広島絶品はしご酒!ー広島「歩くグーグル」のオススメ

広島の「歩くグーグル」とはしご酒

Twitterのプロフィール写真があまりにも若い頃のもので、いてもたってもいられなくなったため、広島でおされすぎる写真スタジオを運営している友達に撮ってもらうことにした。そしてそれにかこつけて、元タウン誌編集者でもあるその友達(歩くグーグルと呼ばれるくらい、広島のことはだいたいなんでも知っている。)にお店選びは何もかもまるっと丸投げして、二人で飲みに行くことにした。

そう、何を隠そうこの友達は一人目を出産してから友達になったママ友であり、会うときはいつもというか100%子どもたちがものすごいテンションで隣にいたわけですが、今回は初めて二人きり。まあ旅行のたびに子どもたちが寝静まった後夜中まで飲んでますけど。

歩くグーグルが連れて行ってくれるお店がどこもかしこもすばらしく最高でしたので、すべて書き記します。もうね。広島最高です。

では不良母たちが、17:00からはしご酒したお店をどうぞ。広島行ったらここ行って!(ぜんぶ店名にお店のリンク貼ってます!)

一軒目 清ちゃん

餃子とビールだけのカウンターのお店。お店のおばちゃんが、肌つやよくてめっちゃかわいい。そういう意味においても(どういう意味だ)餃子は正義。

この餃子に乗っけて食べてね!と出されるナムルが、信じられないくらいに美味しい。ちょっと今思い出して食べたくて泣きそうになってるくらいに美味しい。

「18時からはもう予約でいっぱいだったのよ、運よかったよあなたたち!」と、おばちゃん。お店のピンク電話が鳴ると、何度も「年内は予約がいっぱいで・・」と、おばちゃんが言っていた。ので、予約して行かれるのがベストかと!(私たちは二人で17時に入れたのでそれくらいなら比較的入れるのかも。)

スナック大好き人間としては、こういうカウンターだけのお店、大好物です。こないだ「スナックの形が好き。」と言っていた先輩の気持ちが今何となくわかるな・・・

二軒目 CIELO

おめあてのお店が19:00〜だったので、こちらで一杯飲んで待つことに。路地裏のお店。歩くグーグル、よくこんなお店を知ってるな・・。しかも「急遽空いた時間にちょっと飲めるお店」としてこんなお店をさらりと差し込んでくるところに、歩くグーグルのもはやグーグルよりすごいところを感じる。

ちなみにここで「ヘパリーゼプレミアム」(ヘパリーゼもプレミアムになる時代)を飲んだおかげで翌日かなり楽でした。ありがとうヘパリーゼ。

お店の外にテントというか大きなタープのようなものがあって、そちらでストーブとブランケットであったまりながら飲むサングリア。美味しくないわけがない。

三軒目 たこ焼き佐藤

今まで比較的黙っていたのだけれど、たこ焼きが死ぬほど好きです。歩くグーグルの精度ともなると、ずっと黙っていたこんな事実まで蓄積されたデータから導き出されるのであろーか。とにかくすごい、歩くグーグル。

これまた大好物のスナック的な店内で、ビールとたこ焼きをいただく。ほんと好き、スナックの形。

たこ焼きは自家製だし醤油と、おたふくソースの両方で食べられます。両方美味しすぎて泣きたい。今すぐ食べたすぎて泣きたい。広島遠い。

柚こしょうとうがらしをかけるとまた美味。これはほんとに、良いたこ焼き。

隣に座った27歳の女の子かわいかった。27歳でここに一人で来られるって、それ良い人生。

四軒目 中ちゃん

また出た名店・・・!

この、うにクレソンが絶品でした。うにとクレソンこんなに合うなんて。

チャンジャも白子ポン酢もいちいち美味しかった。

思うのだけれど、まあこのおされな歩くグーグルは、おされなお店も山ほど知っているくせに、私のおっさん度を本当によく知っていて、こちらに合わせて店構えからして好きなお店ばかり選んできて泣きたい。

ちなみに店構えはこんな感じ。

もうすき!だいすき!(興奮気味)

五軒目 bar tre

この時点ですでに「てっぺん回って」いましたが、広島の歩くグーグルがまだ飲みたそうにしているので(人は酔うと次の店に行く言い訳を他人にかぶせる)最後の一軒。

ここにきて、これまでの私好みのおっさんチョイスとはうって変わったおされバー。

おされか。

ちなみに外観。

おされか。

果物を使ったカクテルがどれもこれも絶品であっという間に飲んでしまった。私は勝手にバーには本物と偽物があると思っているのだけれど、本物の(本物の定義は私の中にしかない)バーでした。参りました。

おつまみに出てきた自家製ドライフルーツも美味しすぎた・・・ちょっとしたおつまみが美味しい、ってだいじ。お通しとかポテサラとかが美味しい、ってだいじ。(どうしても話を居酒屋基準にしたい)

そんなわけでいい加減てっぺんも回りすぎたので、こちらで終了。ちなみにここで雨が降り出していて、本物のバーのバーテンさんが傘くれました。ありがとう。

母さんたちが楽しんで生きることが、すごくだいじ。と、思う。

今回はオットたちが、東京と広島でそれぞれ子どもたちを見ていてくれて、母さん二人のはしご酒が叶いました。私はもう、こうやって飲みに行く時に子どもたちを見ていてくれるオットに感謝することこそあれ、罪悪感を持つことはさっぱりなくなってしまったわけですが、世には子どもを置いて飲みに行くなんて!と、いう風潮もあるそうです。信じられないけれど。

いや、どう思うかは個人の自由なのだけれど、その考えを他人に押し付けるのは全くもって見当違いだと思うわけですが。

けどこうして母さん二人で飲み歩いていると、気づけばお互いの子どもたちののろけ話になるんですよね。昔、付き合っている人のことを、離れている時間こそあー好きだなあと思ったり焦がれたりしたみたいな。いやちがうか。いやでもそんな感じ。こういうとこほんとうちの子かわいいわーって。まさにのろけ。

いつも子どもたちと一緒に居るお母さんたちには、きっとそういう時間がすごく大切。

そして、何にしろ、母さんたちが、楽しく自分の人生を生きているというのが、なんというかきっと、「大人わるくないな。大人楽しみ。」という、子どもたちの気持ちにつながる気がしていて、つまるところ、それが一番大切なことなんじゃないかな、と、ここのところ思っています。

(いやまあだからって私は飲みすぎですけどねはい!)

という、案の定の私の壮大な言い訳でした!楽しすぎた、歩くグーグルありがとう!

歩くグーグルのおされ写真館はこちら。(おっさん要素はゼロです。)

写真にリンク貼ってます。

おされか。

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今日も走りながら考える

今日はギラギラ系じゃなくて微笑み系

ここのところ、タイムを速くしよう!という比較的ギラギラ系で走っていたのだけれど(なにそれ)まあ当然のことながらギラギラ系は全然自分に合わないので、今日の目標は景色を楽しみながらゆっくり走ること。いやいつものランニングコースなのだけれど。

キロ6分のペースを維持するようにして、あまりにペースが遅くなるようならそこはちょっと頑張って意識して上げるようにして、だいたい同じペースを維持。(ペースを途中で落とすと逆にしんどくなってしまう、私の場合)

特に前半の速くなりがちなところでは、意識的にペースと落として、とにかく同じペースを維持。という感じで、なんだかんだで16キロを走った。タイムはちょうどキロ6分の1時間36分4秒(目標より4秒遅かったけど)。

「景色を意識しよう」としたら、いつものコースなのに、川の水面に映る光のきらきらがやけに美しく見えたり、遠くに東京タワーが見えることに気づいたり、何なら自分のマンションすら綺麗に見えた。何だ、なんか変なホルモンが出てるのだろうか。

走り始めた頃は、何がどう転んでも、どれだけタイムが遅くても、しんどいものはしんどかった。何が何でもしんどかった。よくランニングのサイトや本を見ていると、「話しながら走れるペースで」とか書いてあるのだけれど、そんなもんどんなペースでも無理じゃわいあほなのかかく!と、思っていた。走りながら話すとかまじでむりむりむり、と、思っていた。

