心の中で生き続けるということ。成人の日に思い出す、ひとっちゃんのこと

成人の日が来ると、いつも、成人式に来られなかったひとっちゃんのことを思い出す。

わたしが生まれ育った町はとても小さな町で、中学校がひとつしかない。だから成人式は必然的に、中学校の同窓会になる。そこに一人だけ、来られなかった同級生がひとっちゃんだ。

田舎の中学校で、みんなまあやんちゃだったけれど、そういう学校にありがち・・なのかはわからないけれど、なぜかみんな部活だけはちゃんとやっていた。

私たちはそこで、「部活のメンバーに迷惑をかけない」ということをひたすらに学んでいた。「先生に怒られること」よりずっと、それはしちゃいけないことだった。そういう中学校だった。

ひとっちゃんはその気質が人一倍強かったような気がする。

しょっちゅう先生とけんかをして、謎に学ランを改造して、よく怒られて、でも友達にはとても優しかった。

うちのお母さんは、「ひとっちゃんは遠くからでも私のこと見つけたらこんにちはって挨拶してくれはる。ほんまいい子やなあ。まいちゃんの友達は、まあやんちゃやけど、心根が優しいわ」と、いつも言っていた。

だけどひとっちゃんは、誰よりも先にこの世を去った。突然に、さよならも言わずに。

高校一年生になったばかりの夏、花火大会の日に、事故で亡くなった。

その日、花火大会の最寄駅についた時、ひとつ下の後輩が、私を見つけて走ってきて、「まいちゃん、ひとしくんが…」と、目にいっぱい涙をためたまま、言葉に詰まった。

なんでもかんでもすぐに忘れる私だけれど、あの時、その浴衣姿の後輩が、金髪の髪を巻いて、めいっぱいおしゃれをして、メイクもして、とてもとてもかわいかったことだけは、なぜかすごくよく覚えている。そのあとどうやって家に帰ったのかも全然覚えていないのに、ただそのことだけを覚えている。

私たちはあの日、初めての誰かとのさよならを知った。もう二度と会えなくなるということが、本当にあるのだと知った。本当に悲しい時、人は涙も流さないのだということも知った。どうしてもかなわない願いがあることを知った。

今でも、15歳のあの夏の日、ひとっちゃんが亡くなってから、もう20年近く経とうとする今でも、ふと、時間が止まっているような気がすることがある。

私の記憶の中のひとっちゃんが、今も同い年くらいのように思えることがある。

やんちゃでも、いつも怒られていても、それでも、ひとっちゃんは、もしかしたらあの頃の私よりもずっと大人だったのかもしれない。もしくは記憶の中で少しずつ、ひとっちゃんも歳を重ねたのかもしれない。

成人式の日、私たちはみんなで、お墓まいりに行った。

慣れない振袖を着た私を、やんちゃだった、まあやんちゃどころかヤンキーみたいだった男子たちが、車から降りやすいように手を貸してくれた。みんなとても優しかった。

ひとっちゃんみたいなことをするな君たちは、と、私は思った。みんな大きくなったんだな、時間は過ぎていくんだな、と、私は思った。

あれから幾つかの、さよならを経験した。私はたぶん、少しは大人になった。痛みをたくさん知った。

それでも、もしかすると、ひとっちゃんとのさよならを、私はまだ乗り越えていないんじゃないか、と思うことがある。誰かとのさよならは、心の奥の奥にずっと残って、「乗り越える」なんてことが、できないのかもしれない。だけどたぶん、それでいいのだ。

いつまでも私は心の中でひとっちゃんに頼り続けているけれど、何かの場面でつい、名前を呼んでしまうことがあるのだけれど、20年間もそれが変わらないのだけれど、でも、今でもそうやって心の中に大切な誰かがいるというのは、それはその人が、生きた証だ。

