みたい。ということである。

これもエイオキが出ているYouTubeを夜な夜な見ていた時にわかったことだけれど、石井一久がメジャーからヤクルトに戻ってきたのは、古巣への愛でもなんでもなく、「立地」だということである。石井一久、天才。(ついでに、西武にあれだけ通えた自分は本当に偉い、とも言っていた。それも理由は、「立地」。まじで天才。)

まあそれだけ立地の良い神宮球場ですから(駅から遠いけど)そんな簡単に住めるもんじゃないですけれども一つの夢なのでそれはそっとしておいてくださいはい。

あそこの何がいいって、神宮外苑をランニングすることもできる。村上春樹も言っている。今の家も個人的に好きなランニングコースがあって満足しているので、そうするともう良いランニングコースがないところには住めないのでは、と、ちょっと思っている。(人は変わるものである)

で、神宮の近くに住んで、朝からランニングして、コーヒー飲んで、原稿書いて、お昼寝して、あとは何がしたいかというと、もちろん夕方からふらりと球場に行くのである。もう野球が始まっているくらいの時間にふらりと一人で行って、生ビールを飲んで、風にあたりながら試合を見て、あー今日も負けたかまあ人生そういうものだ、と思いながらとぼとぼ岐路につくのである。

イメージは、黒いでかいリュックを背負って、ヤクルトのキャップをかぶって、一人で球場へ来てビールを飲んで、点数が入った時だけおもむろに傘を取り出すおじさんである。で、その時だけ隣にいる小学生の男の子にニコッと嬉しそうに微笑んで、ぼく、野球好きか?と聞くのである。

そう、よく遭遇するのだ、そういうおじさん。たいてい、両隣のどちらかには座っている。で、勝ったら息子に、ぐっちの応援グッズくれたりする。きっとずっと、ヤクルトを応援し続けているんだろう。そして多くの年は負け続け、ちょっとした悲しみとともに人生を生きているのであろう・・・。でも優しさを知るのだ、そういう人は。ヤクルト好きのおじさんに悪い人はいない。(特に負け惜しみではない。)そういう人に、私はなりたい。

というわけで、10年後くらいは神宮の徒歩圏内に住むべく、私は今日も頑張って生きていきたいと思います。でも弱いはずのヤクルトが三連勝もしてしまって私は本当にちょっとどうしていいかわからなくなっている。でもまあとにかくヤクルト好きの気の優しいおじさんたちに、たまにはものすごく良い夢を見させてあげてください、と、少し願ったりしている。

ヤクルトが二連勝なんてしたから考えたーー胆力を蓄えること

やっぱり負けに慣れておくことは大切だという話

ヤクルトが連勝した。信じられない。そんなの見たことない。去年の夏に一度だけ連勝してるところを見た気がするけど、あれは幻だったのかなと思うくらい、それ以来一度も見ていない。信じられない。

「だめだ、勝つことに慣れちゃいけない、何事も勝てばラッキーくらいの気持ちでいることは重要だ、これ以上高望みしちゃいけない、バチが当たる…」とぶつぶつ言っていたら、オットに「ねえ落ち着いて、たった2回、勝っただけだから。」と諭された。

そんなわけでこの週末はずっと、DAZNをクロームキャストでテレビにつなぎ、試合を観ていた。

私は昔から、スポーツに自分の人生を重ねるなんてちゃんちゃらおかしい、なんならださい、とまで思っていたはずなのですが、とりあえずこの開幕戦では、33歳になって新しいポジションに挑戦することになり、そこを必死に守り、打つべきところでしっかりヒットを打ち、得意分野の外野ではピンチを救う守備を見せつけてくれるいけめんぐっちに最高に励まされていた。そもそも10数年いたチームを卒業して別のチームに来て、這い上がってここまで来るなんていうところが泣ける。34歳で会社を辞めた私、がんばらなきゃ・・と、すっかり自分の人生を重ねあわせている。もう、ださいどころの話じゃない。うん、ださくなんてない。

そして、期待を一身に背負ってI’m back!してきたエイオキ(青木選手)の、やるべきところでしっかりやる、その姿にすっかりやられてしまった。

エイオキは、過去のインタビューで、不調になった時はどうしていますか?という質問に、「負けそうになる時はもちろんあるけれど、それはメンタルで負けてるんじゃなくて、間違いなく、技術の問題です」と答えている。毎日毎日練習をしていて、疲労がたまる、そうするとそれまでできていなかったことができなくなる。それに悩んでメンタルがやられることはあるけれど、そこでできることはやっぱり身体を整え、鍛えることだ、と。