けど今日自分の目安として、走りながら話すは無理だけれど微笑むことはできるペースにしよう、と思い、たまに微笑みながら走った。もちろん一人である。隣には誰もいない。ホラーである。

ホラーだけれど、これで16キロを走りきれた。12キロ超えたあたりからさすがに結構しんどかったけれど、16キロ時点でも「まだ走れるな」という余力が、ほんの少し、残っていた。(もちろん微笑んだ。)

物事が続くのは、達成感だけじゃないのかも

やっぱりなにごとも、しんどいだけでは続かなくて、そしてきっと、「達成感」だけでも続かなくて、こういう、走りながら見える景色がやけにきれいに見えることとか、なんか自分、生きてるだけで儲けもんじゃない?と達観(というか楽観)できることとか、なんかそういう瞬間があるから、けっこうしんどいことも続けていけるのかもしれない。

たぶん仕事も同じで、私はいつも「どうせやるなら楽しく」という心持ちでやってきたけれど、そんなこと言ってもしんどいことも山ほどあるわけで、こつこつ地味な作業を積み重ねていかなくちゃいけないこととか、ハードな交渉に巻き込まれるとか(私は逃げるけど。)、確定申告とか、そういうそもそも楽しくないことだってもちろんある。

けどそういうしんどいことを抱えながらも続けていけるのは、仕事の「達成感」だけじゃなくて、隣にいる人が意外といいやつだなと気付いた瞬間とか、同僚としょーもない話で爆笑した時間とか、通勤中に出会うサラリーマンがかっこいいとか、なんかそういうささやかなことが、活力になっているのかもしれない。

そういう、日々の、普通の毎日の、ささやかな喜びというのは、実はすごく大事なのかもしれないなあ。その積み重ねが、もしかしたら人の幸せを作っているのかもしれないなあ。と、なんかそんなことを思った。走りながら一人で微笑みながら。

相当ホラーである。

「不健全な魂もまた、健全な肉体を必要としている」

毎日走っていたら、気温が少しずつ下がっていくことも(でもまだ半袖で走れる)、木々が色づき始めることにも、日々の細やかな変化に気づくことができる。通勤で歩くだけじゃ、会社に急いで向かう時間だけじゃ、なかなか気づけなかった季節の変化だなあと思う。だから私は、一人で微笑む。ホラーである。

村上春樹は、名著『走ることについて語るときに僕の語ること』に、こう書いている。

真に不健康なものを扱うためには、人はできるだけ健康でなくてはならない。それが僕のテーゼである。つまり不健全な魂もまた、健全な肉体を必要としているわけだ。

これ名言だわ、と、思う。

健全な魂が健全な肉体に宿ることは感覚的によくわかるけれども、不健全な魂に向き合う時にも、健全な肉体は必要になる。

悪しきものは、自分が思うよりもずっと簡単に、自分の身体や魂を蝕んでしまう。だから私はできる限りそういうものからは物理的距離を置くようにしているわけですが(めんどくさいことからもすぐに距離を置く)、必要な「悪しきもの」というのは何かを作り出す時には必要になってくるわけで、いつかそれにも向き合えるような健全さを身につけられるといいなと思う。

それは、強さというより、健全さだ。

↓ものすごく面白いです。何度も読み返してボロボロになっている。カバーもどっかいった。走らないときに読んでも面白かったけど、走るようになってから読んだらさらに面白い。

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初心者ランニングウェアでこだわるところ

ジェームスパースのTシャツとシークレットクローゼットのコットンパンツで走っていたけれども

いいかげんちゃんとした服装で走ろうではないか、と、走り始めて半年くらいたった時にようやく決意した。それまではいつまで続くかわからないし、だいたいめっちゃへなちょこタイムのくせに、ウェアだけちゃんとしてるのは恥ずかしい、と、思っていたのです。普段はなんでも物欲から入るくせに、こういうところは慎重というかなんというかなのです。

でもこれだけ定期的に走っているのだからもういいじゃないか、と、ちょっとしたごほうびの気持ちでランウェアを買いに行った。木更津アウトレットに。(セール以外のものを買う気にはまだなれない)

ちなみにそれまで私が何を着て走っていたかというと、ジェームスパースのTシャツと、数年前に買ったシークレットクローゼットのコットンパンツ。ある意味ぜいたくっちゃぜいたくだけれど、走りづらいことこの上ない。今思えば。

とりあえずランニングといえばなんとなくナイキだろうということ(初心者)でナイキに行き、ノースリーブのトップス、ブラ、ショートパンツ、スパッツ、くつした(それすらなかった)、シューズを購入。あと、これ買い忘れてたわ、と、後日アディダスショップへ行き、セールになっていた(何がなんでもセール)アディダスステラのキャップも。

誰がこのちょう個人的ランニングウェア事情に興味があるのだ・・・

いやここまで書きながら、誰が私のランニングウェア事情に興味があるんだという声がすぐそばで聞こえる気がするのですがそもそもそんなこと言っていたらこのブログなんて誰がなんの興味があるんだという話なので恥を忍んで続けますはい。

それまではニューエラのキャップをかぶって走っていたのだけれど(信じられない)スポーツ用のキャップってすごいのね、めっちゃ軽いし気にならない。これは絶対買った方が良いです。「買った方がいいもの」ってそこかよ、という気がしますが、そこです。

しかもこのキャップ、洗濯できる。いや、できるのかは知らんが私は構わずしている。特に困ったこともない。

これ、洗濯できるということはどういうことかというと、濡れても大丈夫ということなんですね。で、私ときたら、夏に屋外のプールで泳ぐときも使っています。スイミングキャップ代わりに。日よけにもなって一石二鳥。最高だわ、アディダスステラのキャップ。

やっぱり専用のウェアというものには理由があるようで、やっぱりちゃんとしたウェアというのは走りやすいのですね。まあ気分の問題のような気もするけれども。なんと言っても一番感動したのはアディダスステラのキャップなので。

ナイキの高級スパッツに手を出す

でもって会社を辞めてからは毎日走るようになったので、ウェアがひと組では足りない。と、言うわけで、もう一揃えすることにします、今度は御殿場のアウトレットで。(あくまでもアウトレット)

昔、御殿場アウトレットのアディダスにはステラアディダスの扱いがあったと思うのだけれど、これがなくなっていて残念でした。ここで買おうと思っていたのに。(あくまでもアウトレット)

そういったわけで結局またナイキにいったんですけど、スパッツを見ていたら、ナイキのおねーさんが、ランニング用ですか?それならスパッツはこれ一択です。と、勧めてくれたスパッツ。

じゃあそれにしよーと値札をみたらなんと。約1万円。いやなんの変哲もない(ように見える)黒いスパッツがですよ。1万円って。なんと高級。

なんといってもへなちょこ初心者の分際で、これに1万円を出すのはどーなのか。。。だって、最初に上から下までそろえたときもトータルで2万円弱だったのですよたしか。それをスパッツ一枚で1万円。。。

オットに、1万円のスパッツ勧められたわさすがに初心者には高いわ。。と、言ったところ、基本けちんぼ(失礼)のオットが、「いやいやスパッツとはそれくらいするもんだよ!そこはこだわった方がいいよ!」と珍しいことを言う。え、まじで、じゃあ試着してみようかな。。。と調子に乗るツマ。

ちなみにオットはランニングをするわけでは、まったく、ない。ただのスポーツウェアおたくである。なぜかスポーツウェアをいっぱい持っている。あのジャージかっこいい!と思っていた高校生くらいで感性がとまっているのだろうね。。。

試着してみたら、また別のおねーさんも出てきて二人がかりで「ぜったいこれです。特に長距離走るならこれ以外ありえないです。ぜったい。」と、熱弁される。そんなこと言われたら致し方ない、だまされたと思って買うわ!と、購入しました高級スパッツ。(アウトレットやけど。)

ちなみにこれです。(amazonにあった。便利な時代だ。)

 

これがめっちゃいいのです。着圧がすごくて例えるならばあのメディキュットみたいにきゅっとひきしまるのですが、これのおかげで走っていても疲れにくい、気がする。

いや、しんどいものはしんどいのです、走るのって。どれだけウェアをちゃんとしたところで、しんどいものはしんどいし、急激にタイムが伸びるということも全くない。魔法の一手のようなものが、一切ない、走ることって。ただコツコツやるしかない。