ありきたりな表現だけれども、心の中で生き続けるというのは、そういうことだ。

ともに時間を積み重ねて来られなかったことを、私はこの先も一生悔やむのだろう。でも、誰かが生きたこと、残してくれたもの、そういうのは、きっと人生の大切なものになる。

春の風が吹くたび、私は中学生の頃のあの体育館を思い出す。バスケットボールの響く音や、乾いた風の匂いや、バレーコートの破れたネットや、そういういろんなものを。そしてひとっちゃんがバスケットボールをたたきながら家の前の道を通って、二階にいる私に呼びかけたことを。家の前で何時間も話したことを、その時話した夢を。

もう戻れない、その時間を。

大人になるにつれ、みんな何かを抱えながら生きるようになる。その記憶に、たまに心を揺さぶられながら、支えながら、歩いてゆく。

35歳になった今も、15歳の、もう息子との方が歳が近いあの頃のひとっちゃんに支えられているなんていうのも、なんだかおかしいなと思いながら。

富士山と、お母さんと、むすめと。ーーー「親孝行」をするということ

伊豆旅行に出かけて、富士山を見ながら露天風呂に入っている時にふと思い出した。

大学四年生のとき、ゼミで河口湖に合宿へ行って、富士山がとてもとてもきれいに見えるカフェに立ち寄った。

カフェの内装がすごくお母さん好みで、私は富士山の写真と一緒に、「今度一緒に行こうね!」と、お母さんメールを送った。

だけどその翌年、お母さんの病気がわかって、あっという間にお母さんは亡くなった。

今でも富士山を見るたびに、あー一緒に行けなかったな、連れて行ってあげられなかったな、と思い出す。もちろん今でも、ちくりとする痛みとともに。

先日のジャンクスポーツのスペシャル番組で、再現VTRの高校生の頃の甲斐キャノン(ソフトバンクのキャッチャーです)に、お母さんが寝る間も惜しんで仕事してるなら洗濯くらい自分でしなよ!と突っ込んだ私ですが、実際のところ高校生の頃の私というのはあらゆることを専業主婦だったお母さんに任せっきりであった。

お弁当は毎日作ってもらっていたし、洗濯だって自分でなんてしてなかった。(ひどいむすめである。)

東京の大学に行きたいと言い出した私に、お母さんがまず言ったことは、「まいちゃんが一人で生活できるの・・・?」ということだった。これは今でもわりかし的を射た心配だと思っていて、35歳になった今も私は基本的に「生きていく力」に欠けている。たぶんこどもたちの方がしっかりしている。

まあそれでも東京の大学へ行きたかった私は、お父さんを味方につけ、最終的には「真っ先に賛成してあげられないのは親の責任だもんな」とまで言わせ、見事、東京の大学を受験する権利を得た。(ひどいむすめである。)

まあそんなだから、私が具体的にお母さんの役に立った、ということは皆無と言って良い。親孝行なんて、ほとんどできなかったと思う。

だから富士山が見えるカフェくらいまじで連れて行ってあげれば良かったのに、それすらもしなかったのだ。ほんとうにひどいむすめである。

だけど温泉に入って、そして目の前で温泉に浮かびアリエルになりきっているむすめを見ながら、私はふと思った。

あの時、娘である私から「今度一緒にここ行こう!」とメールが来たお母さんは、それだけでちょっと、いやめちゃくちゃ、うれしかったのかもしれないな、と。

ほんとうに行けるなんてことはなくても、もしかしたら実際には行かないだろうなとか思いながらでも、うれしかったのかもな、と。

もしむすめがいつか、そうやって私にメールを送ってくれたら、やっぱりすごく、うれしいだろうなと思うのだ。

温泉でアリエルになりきるむすめを見ていると(将来の夢が日替わりなのだけれどもとりあえず温泉旅行中は「おおきくなったらアリエルになりたい」と言っていた)、この子たちが生まれてきてくれた時点で、もう一生分の「親孝行」なんてしてくれたよな、と思う。親が子どもに求めることなんて、大してないのだ。元気で健康に過ごしてくれたらそれで十分だ。