私は完全なる「非」体育会系なので、何事もストイックなことは苦手で、努力とかはなるべく外に見えないようにするのが良いと思っていた。もしかしたらどこかで、努力そのものすらカッコワルイと思っているところがあったかもしれない。

だけど日々身体を動かすようになると、「何もせずに手に入るもの」なんていうのはやっぱりないのだな、と、思い知らされる。身体というのは特に正直で、やっぱり動かした分だけ変化があるし、動かさないとそれはそれで明らかに変化がある。(多くは良くない意味で)

たぶん、野球選手なんてきっと、その事を痛いくらいにわかっているのだろう。私なんて、34にしてやっと知ったのに。あほだ。

身体というのはすごくわかりやすいけれど、それは例えば「書く」ということにしたってきっと同じだ。「書く」ことって思いの外、体力仕事なのだなと思う。頭を使うことも、物理的に、いすに座り手を動かすということそれ自体でも。だからそれはきっと、ある程度は日々鍛える必要のあることなのだ。

生きていると、「ここぞ」という場面がやっぱり、ある。今やらなきゃいつやるんだ、という場面がある。大事なのはその時に踏ん張れる胆力をちゃんと持っていることだ。それは、生まれつき持っているものなんかじゃなくて、やっぱり鍛えなきゃいけないものだ。(そしてそのためには普段は6割くらいにチカラを緩めて、休ませておくこともきっと大切。)

まあそんなことを考えていたらもちろん、ヤクルトは翌日には負けた。そりゃそうだ。負けないわけがない。きっと胆力を蓄えているのだな、うん・・・

桜並木を、息子と手をつないで歩いた日のこと

一年間おつかれさまでした!

春休みです。サラリーマンには春休みがないので、春休み感というのをここ13年ほど全く感じずに生きてきたわけですが、フリーランスの身になった瞬間、やたらとそういう子どもの学校リズムを痛感するようになる。(子どもが小学生になった相乗効果だと思うけれど。)

小1息子は毎日おべんと持って学童へ行っているわけですが、慣れないおべんとを1週間(というか4日)作り続けただけで不良母さんは疲れてしまい、昨日、「今日は学童午前中だけにしてお昼に帰ってきたら・・?(外出仕事もないし・・・)」というカードを切り、二人で焼肉ランチをした。フリーランスは最高である。

ところで、知り合いのみに公開しているインスタで、7歳息子が反抗期ですぐバレるしょーもない嘘をつく、という話をしたら、「うちも!」という声がたくさんあった。

こういう時、SNSっていいなあと、思う。8年前、息子の妊娠〜出産の頃は、ほんとにほんとにtwitterに救われた。ちょっとした悩みや迷いを共有できた時、うちもうちも!と共感しあえた時の、そのほっとする感じというのはめちゃくちゃ大きかった。

まだ周りに出産した友達もすごく少なくて、ママ友なんて一人もいなくて、母も亡くしていて頼れる実家もなくて、知らないことだらけの中、なんというかこう、専門家の話を聞いたり難しい話をするんじゃなくて、ただ「あーじゅにゅーねむいー」とか、「おむつかえたばっかのにまたやったな!」とか、それだけをつぶやいて、「うちもー」とか言い合っているそのことに、すごく励まされた。楽しかったなあ。

不安な時、いつだって欲しかったのは、「アドバイス」じゃなくて「共感」だったのかもしれない。

今、反抗期というかめんどくさい期を迎えた息子と、久々に二人で出かけて、久々に手をつないで歩いた。

桜は満開を少し過ぎて、ひらりひらりと花びらが舞っていた。

桜の木を見上げたら、まだむすめが生まれる前、息子がまだ1歳や2歳くらいの頃に、こうして二人でよくお出かけをしたことを思い出した。

その頃私は会社の時短制度を使って水曜をお休みにしていて、その平日休みを使ってよく二人で出かけた。(ところで水曜日休みというのは本当に最高で、私これ世紀の大発見だと思ってるんですけれども世の中はみんな水曜休みにした方がいいと思う。2日仕事したら休み、というのは精神的に素晴らしくて多分病んだりする暇がないとおもう)