ただ、なんとなくこう、姿勢が崩れないという感じがある。ちゃんとしたスパッツ履いていると。気分の問題かもしれないけれど。

なので、10キロ以上走るときはこのスパッツを履くようにしています。5キロくらいだと安いもので全然大丈夫だけれど、10キロ以上だと良いスパッツの方がなんとなく気分が楽。

そんなわけでスパッツとキャップが大事だったという話

ちなみに「ランニングは全くしないけれどもスポーツウェアおたく」であるところのオット曰くおすすめのスパッツはこれだそうです。これもamazonにあった。

ほ、欲しい・・・

そんなわけで、これからウェアを揃えようという方がいらっしゃいましたら、キャップとスパッツ!に、こだわると良いかと思います。いやもんのすごい独断と偏見すぎて全く参考にならない気がしますが・・。(靴とかじゃないんや、っていう。)あとはやっぱり、気分のあがるものが良いですね。道具ってやっぱり大切だ。(結局そうなる。)

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苦手なものを認めちゃえる勇気

とっちらかった壮大なものを片付けられない

キャンプのことを書きながら、私はもんのすごい真実にさらりと気づいてしまった気がするのでそこをちょっと深く考えてみようと思った次第であります。

そう、私はとっちらかった壮大なものを、一つ一つ片付けていく道筋を頭の中で考えるのがものすごく苦手だ。

家の中のあちこちが散らかっていて、洗濯物も取り入れなきゃいけない、食器も洗わなきゃいけない、机の上も片付けなきゃいけない、床のごみも拾わなきゃいけない、玄関の靴も揃えなきゃいけない・・・という状態になるとつくづく嫌になってしまう。それらを一つ一つ片付けていく図が、頭の中でどうも思い描けないから。

頭の中で全部を計画できないので、洗濯物を取り入れながら床に落ちてたごみに気づきそれをゴミ箱に捨てに行った時に玄関の靴が目に入りそれを揃えていたら洗濯物のことをすっかり忘れていた、ということがしょっちゅうある。生きてく力がまあとことん、ない。

そして、ああ洗濯物も取り入れてない、床の掃除もまだ終わってない、あれもこれも中途半端だ・・・と思ってげんなりする。

todoリストに細かいことも全部書き出してアウトルックに入れる

この、「あれもこれもまだできてない、あれもやらやなきゃ」と頭の中にある状態がすごく嫌で、仕事の時は、時短勤務になってからは特に、朝会社に着いたらまず、やるべきことをどんな細かいことも全部リストにしてノートに書き出して、それを片っ端からアウトルックの予定表に入れるようにしていた。

そうしておくと、とにかくその時間は、目の前のやるべきことに集中出来る。「あれもやらなきゃこれもやらなきゃ」の内容は、全部アウトルックに入っていて、その時間が来ればやればいいので、「今」はそのことを気にすることはない。

これは、とにかく時間内で効率よく仕事を終わらせるため、そして仕事上関わりのある人たちにできるだけ迷惑をかけないようにするため、自然と見つけて行ったやり方だったのだけれど、ただいざ会社を辞めて後から振り返ってみると、これはすごく自分に合っていたのだなあと思う。

自宅作業になったらお昼寝しかしなくなった(だめ)

自宅で仕事や作業をするようになってからは、時短勤務で時間に分かりやすい制限があるわけでもないし、毎日人に会うわけではなくてそんなに迷惑をかける人も一見いないように思えていたから、やることを全部書き出して、なんてことはしないようになっていた。

そうするともう。家にいたら家事もやらなきゃでも仕事もやらなきゃという状態になりとりあえず全部いやになり一旦置いておいてお昼寝しようそうしよう、ということになる。だめ人間ばんざい。すやすやすや。

いやお昼寝は自宅で仕事する人の特権だと思いますので全然いいのですが、問題は自分の気持ちが落ち着かないということですよね。「誰にも迷惑かけない」と思っていたけれど、結局知らず知らずいらいらして家族には迷惑をかけている、かもしれない。

でもこれ、「そうだよな私はそれが苦手だよな、ほんとできないわそれ。」と、気付いたら、なんというかちょっと大げさですが世界が変わって見えたのですよええ。

家事という壮大なとっちらかしにこそtodoリストを

「苦手だわ」と、ちゃんと認めると、じゃあどうやってそれを補おうか、と、考える。人に頼るでもいいし、自分なりに何かしら工夫をするでも良い。

家事なんていうのはこの「壮大なとっちらかしを一つ一つ片付けていく」の繰り返しなので、私の場合、仕事以上にストレスのかかることだったわけです、ほんとは。でもたぶん、心のどこかで「家事は仕事よりも楽なもの」と思ってしまっていて、仕事でやるように全部to doに書き出してアウトルックに入れる、なんてことは思いつきもしなかった。

鼻歌歌いながらひらりひらりと舞うようにこなしていけるもの、というイメージだった、家事って。

でも(あくまでも私の場合はですが)、そんな舞うようにこなしていけるものでは、全くない。ので、仕事と同じようにtodoに書き出すことにしました。もう完全に仕事と同じやり方です。だいたいにおいて「仕事する」ということがえらく好きな人間なので(たぶんこれも病気。仕事好き病。)、仕事だと思うと結構いろんなことが苦にならなくなるという特性も使っている。

todoリストは、仕事と一緒に並べて書く、というところがポイント。そうすれば仕事をしながら家事のことをあれもやらなきゃこれもやらなきゃ・・と考えなくて済むから。家で仕事してるとその辺りがごっちゃになって落ち着かなかったので。

これが私にとっての「苦手なことに対するささやかな工夫」です。家事が得意な人にとったら、そんなtodoにするなんて大げさな!ということかもしれないけれど、人と私は違うわけで、自分は自分にとってのベストなやり方を探すしかない。

それが苦手であることは、悪いことじゃない

そして、それが「苦手」であることは、別に何も悪いことじゃないのだ、というのもまた大切なこと。自分にとって苦手なことが、誰かにとって得意であることは山ほどあるし、それはその誰かにとって大切な仕事となりうる。逆に誰かにとって苦手なことが、自分にとっては得意なことだってある。

例えば、アウトルックにやることを全部入れたところで、もちろん、予定通りにいかないこともあるというか予定通りにいかないことがほとんどなのだけれど、「予定外のことが起きた時の対処」というのは自分にとっては全然苦になることではないしむしろワクワクするところがある。でもきっと、そういうのが苦手な人もいると思う。「壮大なとっちらかし」を頭の中で筋道立てて片付けていけるのは得意だけれど、途中で予定外のことが起こるのは苦手、という人はとても良いビジネスパートナーになれると思いますのでご連絡お待ちしております。

ただ、苦手だからしょうがない、だと、例えば仕事上の取引相手に迷惑がかかるかもしれないし、家族がいやな思いをするかもしれないから、そこでどう工夫していけるか考えるというのが、「親切」というものだと思う。

人前で話すのは苦手だから、まずは書いてみる

これまでも、あー私これが苦手だ、という気づきは今まででも結構大きなポイントになっていて、例えば私は人前で話すのがすごく苦手です。そんなあほな、とよく言われるけれども基本的にはたいへん苦手です。

人前で話しながら自分の考えをまとめていくということがまったくできない。たまたまオットは天才的な聞き手なので、オットに話している時は話しながら自分の考えがまとまっていくという感覚があるのだけれど、基本的には一人で話していたってさっぱり考えはまとまらない。

一方で私は書きながらいつも、ああ私ってこう考えていたのだなあ、とやっとまとめていける人間なので、人前で話す必要がある時は、基本的に一度全部話すことを文字に書いて読み上げるようにしている。この工夫はここ数年でやっとできるようになったのだけれど。

「天使なんかじゃない」という名作漫画で、というか私は漫画をほとんど読まないので「てんない」くらいしか覚えている漫画はないのだけれど、この漫画で、主人公の翠ちゃんが卒業式で「実はこの答辞は白紙です。その時に思ったことをそのまま言葉にしたくて。」みたいなことを言うんですありましたよねそんなシーン。