親元を離れて自由に楽しく暮らしていて、ふとした瞬間に、「そういやお母さんこういうの好きだよな」と、思い出してくれたら、もうそれだけで言うことなんてない。

そんなことを考えていたら、なんとなく、胸につっかえていたものが、晴れたような気がした。「実感」として、それがわかった気がした。だからとりあえずむすめに、「ありがと」と言っておいた。よくわからないけれど、大切なことを気づかせてくれてありがとう。

いつだってなかなか、前を向くことは難しいけれど、ふとしたきっかけで、自分の中にすとん、と落ちることがある。

私はそれにとても時間がかかるけれど、一つ一つ、ほどいていけたらそれでいいなと思う。ゆっくりゆっくり、一つずつで良いのだ。時間は思っているよりもたぶん、たくさんあるから。

2018秋の京都ーー東寺の帝釈天と弘法市

いけめんに会いに

なんといっても仏像はひとけのない静かなところで見たいけれど、この日だけは別、そしてこのお寺だけは別、というのが「21日の東寺」である。

個人的に好きな仏像というのはだいたいとてもいけめんの仏像なのだけれど、ここの帝釈天は群を抜いている。いけめん度がすごい。

どれくらいいけめんかというと、こちら。

(写真は東寺ホームページよりお借りしました。)

はい、いけめん。現代にこんないけめんがいるだろうか、いや、いない。

周りの四天王が見事に邪鬼を踏んづける中、悠々と象に乗る帝釈天。なんだろうなあこの余裕。顔も身のこなしも全てがなんというか「完璧」なんである。整っている。シュッとしてる。

だけどこの帝釈天が素晴らしいのはやっぱり、それを「個」として見たときはもちろんなのだけれど、周りに全ての仏が「揃っている」からなのだ。

つまりそれが「立体曼荼羅」であるということなのだけれど、この立体空間において仏像たちが世界観を作り上げているその全てに圧倒される。あんな贅沢な空間はなかなかない。

というわけで本当に東寺の帝釈天は素晴らしいので京都に行かれるみなさまはぜひ見に行ってください。京都駅から東寺駅までは一駅です。歩いてもまあ行けます。タクシーなんて乗ったら一瞬です。帰りにふらりと寄ることもできるので、ぜひ。

月に一度、弘法市のお楽しみ

東寺のもう一つの素晴らしいところは、毎月21日に弘法市という縁日が開催されるところ。

↓見て、このレトロなホームページ。良い。

http://www.touji-ennichi.com/

この弘法市、その日が何曜日であれとにかく21日(弘法さんの月命日)に行われる。それが平日であれ週末であれ連休であれ夏休みであれ冬のあほ寒い日であれとにかく21日なのだ。例外はない。たぶん。

大学生の頃、21日に合わせて帰省して、よく母と二人で出かけては、2000円くらいの着物を買ってもらったりした。

久々の弘法市は、あの頃と全く変わっていなかった。海外からのお客さんが増えた気もするけれども、まあ昔から京都は海外のお客さんだらけだったのだ。

色とりどりの古い着物に心奪われたむすめが、「ほしい・・・!」と言う。いや、わかる。めっちゃわかる。欲しくなる。でも七五三も終わったしいつ着るのよ・・とぶつぶつ言いながら、お店の人とむすめサイズの着物を一応探してみる。

7歳の七五三に良さそうなものはあったけれど、さすがにそれは見送ることにして、むすめには100円のハギレセットを買う。にこにこうれしそうにしている。ちょろい。わたしのようだ。

それにしても、自分が母ときた場所に、自分のむすめと一緒に来るというのはなんだか不思議な感じがする。

古いものと、新しいものに思いを馳せつつ

おじちゃんが一人立っていた骨董屋さんで、おちょこを二つ買う。ガラスのものと陶器のもの。おちょこって、なかなか買う機会がないので、こういう時に買うと後から重宝する。というか旅先で買ったおちょこしかないな、我が家には。日本酒はやっぱりおちょこで飲むべきだ。当たり前だけど。