平日の、人混みもない街を、二人でゆっくり歩きながらお出かけしたあの時間は、私の子育ての中でそのうちしあわせな時間ランキングの上位に入ってくるのだろうとおもう。

まだ息子は小さくて、手を上にぎゅっと伸ばして、私と手をつないでいた。そうして懸命に歩く息子は、ただただかわいかった。

そして今、気づけば息子は、普通に手を下ろして、私と手をつなげるようになっていた。

大きくなったんだなあと、しみじみおもう。わかっていたはずだけれども、でも本当に、こんなに大きくなったんだ。

遠くない将来、息子はこの手をもう、離してゆく。あの日、桜散るなか二人で手をつないで歩いたなあと、いつか懐かしく思い出す日がきっと来る。

だからそれまで、この反抗期めんどくさい期の息子とも、手をつないで、横に並んで、色々話していきたいな、と思った。

子どもたちは明日から(新年度という意味では)2年生と年中さん。母さんは母さんになってまだまだ8年生。迷うことも戸惑うこともたくさんあるけれど、子どもたちと並んで、少しずつ、前に進んでいけたらいいな。

みんな進級おめでとう。お母さんたちにとっても、子どもたちにとっても、楽しい毎日が待っていますように。

 

ラクじゃないけど楽しい日々をーー子育てと仕事のプププ

消化試合の平日に思ふ

昨日、1日のうちに、「今日は金曜日だー」と、思って「いや待てまだ水曜だ、ありえん」と気づく、というのを、軽く7回くらいはやった。そんなわけで、金曜日が終わったはずなのにまだ平日という今日の消化試合感がハンパないですけれども私はなんとか生きています。

前職の後輩から、メールが届いた。私が担当していたクライアントを引き継いでくれている後輩女子なので、「仕事はどうですか、営業は大変だと思うけど・・」といったようなメールを返そうとして、いやいや待て待て、と、思いとどまった。

勝手に「そちらの仕事は大変だ」なんて決めつけちゃいけない。というか、大変だとか辛いだろうとか言われたら、無理にだって大変なところを探そうとしてしまう。そんなこと言ってくる先輩(というかもはや私は先輩でもなんでもないよく知らない女の人)なんていやだ。あーいやだいやだ。おせっかいおばさんにはなりたくない。

と、思いまして、「お仕事はどーですか。」と言うにとどめた。(でもそれは言っている)

そうすると、「みなさん本当に優しくて、デスクは松潤で(←これは私が今誇張しましたけれども本当に松潤なんです。そうですよね。)、楽しくやっています!」と、返信が来た。

・・・かわいい。いいよね、こういう、仕事に対して「楽しくやっています!」と言えること。

もちろん、大変な時に大変だと言えることとか、しんどい時にしんどいと言えるとか、SOSをちゃんと出せるというのはすごく大切だ。あと、思いっきりグチれるとか。(いつもグチを聞いてくれる人たちありがとうございます。)

それは大切なのだけれど、それとは別に、なんというかこう、「仕事ってしんどくて何ぼ」みたいな余計な考えが、頭に染み付いてしまっていることって、ある気がする。

その奥には、「自分がこんなにしんどいのだからあの人がしんどくないなんてありえない」とか、「あの人はあんなにしんどそうなのに、自分がしんどくないなんてどうなんだ」みたいな気持ちが、あったりもするのかも、しれない。

でもそういうのは、つくづく、意味がないどころか、結構有害な、考え方だと思うわけです。

ちょっと前に、「赤ちゃんのお世話が全然しんどくない」みたいな記事がプチ炎上しているのを目にしたことがあったのだけれど、これもまあ、しんどくないなんていいじゃないか素晴らしいことじゃないか、と、正直思ってしまったりも、した。もしもその奥に、「私の子育ても大変だったのだからみんな大変じゃないといや」という気持ちがあるとすれば、それはやっぱり、健全でないと思うから。(まあこれは色々複雑に絡まりあってそれだけじゃないのもわかるのだけれど)

他人に対してはもちろんだけれど、自分に対しても、しんどいこととか大変なことほど、ホンモノだ、勤勉だ、と考えてしまう呪縛のようなものからは、意識的に抜け出せるように、考え方を鍛えておきたいな、と思う。意外と、やっちゃいがちだから、どんな場面でも。

「楽しい」と、「ラク」は、違う。全然違う。楽しいことは、ラクすることじゃない。(まあ前述の炎上に関しては、「楽しい」じゃなくて「ラクじゃん!」と言われて、うぐぐ!となった人がたくさんいた、というのもわかるのだけれど、うん)

だから、できるだけ、大変だけど、楽しいなあ、と、思いながら、仕事も子育てもしていたい。間違っても、しんどいことこそ本質だと思ったり、楽しいことをどこかで恐れてしまうような、そういう考えのクセは持たないようにしたい。

・・・7歳児の反抗期はそりゃもうめっちゃ大変ですけどね毎日ピキピキしてますけどねそれでもあっという間に過ぎてくこの毎日を、プププってユーモアで笑いながら過ごしていきたいものです、プププ。

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