あのシーンがすごく好きで、翠ちゃんがほんとにその時の思いをそのまま言葉にするのが感動的で、幼い頃から私は、そうか本当に伝えたいことは、その時頭に浮かんだことをそのまま伝えればいいんだ、と、思いながら生きてきた。

のですが。

向かないのだ、それは私には。思ったことをその場で口にしようと思うと、結局何が言いたいかよくわからないようになってくる。翠ちゃんの答辞はものすごく感動的であれはすごく好きなシーンだけれど、それは漫画の中で翠ちゃんだからこそできたことだ。

だからロボットよ確定申告を・・・

私の場合は、「書く」クッションがとにかく必要。そんなわけで、会社を辞めるときの最後の挨拶も、実はあれも前の晩に一度文字にして書いていますええ。それを、何度も読んでます、ええ。子どもたちを聴衆にして。

そしたらそれを聞いてたむすめ(4歳)が号泣したのです、ほんとに。最初ものすんごい涙をこらえて、歯を食いしばって、最後がまんできなくて椅子から転げ落ちるようにして泣いた。いやあれはびっくりした。まあ爆笑したけど私。(ひどいやかーさん)

もちろん4歳児に、「会社を辞めるときの大人の気持ち」が理解できたわけはない。でもたぶん4歳児にも、私がその時会社を辞めることがすごく寂しくて、いろんなことを思い出していて、会社の人たちのいろんな顔を思い出しているということが、なんとなく伝わったのだろうなあと思う。私の場合は、一度文字にしたことで、それを自分の言葉として体に覚えさせたことで、それがちゃんと(伝わる人には)伝わるかたちになったのだろうなあと思う。

そういうふうに、自分の苦手なものを認めて、それをどう補うか、という考えだと物事が色々すごくラクになるような、気がする。私はそもそもプライドがかなり低い方だと思うけれど(ほんとどうかと思う)、それでも「苦手なことを認める」って、それなりに勇気のいることかもしれない。認めて口に出しちゃった方が絶対に楽なのにね。しかもこれからの時代、人間が思う「苦手なこと」って、だいたい何でもロボットがやってくれるようになるんじゃないかと思うのだ。じゃあとは、じゃあそんなことは気にせず、人間だからできる仕事をコツコツやっていこう、と、思うのです。

だから早くロボットよ確定申告をやって、と、思う、冬の始まり。(助けて)

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我が家の11月キャンプ事情

11月のキャンプは最高です。

この秋初めてのキャンプ。9月に予定していたものが台風で流れ、10月はオットが多忙すぎて行けず、なんと4月以来のお久しぶりキャンプ。

それにしても11月のキャンプは最高です。ちょっと寒いくらい(夜はめっちゃ寒いと言っても過言ではない)がちょうど良い。防寒対策はですねこちらのグッズがあればこわくない。→アスガルドを初めて使うときに必要なもの

そして最近は、と言っても久々ですが、ほとんど行き先は、千葉です、千葉。いや、もっといろんなところにも行きたいなあと思うのだけれど、たいていは週末の土日に1泊2日で行くので、あまり遠いと行き帰りだけで疲れてしまう。ただでさえ、キャンプは行くまでの荷物準備ならびに積み込みと帰ってからの荷物の積み下ろしならびに荷ほどきがめっちゃ大変なので(そもそも私は旅行のパッキングというものが大の苦手であーる)例えば遠くへ行くために早起きするとか、夜遅くに帰ってくるとか、あんまり余計な体力を使いたくない。

その点、千葉というのは都内から車で1時間ちょっとあれば自然豊かなキャンプ場に着いてしまう。ありがとう千葉。最高、千葉。

ここで突然ですが「苦手なこと」をちゃんと知る、のは大事だという話

それにしてもキャンプの準備をしながら心底思ったのだけれど、私は何かをこう、計画的にやるというのが本当に病的に苦手だ。たぶんほんとになんか病気なのだろうと思う。それに病名がついたところで(準備苦手病とか)特に何か変わるわけではないから何でもいいのだけれど、「これが本当に心底苦手だ。」と自分でわかっていることってすごく大事だなと思う今日この頃です。

「得意なこと」「好きなこと」を知っていることはまあもちろん大事なのだけれど、「苦手なこと」「嫌いなこと」をちゃんと知っていることというものも、もしかしてそれ以上に大事だったりするんじゃないかと、会社を辞めてさらに思う。

「嫌いなこと」は、正直、できるだけせずに済む方法を本気で考えたいと思いますし(注射がほんとに嫌いなので、世のため人のためになることをしたいとは思いますが献血以外で貢献したいと思っている)、「苦手なこと」に関しては、それが苦手だというちゃんと目を向けると、ちょっと他の人より時間をかけるとか、誰かの手を借りるとか、何かしらの工夫ができるわけで、日々のストレスはかなり少なくなる。

この「ちゃんと目を向ける」というのが大事ですね、きっと。別にそれが嫌いであることも苦手であることも、自分が悪いわけではまったくないわけで。そんな得意不得意、誰にもあるわけなので、そこは堂々と「できません!誰かやって!」と、言っていきたい。そして、人に迷惑をかける前に、「ここは苦手なのでもしかしたら不備があるかもしれません。ちょっと注意してチェックしてもらえると助かります。」と言っておけるといいなと思う。

(ちょっとこの気づきが大きかったので新しく記事書きました→苦手なものを認めちゃえる勇気

やっぱりキャンプ用品を最初に揃えちゃってると気楽

なんの話やったっけ。そうだ、キャンプの話。

そんなわけでキャンプの準備が死ぬほど億劫なんですけど、まさかオットが準備するわけもないので(キャンプグッズを揃えたのは私なので。うん。)渋々やるわけですが。

まあでも、ここ数回は新しいキャンプ用品を買うこともなく、いつも同じものを持って行っているので、だいぶそのストレスもなくなってきた。持っていくものはノートに全部書き出してあって、それらをどこに入れる、というのもだいぶ固まってきたので、私のすごく苦手な「これとこれをどこに入れて荷物をまとめよう・・・」と、いうのを考えなくて済むようになってきた。

何をどこに入れるか決めておく、って、キャンプの荷造りですごく大事なことの気がしますね、今思ったけど。

そういう意味でも、やっぱり最初に必要なものをガバっと揃えてしまったのは良かったかもしれない。(初心者キャンプのすすめ。

最初にほぼ必要なものをそろえちゃったため、もうキャンプ周りでいらぬ物欲もわかない。それってちょっと気楽。まあ良い火挟が一つ欲しいなと思っているけれど・・・(物欲)

キャンプで手の込んだ料理は作らない宣言

テントを立てるのはオットがだいぶ慣れてきたので、ほとんどやってくれる。その間、私は机とか椅子とか棚とか、テントの外のものを色々準備します。子どもたちはその辺を元気に走り回る。気が向いたらちょっとだけお手伝いしてくれる。

そうそう、キャンプでは最近、子どもたちには無理にお手伝いを頼むよりもご機嫌にその辺走り回ってくれる方が良いな、と気づいた。家ではお手伝いどころか何でもほぼ自分でやってますしね旅行の時くらいね。

とにかく準備と片付けが大変なので、我が家はそんなに手の込んだキャンプご飯は作りません。断言。

お友達家族と行った時は、パパ友がかなりおされで美味しいキャンプご飯を作ってくれるので、手の込んだやつはその時にいただくことに決めている。「苦手なことは人に任せる」の最低バージョンである。ごめんパパ友。でも最高ですパパ友。

だいたいいつもバーベキューと、なんかお鍋で一品。でも外で食べるから何でもおいしいのであーる。今回はバーベキューと、なんとおでん。しかもパルシステムの煮込むだけのやつ。それでも寒い中食べたらたいそう美味しくてあっちゅー間になくなった。あ、あとパルシステムのさばのみりん干しも持って行って炭火で焼いたらしぬほど美味しかったです。これももう焼いてるそばからあっちゅー間になくなった。

パルシステム頼みでさっぱりインスタ映えはしないけれどもでも最高に美味しいです、ほんと。

そうそう最近食材も、冷蔵庫の中で余ってるやつとかはあらかじめクーラーボックスに入れて持っていくようにしています。キャンプ場に着く前に近くのスーパーにも寄るのだけれど、ある程度食材を持って行っているとなんとなく気が楽。

3年前の自分が今の自分を見たら驚くと思う。

そして焚き火とワイン。向こうではオットと息子が将棋をしている。むすめは遊びつかれて先にテントで寝ている。私は本を読んでいる。最高です。

火をながめるのがこんなに心落ち着くものだと知ったのもキャンプに行き始めてからだなあ。

それにしても、私はもうたいがい自分の好きなものとか知り尽くしたつもりでいて、人生は有限でなんでもかんでもやるわけにはいかないから、まあ今目の前にあるものを大事に楽しんでいけばそれで良いや、と思っていたのだけれど、この1年くらいの間に、新しいことを結構始めている。

キャンプもそうだし、走り始めたのもそうだし、野球観戦もそうだし。そしてついには会社を辞めている。なんてこった。思春期なのだろうか。。

いや今でも基本的には日々穏やかに家に引きこもって(引きこもり)目の前のことだけをやって過ごせればそれでいい、と思っているのだけれど、なんとなーく始めてみたものがどれもこれも想像以上に楽しくて、(ただし走るのはしんどい。)なんだかんだで結構続いていて、まだこんなに楽しいと思えるものがあるのだなあ、と、しみじみ思ったりしている。

どれもこれもなんとなく、流されるままに、なのだけれど(会社を辞めたのですらなんかそんな気がする・・・)でもまあ、人生のおもしろみみたいなものは感じる。もしかしたら、一生知らなかったかもしれないことばかりだから。3年前の自分に、「あなたは3年後、あんなに意味がわからないと思っている野球観戦にはまり、毎日走り、テントを買ってキャンプへ行くようになり、ついでに会社を辞めている。」と言ってもにわかには信じられないだろうと思うから。

そんなこんなで、新しい楽しみを教えてくれたキャンプの神様ありがとう、と、思う、冬の始まり。

ただし、確定申告はこわい。

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ランカウイでのマングローブツアーの思い出

二度目のランカウイで二度目のマングローブツアー

むかしむかし、オットと結婚したばかりの頃、二人でランカウイへ行った。

オットと結婚したばかりの頃というのはつまり、私が母を亡くしてまだ2年ほどしか経ってない時であり、そして仕事が死ぬほど、まじで死ぬほど、しんどかった頃。

そこで私は、「ランカウイ倶楽部」という現地のツアー会社にお世話になって、マングローブのカヤックツアーに参加した。

ちなみについ最近までのTwitterのアイコンは、当時のランカウイ旅行で撮ったものであり、つまり10年ほど前の写真なわけで、ほんと全世界に土下座で謝りますすみません。

ただ、この時のこの体験が、なんでもすぐ忘れてゆく私にしては珍しくすごく記憶に残っていて、いつか子どもを連れて行きたいな、と思っていた。そしてそれをなんと。去年のランカウイ旅行で叶えた。

(昔のブログにそのことを書いていたのだけれど恥ずかしすぎてリンク貼るのをやめましたはい。)

10年前にオットといったときはカヤックに乗ったのだけれど、それだと年齢制限があって子どもたちは参加できないため、船でマングローブを移動するツアーに参加。

ランカウイは基本的に日本人がすごく少なくて、ホテルの従業員も宿泊客も日本人がほとんどいなかったので、日本人の人たちが運営しているこのツアーでものすごく久々に日本人と話すことになる。ほんとに。

こういう船着場から、まずは大きなボートで移動します。こういう時にふと出会う、地元感あふれる景色がすごく好きだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここから高速ボートに乗ってマングローブ林まで移動。

が、この高速ボートが思いのほかめちゃくちゃ速くて、すんごいスピードで、子どもたちこわがらないかな大丈夫かな!と、思っていると。

爆睡。

つよい。

マングローブ林に近づくとボートはスピードを落として、ゆっくり進む。

いざ林に入っていくと、野生のおさるさんやとかげやムツゴロウや、たくさんの生き物が間近で見られて、子どもたちも食い入るように見ていた。

なんだかリアルジャングルクルーズみたいで、ワクワク感がすごくある。ボートに乗っていた中で子どもはうちの子たちだけだったのかな確か、息子は「隊長」と呼んでもらって、マングローブの苗木を植えさせてもらった。

また次に来た時はおっきくなってるね!と言われながら。

おさるさんが、観光客の残していったココナッツを飲んでいる。

そしてボートハウスのようなところに降りて、ツアーの人たちと一緒に現地のお母さんが作ったご飯を食べるのですが、これがほんとちょっとびっくりするくらいに美味しい。そこそこのホテルに泊まっているのに、正直ホテルのご飯より美味しい。

前に来た時もこのボートハウスのご飯がすごく美味しかったのが印象に残っていたのだけれど、この時もやっぱりすごく美味しかった。ちなみにビールは何杯でももらえます。(最高)

ランカウイはビール一缶70円くらいで買えちゃうので、たぶん天国なのだと思う。

ランカウイの自然は優しい

このツアーが相変わらずやっぱりすごく最高だなと思ったのが、案内役のおにーさん(今回はタカさん)が、本当に楽しそうにランカウイの自然を案内してくれること。

前回来た時もそれをすごく感じた。

ランカウイの自然はすごく優しいなあと思う。いつの間にかユネスコのジオパークにも認定されていて、その自然の豊かさは誰もが認められるものなのだろうけれど、それがこう、強く迫ってくる感じが全然ない。

例えば初めて西表島に行った時、私はその自然に圧倒されて、なんというか「畏怖」という感じを覚えた。

それこそ西表のマングローブでカヌー体験をした時も、「おじゃまします」という感じで進んで行った。どきどきした。

だけどランカウイは、なんというか「含まれてるなあ」という感じがすごくする。この自然に、わたしもあなたもあの人も、含まれてるのだなあという感じがする。優しいなあと思う。

それはランカウイの人たちにもすごく言えることで、そういう中で過ごしているからなのか、ほんとうに現地の人たちは優しい。わたしはあんなに親切な人たちを、ランカウイと会社の京都の保養所のおばちゃんたちしか知らない。

こういうところに来ると、ふと、豊かさのようなものを、考える。

昔から旅することがどうもやめられなくて、お金がない大学生の頃に超絶ビンボー旅行をしては、いつかがっつり稼げるようになって、ちゃんとしたホテルに泊まれる大金持ちになってやる!と、思いながらやってきたわけだけれど、それで就活もがんばったわけだけれど、でも社会人になって、有給をとった旅行の間中、残してきた仕事のことを気にしながら過ごしてついつい会社のメールなんてチェックしちゃって、それはほんとに豊かなことなのか、ここで過ごしている親切な人たちのほうがずっと豊かだよなとか思いながら気づけば会社を辞めていた私はほんとにあほなんじゃないかと思うわけだけれども。

でも、好きなことをして生きると決めたのだ、安定の会社員という立場をなくしてでも、旅しながら会社のメールを見るような生活はもうやめよう、と決めたのだ。

ランカウイの自然と共に生きる人たちや、京都の保養所のおばちゃんたちのようには、あれほどまでは親切にはなれないかもしれないけれども、それでも自由になるだけ人に優しく生きようと思う。そう思いながら、でも会社辞めたから京都の保養所もう行けないじゃないかと思って泣きたくなる、冬の始まりである。

ランニングに必要なたった一つのもの

 

 

 

またブログっぽいタイトルを書いてしまった。

走ってます、まだ。信じられないことに。

1月のハワイで走り始めた2017年もなんと11月。何をしても続かない私が。まだ。走っています。アンビリーバボー。

特に9月に会社を辞めてから、通勤というものがなくなったため、そして時間が有り余るほどあるため、平日はほぼ走っている。アンビリーバボー。そして10月、月の走行距離の目標を160キロにしたのだけれど、そうするとあまりに急激に走る距離が増えたせいか、後半足首を痛め、元駅伝選手の友達に「しばらく走るの休みなさい」と言われて走れなくなり、あえなく142キロで終えてしまった。こういう、「故障した経験」含め、もはやアスリートと呼んでもらいたい。ちなみにタイムはすこぶる遅い。

前に書いたこの記事を読みながら、むふむふかわいいやつめ・・・と、思っている怪しいのが私です。かわいいもんだ、こんなの。

10月半ばに、初めてクオーターマラソンというものに出場した。そう、とうとうレースにも出たのだ。もう、これはアスリートと呼んでもらいたい。ちなみにタイムはすこぶる遅い。

基本的に「一人でできる」スポーツであることと、ボールなどの道具を使わないスポーツであることが、ランニングが続く一番の理由でありたぶん私はそれ以外のスポーツは絶対にできないわけだけれど、だからして基本的にランニングなんて私の中で自己満足の世界なのだけれど、それだというのにレースに出たということはつまり、「何かに勝ちたい」という気持ちが湧いてきているということです。

そして「何か」というのはつまり、「過去の自分のタイム」です。もはやアスリートと呼んでもらいたい。

なんとなく、身体にも良いだろうと思って走り始めたわけだけれども、走るとどうしても、「もっと速く」「もっと長く」走りたくなってくる。私にはそういう、タイムを気にする、とか、なんともスポーツっぽい思考とは無縁だと思っていたのだけれど、10キロを60分をなんとか切りたい、というところから始まり、10キロ55分でなんとか、とさらに目標を高め、達成した今度は調子が良ければなんとか50分で・・・!と、思っているのが今日の私。(今の自分的にはかなり厳しいけど。)そして1年後くらいにはフルマラソンに挑戦したい・・と、心のどこかで思ってしまっているのが今の私。

でもやっぱりそういうちょっとした目標があると走っていてメリハリが出てくる。そして、結局そういう、速く走りたいとか、長く走りたいと思うようになると、もうちょっと姿勢良く走ろうとか、普段から筋トレして体幹鍛えておこうとか、足に変なストレスをかけないようにしようとか、色々気を配るようになる。もはやアスリートと呼んでもらいたい。ちなみにタイムはすこぶる遅い。

タイムを速めるために必要だったものそれは。

で。

私がもはやアスリートとして目標なんてものをいっちょまえに持ち始めた時、このタイムを速くする、という目標を達成するために一番役に立ったものは何か。それは、体力でもなく気力でもなく筋力でもなく。

アップルウォッチである。

もう。これは。走る人は今すぐに買ったほうがいい。

10キロ60分がどうしても切れなくて、なぜにこんなに遅いかなと思ってiPhoneのnikeアプリでラップタイムを見ていたところ、6〜7キロあたりでタイムがすこぶる落ちていた。

それを元駅伝選手の友達(勝手にコーチと呼んでいる)に見せたところ、これはしんどいわ。1キロ目をもっと落としていいから、ラップタイム安定させてみて。と、言われ、その足で銀座にアップルウォッチを買いに行った。ほんとにその足で。いつかほしーなーと、思っていたけれど、ランニングのタイムを伸ばすためという理由ができたならそれは今だ。今すぐだ。もはやアスリートと呼んでもらいたい。

ラップタイムを計るためならもちろん別にApple Watchでなくてもいいんやけど、洋服に合わせてもかわいいというところが確保されるならそれはもう私にとって迷うところは一切ない。Apple Watch一択。

いちいちポケットからiPhoneを出さなくても、腕を見ればすぐ、その時点でのタイムがわかる。その時点でのスピードを、キロあたりで計算して表示してくれる。ついでに言うと、そのまま帰りにコンビニでApple Watchをぴっとかざせば、デカビタCも買って帰れる。なぜかここのところデカビタCがやたらおいしい。アスリートだ。

目標のタイムをちょっとでも下回ると、その時点ですぐにちょっとスピードを立て直せる。細かくタイムを確認して調整することで、結局10キロ続けてタイムが安定して、あっという間に目標のタイムで走れるようになった。

そして、かーーーーなーーーーりーーーーー疲れづらくなった。いや、しんどいものはしんどいのだけれど、少なくともこの記事を書いた時みたいに、世の中全てにだんだん腹が立ってくるくらいしんどくてしんどくて死にそうだ、というレベルではなくなった。6〜7キロあたりでバテることもなくなった。

それまでは、走り始めの1キロ時点でのタイムが一番速くて、どんどん遅くなってくる、という感じだったのだけれど、それだと1〜2キロ時点がほんっっっとにしんどくてもうその時点で世界が敵になる。

けれど、1キロ目はとにかくタイムを抑えて、1キロあたりのスピードを、目標よりも5〜10秒くらい抑えて走る。で、だんだん、タイムを速めて行って、5〜6キロあたりからは目標より少し速めのタイムをを維持、最後9キロからさらに速めて走る、みたいな感じだと少なくとも1〜2キロ時点で世界を敵に回すことはなくなる。たぶん。

とにかく私は、最初に飛ばしすぎないことと、ラップタイムを安定させることで10キロを走るのがものすごく楽になった。いや、しんどいけど。しんどいものはしんどいんやけど。

で、調子に乗ってこないだ20キロを走ってみたら、これがもうしんどいのなんのってもうまた世界が敵になった。やはり10キロと20キロは違う。人生は甘くない。

しばらくは、ハーフマラソンを安定したラップタイムで走れるようになるべくまた練習したい所存です。ほんと、もはやアスリートと呼んでもらいたい。

確定申告はこわいけど。

これからの教育について考えた(ちょっとだけ)

自分たちがしてきた受験勉強や受験はもう意味がなくなる

東京にいると中学受験が当たり前のような風潮があって(地元では中学受験する人はクラスで一人いるかいないか、くらいだったけれど)、そういう中で「より良い教育を」的なことも自然に考えがちなのだけれど、でも今回、こちらのお仕事に関わって改めて思ったことが、「より良い教育」って一体なんなんだ、と。

それは、進学校へ行って、東大へ進むことなのかな、と。改めて考えさせられた。

2020年には入試そのものの制度ががっつり変わるそうです。大きなところでは、マークシートではなくて、記述式が導入される。

つまり、「より良い教育」のゴールが東大に入ることだと仮定したとしても、自分たちがやってきた受験勉強ではまず東大に入ることもできない。東大に入るための勉強すら、私たちのやってきた受験とは変わってくる。

さらに言えば、これだけ変化が激しい時代、人間が担う仕事の本質が変わってきている時代、東大に入ることが「より良い教育」のゴールなのかもわからない。(もちろんもちろん東大は素晴らしい大学だし私は入れなかったというかいやもちろん受けてもいないけれども。)

子どもたちの人生は子どもたちのものなので、私が「こういう学校へ行っておいた方がいいよ。」と言うことはもちろんできないけれど、それにしたって自分たちがしてきたことが正しいと考えるのはまずやめよう、と固く心に誓った。

どんな学校を、どんな生き方を選ぶのか。どんな仕事を選ぶのか。それを選ぶのはもちろん子どもたち自身なのだけれど、「自分で選ぶ力」をきちんとつけてあげたいなと思う。その時にきちんと「自分で考える力」も持っていてほしい。

教育とは何か、学校って誰のためのものか

とか色々、我が子の教育について考えながら原稿をまとめていたのだけれど、こちらの荒井先生のお話をまとめながら、なんかちょっとハッとさせられた。

でも今日本にいろんな難しさがあるんだとすると、やっぱり偏差値50以下の教育をどうするか、というのが大切になってくると思います。

自分の子どもたちが、どういう教育を受けるのか、どういう学校へ行くのか、それを考えることはもちろん大事というか、当たり前のことなのだけれど、それだけじゃなくて、そもそも教育って、等しくみんなが受けられるべきものであって、そしてこれだけ子どもが減ってくる中で、いわゆるエリートと呼ばれる子どもたちだけじゃない、そうじゃない子どもたちの教育をどうしていくのかって、もっと真剣に、考えていくべきことなんじゃないかなと思った。(ちなみにもちろんうちの子は全くエリートではないけれど。ランドセル忘れるし。)

それこそ、自分の子どもが進む道なんて、親の私たちはある程度のお金を出すことくらいしかできなくて、あとはまあ頑張って勉強してね、お母さんたちがしてきたような勉強じゃないけどね、と言うことくらいしかない。

だけど、例えば十分なお金をもらって十分な教育を受ける、ということができない子どもたちの教育をどうしていくのか、そういうことこそ、大人たちが知恵をだしあっていっぱい考えていかなきゃいけないんじゃないかな、と思う。

東北の被災地の高校もまさにみんなそうです。あそこだって、みんな決して偏差値は高くない。だけど、彼ら、彼女らがすごく頑張ることで、地域は本当に復興に向けて進んでいるわけです

私が生まれ育った町の地元の高校だって、決して偏差値は高くない。でも、そうなんだよね、みんなが頑張ることで、地域がすごく活性化する。それを私は、地元に帰るたびに思い知る。

大人が考えなきゃいけないことは山のようにあるけれど、その中でも子どもたちの教育って、ものすごく重要で、そして面白いことだと思う。

私もまだまだいろんなことをしていきたい。子どもたちが社会に出るころ、負けてはいられないもんね。

それは誰のための仕事なのか

そしてまたここでも、私がいつも肝に銘じなきゃいけないなと思っている、「その仕事が誰のためのものなのか」「お客さんは誰なのか」という視点が出てくる。

明確に言うと、我々の顧客は、生徒ではないと僕は思っています。生徒ではなくて、やはり母親だろうと思っています

正確な数字はお伝えできませんが、例えば札幌では母子家庭というのは全体の8パーセントといわれています

それでもお母さんたちは、非常に低い年収の中で、なんとか子どもたちを高校に進学させて、卒業させたいと、そんな思いで一生懸命頑張っているわけです。

ここで何度も書いた気がするけれど、自分の仕事にとっての「お客さん」は誰なのか、と言うのを、私たちは本当につい忘れそうになる。ご参考→(むすめがインフルエンザになって会社を休んだ話(つまり今)

この時の「お客さん」というのはお金を出してくれる人ということじゃなくて、その仕事を誰のためにしているのか、この仕事の先にいる人は誰なのか、という相手になる人。(もちろん、どうやってお金を出してもらうのか、というのは別軸でしっかり考えなければならないことだけれど。)

保育園の先生なら、園長先生とか親とか地域の偉い人、とかじゃなくて、まずは目の前の子どもたちが向き合う相手だし、例えば広告の仕事でいうと、お金を出してくれるのはクライアントだけれど、メッセージを伝えるのは消費者(生活者)なので、まずはそちらをよく見て、その人たちの気持ちをよくよく考えて仕事をしなくちゃいけない。

でもつい、お金を出してくれる人とか、目の前で自分を評価する人(上司や取引先のえらいひと)とか、目に見える利害関係のある人のことだけを見て仕事をしがちになる。

だけど違うんよねそれは。そこを見誤ると、長い目で見た時に結局、その目の前の人達の利益すら奪っていってしまうことになる。

広告の仕事で、お金を出してくれるクライアントの言うことを全てイエスで返していたら、結局クライアントが最終的に向き合うお客さんの気持ちに全く沿わないメッセージが出来上がって、最終的にはクライアントの不利益になるかもしれない。

サラリーマンが目の前の上司の機嫌ばっかりうかがっていたら・・その結果はもう想像に難くない。(難くないのにこれをたぶん80%くらいのサラリーマンがしてしまう。)そしていつかその会社は、全体的なパフォーマンスが落ちてしまう。

それでも、つい、忘れてしまうのだ、誰のために仕事をしているのかというとても基本的なことを。

その点、荒井先生の話されたことは素晴らしいなと思った。顧客は母親だ、と、はっきりいえること。そしてその先に、明確な理由と信念があること。そして「覚悟」があること。

つい忘れてしまうからこそ、これくらいはっきりと、自分の仕事が誰のためにあるのかを、常に頭においておきたいなと思う。

だけどここまではっきりと言えるのはやっぱり、荒井先生がこの根幹を、身をもってしっかり感じていらっしゃったからなのだろうなと思う。

僕が災害復興の現場で感じたのは、学校というのはものすごく大事なところで、子どもが目の前にいるということは、実は地域にとってすごく重要なことなんだということです。

サラリーマンでなくなると、「それが誰のための仕事なのか」というのは、サラリーマンの時よりは見えやすくなったような気がするのだけれど、(それだけでもたぶん私にはサラリーマンでない働き方の方が合ってるのだと思う、確定申告ほんとこわいけど)でも大切なことを、改めて意識しようと思う、冬の始まりです。あと、確定申告ほんとやだ、と思う、冬の始まりです。ほんとやだ。

家事やってる自分めっちゃえらい、と認めてあげよう。

オットの激務月間(というか数ヶ月)

夫の激務が続いている。たぶん10月いっぱいのはずだけれども、結局その案件が11月まで延びたのかどうかを聞くひますらないくらいに家にいない。たぶん生きてはいる。

大人なので自分の健康管理は自分でしていただきますが、それにしても今回ばかりはほんとにだいじょーぶかなこの人、と思うことの連続であった。趣味:仕事、とはいえ、ほんともうよくそこまで働くな・・・と。

そしてこういう時期(に限らずいつもですが)まあもちろん家のこととか子ども周りのあれこれは一人でやっているわけですが。

子どもたちが寝てから、キッチンで一人、お鍋の地味な焦げ付きをゴシゴシしながら考えた。

こういう時つい、「なんで私だけ家事やってるんだ・・・」とか「家のこと全部やってるんだ・・」と、考えがちだけれど、そのもやもやの根元って、この家事ひとつひとつを「大事なもの」として認めてあげていない、自分自身の気持ちにあるのではなかろうか、と。

たとえば仕事で、これは君が得意なところだからまかせるよ!と、任された大きな仕事をしているとき、そしてその仕事にやりがいを感じて楽しいときは、なんで自分ばっかり。。。とは、思わないはず。

一方で、この仕事必要なのかなと感じながら、いやいや進める仕事は愚痴も多くなりがちになるかもしれない。

職業に貴賎はないので(と、すずかんさんもおっしゃっているので→文科省が考える21世紀を生き抜く人を育む教育改革とは?)(←やった仕事をこっそり入れ込む)結局その仕事にやりがいを持てるかどうかって、自分の心持ち次第だと思うわけです。

と、いうことは。

家事だって育児だって、まず最初に、やっている自分が、「これは非常に尊い仕事であるぞよ。」と、認めてあげることが大事なんじゃないか、と。

心のどこかで「こんな仕事」と思っちゃっていると、それを頑張る自分を認めてあげられないことになってしまう。一番大事なのは自分の気持ちだから、まずは自分が「こんな仕事」と思わないところから始めねば、と、思った次第です。

「こんな仕事」って自分で思わない

家事は毎日毎日のルーティンだし、なんというかある意味100%でないと達成感が得られなかったりするし(掃除機かけても洗濯物がぐちゃぐちゃだったりするとなんとなくやりきった感を感じづらい)、もちろん誰かにものすごく感謝されるわけでもない。お給料も出ない。だからつい、その仕事を低く見積もりがちになる。

けど、仕事だって、感謝されるためにしているわけじゃないんよね。「ありがとう」の言葉がなくたって、自分がしている仕事が、見えないところで誰かを助けていることって山ほどある。それでいい、そういうものだ、そう思って好きな仕事をしていると思う。

それに比べれば家事って、それをしないと困る人がいるというのがすごくわかりやすい。(だからプレッシャーなわけですが。)こんなにダイレクトな仕事を日々やっている私たちってちょうえらい。まじですごい。天才。

もちろん、心穏やかに過ごすため、家事を100%自分の手でやる必要なんて全然なくて、お惣菜に頼る日があってもパルシステムの三日分のお料理セットならびに冷凍マグロ丼に助けられまくっても(ほんとに助けられまくっている)別に掃除を外注しちゃっても全然良いと思う。そういう工夫はいくらでもして良いと思う。

ただその前に、その工夫よりも前に、まず自分で、「毎日の素晴らしいお仕事(家事)をしている自分、おつかれ、ちょうえらい。」と、認めてあげたいな、と思う。そうじゃなきゃ、まじめな主婦のみなさんは「手抜きしちゃって・・」と、責めることにもなりかねない。(私はまじめな主婦では全くないけれど)

地味なお鍋の焦げ付きを夜な夜なとってる私はちょうえらい。洗濯物がしばらく溜まってたとしても他のことやってる私はめっちゃえらい。

と、いうことを、みんな認めてあげましょう。というか認めて。というかほんと頑張ってる私。というか、オットの次の休みはいつなんだろう。と、いう独り言です。

(なんせ私は今、パルシステムから届いたものをトランクルームから出して冷蔵庫と冷凍庫に食材を入れることすらめんどくさくて現実逃避をしている)

(でもえらい)

・・・と、ここまで書いて記事を終わりにしようと思い、トランクルームにパルシステムを取りに行ったら、なんと私が頼んでいたのは翌週のパルシステムであり、今週はケースの中が空っぽであった。衝撃。そんな私のレベルの低すぎる家事でもやってる自分めっちゃえらい。と認めてあげよう、というお話です。(ひどい)

 

「編集」の仕事ってなんだろう。

「編集」に向いてる人と、「ライター」に向いてる人

こないだ尊敬するフリーの編集者の方と話していて、「ライター」に向いてる人と、「編集」に向いてる人はふたてに別れる、という話になった。その方曰く、「自分はやっぱり『編集者』で、もちろんそれなりに文章も書けるけれどもでも、信頼してるライターさんの書く文章には、私には書けない何かが絶対にあるの。一方で、そのライターさんは編集には全然向かない。それは私の方が向いているとおもう。」と。

ムシちゃんはどっちが向いてるとおもう?と、聞かれてどっちも好きだからわからぬ。と、答えたわけですが。(わからぬのか。)でも今はまだほんとにどちらも好きだな、というのが正直な気持ち。これから色々変わってくるのかもしれないけれど。

「書く」仕事、つまり、ライティングのお仕事というのは、比較的イメージがつきやすい。「ライター」という肩書きも一般的で、有名なライターさんも、個人的に好きなライターさんも、何人も思い浮かぶ。

でも、「編集者」というと、とたんにイメージがつきづらくなる。この編集者さんが編集したものが大好き!と、いう記事などはあまりなかなか思い浮かばない。つまり「縁の下の力持ち」なのだろうと思うのだけれど。

会社を辞めるにあたり、「何をするの?」と、聞かれて、「なんかいろいろ。書いたり編集したり!」と、またざっくりなことを答えていると、「編集って何するの?」と、よく聞かれた。ほんとだよ何するんだよ、と、自分でも思っていた。(思っていたのか。)

ただ、前職でウェブサイトを運営することになって、ライターさんと取材に行き、上がってきた原稿を見て、見出しをつけかえたりわかりやすく整えたり、という作業がとにかく楽しかった。地味ではあるのだけれど、少し言い回しを変えただけで、文章が生きてくる感じがする、その瞬間がすごく好きだ。向いてるのかどうなのかはわからない、でも自分はこういう文章に向き合う仕事をやっぱりずっとしていきたいなと思った。

そして、「編集」の仕事が必要とされる場面って、結構あるんじゃないか、と、なんとなく思った。それは従来の「編集」とはもしかしたら違うのかもしれないのだけれど、たとえばいわゆる「記事」だけじゃなくても、必要になる場所って結構あるんじゃないかなと思う。こういう仕事!と、はっきり言えない仕事こそ、可能性がたくさん広がる仕事のような、気もする。気もするだけだけれど。

でも、誰かの文章や、誰かの言葉を「編集」するとき、それはともすればもちろん、悪い意味での「編集」にだってなりうる。「歪曲」になることがある。もちろんそれはものすごく気を遣っていたところで、難しいところでもあるわけだけれど。

そんな中で、フリーになって初めての、「編集」のお仕事をしながらめちゃくちゃ思うところがあったのでメモしておきます。

フリーになって初めての編集のお仕事

リクルートマーケティングパートナーズさんの「Manabi Mirai Meeting」という講演会があって、それをウェブサイトに収載する、というお仕事をしました。

面白いなあと思ったのが、当日の講演を基本的にすべて動画でも公開するので、文章でも全文を掲載したい、と依頼されたこと。

よくある採録というのはもちろん、(もともと新聞社の仕事をしていて紙面に限りがあったからかもしれないけれど)重要なところとかキャッチーな部分を切り出して、短くまとめるというのがまあほとんどだと思います。だから、ここ使いたいけど紙面の関係上やっぱり削らなきゃな、とか、色々と優先順位をつけなきゃいけなかったわけです。

だけど、今回はそうじゃなくて、全文載せることが大前提としてある。

動画も文章も両方見る人はそんなにいないかなという仮説はあるけれど、それでも同じサイトに載る以上、あまり大幅に編集されていると混乱させてしまう。

とはいえ、文字起こしされた原稿をそのまま読むと、なんというか、直接映像で見るよりもちょっと嫌味な感じがしてしまったりとか、文字になるとその人の持つ雰囲気とえらく違う感じになっているなと思う部分が多かったり、もちろん話し言葉すぎてわかりづらかったり、というのがかなりたくさんあった。

なので、元の書き起こされたものからあまりにも大幅に変えることはせず、でも読む人がそれなりにストレスなく読めて、そして話し手の持つ空気感をあまり損なわないように、ということを意識して、編集をしてみました。(わかりづらい部分は多々あるかもしれないし文章の合う合わないはあるかもしれないけれども心がけとして。)

今まで編集って、削ってなんぼ、と思っている部分があったけれど、こうしてウェブになると制限がなくなるわけで、そうすると全文えいやって載せるのはもしかしたらこれから増えてくるのかもなあと思ったりした。

編集をしながら、ここは伝えたいなあ、ここに気づきがあるといいなあ、ということはすごく思うのだけれど、でも実際「ここが大事だ」とか「あーなるほどそういうことか。」と感じるのは、それは読み手の人やもんね。どう受け取るのかは、読む人が決める。だから、大事な部分だって読む人がピックアップする。

短い文章での表現が増える中での「読みたい欲」

そして改めて読み返してみて、なんせ45分くらいある講演をほぼ全文載せているのでものすごい量なのだけれど、でも読んでみると意外とあっという間に読めちゃえるもんだな、というのも結構新鮮な気づきでした。いやもちろん、講演自体がもんのすごく面白かったからなのだけれど。

twitterもインスタも短い文章やキャプションで表現する時代ではありますが、私は個人的に最近すごく「読みたい欲」のようなものがあって、ウェブでも、なんだか長い文章をがっつり読みたいなあとかなり思う。ウェブで長い文章を読むのにも慣れてきたからかもしれないけれども。(ビジネス書とかならきっとタブレットで読めるな。いやビジネス書読まへんけど。そのうち小説もタブレット読むようになる気がしている)

そしてこれ私だけじゃなくて、ウェブで長い文章を読むことに、意外とみんなあまりストレスを感じなくなってきているんじゃないか、とか思ったりしています。(ないですかね「読みたい欲」・・・)

そんな中で、その長い文章を、「ストレスなく」読める工夫をするのも、それも編集の仕事なのかもしれない、と思う今日この頃です。文章を整える、見出しをつける、段落を考えるといったことだけでなく、それはもしかするといわゆるUIとかUXとかも含まれてくるのかもしれない。(なんでも自分でやる、という時代ではないなと思っているので、できるチームを作っておく、とかも必要なのかもしれない。)まだまだできることがたくさんあるのかもしれない、と思います。

そんなわけで以下リンクは、長いけれど面白くて結構あっという間に読めてしまう記事かと思いますのでぜひ!藤原先生のお話はほんとに明快でおもしろい。(全然むずかしくないです。)特に数年後に中学受験、高校受験を控える子どもを持つお母さんたちに読んでもらえると嬉しいです。

Manabi Mirai Meeting 2017 【基調講演】藤原 和博 氏 現在の高校生は、どんな未来を生きるのか? ~今後の未来の社会、生き方、働き方、そしてそれに向けた学び方 特別レポート

 

 

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