とにかく、とにかく古いモノが好きだなと思う。古い価値観は好きじゃないけれど、昔からずっと残ってきたモノには、なぜか心惹かれる。変わってゆくものと、変わらないものに思いをはせる。

京都は不思議な場所だなと帰るたびに思う。そこには確実に、東京にはない空気が流れる。古いものを抱きながら、新しいものを含んでゆくような。立ち止まりながら、少しずつ進むような。だけどそこにはきれいなものだけじゃなく、きっと多くの葛藤を含んでいる。それは空気となって少しだけ鋭く、例えば京都の冬のように、辺りに立ち込める。

もうすぐ京都で過ごした時間よりも、東京で過ごした時間の方が長くなる。私は何か変わったのだろうかと、古いおちょこを見ながら少しだけ、考える。

失われゆく時間を見つめてーー子どもたちと神宮で過ごしたこの夏のこと

むすめを保育園に送っていく途中、少し遠いパン屋さんの袋を持った、小さな赤ちゃん連れのお母さんとすれ違った。

あぁそんな頃があったな、と、私はふと思い出す。

まだ話せない息子やむすめと、商店街を歩いた日。

その頃住んでいたマンションの近くの商店街では、朝早くからあいているお魚屋さんやケーキ屋さんなんかもあって、早起きの赤ちゃんを連れて買いに行ったのだ。

そこには、その時にしかない、すごく特別な空気があった。

まだ話せない、歩くこともできない息子やむすめに向かって、何とはなく「お魚どれにするー?」「なんか今日寒いよなあ」と話しかける。返事がないことを知りながら、「おなかすいたー?」と聞く。息子やむすめは、わかったような顔をして笑ったり泣いたりしている。

まだ、おなかにいた頃の続きのような、そんな時間。私が母乳を与えなければ、すぐにでも死んでしまいそうな、ほとんど、一心同体のようにして過ごした時間。

つい数年前のことなのに、それは遠い遠い昔のことのようにも思える。もう息子もむすめも、あの頃の二人からは随分遠くへ行ってしまった気がする。あの頃からすると、もう私の手をだいぶん離してしまった気がする。

いつだってそうなのだけれど、その時間がとてもとても素晴らしいものだったということは、過ぎ去った後にわかることだ。

私はこの夏、バカみたいに子どもたちと一緒に神宮へ行った。

ほんと、バカみたいに神宮にいた。もちろん、お金だってかかる。子どもたちと三人で行けば、日によって外野でも内野の良席と同じくらいのお金がかかる。私は随分このシーズン、欲しかった洋服を諦めた気がする。(あんまりよく考えてないけど)

一人で行けば気楽だけどなあと思うことだってもちろんある。むすめのトイレに付き合って、ぐっちのヒットを見逃すことだってある。(はらじゅりが点を取られるところを見なくて済むこともあるけど。)エイオキのタオルをどっちが掲げるかという子どもたちのしょーーーーもない言い争いにため息をつくこともある。しかもヤクルトはしょっちゅう負ける。

でも、それでも私はバカみたいに子どもたちと一緒に神宮にいた。

それは、この時間が、失われゆく時間であることを、心のどこかで私が知っているからだ。

小さな小さな、赤ちゃんだった息子やむすめをベビーカーに乗せ、朝の早い時間の商店街をゆっくり歩いたあの時間が、もう二度と戻らないように。きっと、今こうして三人で、たまにケンカしながら、ぶつかりながら、それでも球場に足を運ぶ、この時間がきっと戻らないことを、私は知っているからだ。

子どもたちと球場で過ごした夏は、二度と戻らないこの夏は、もしかするとヤクルトにとって二度とない二位という結果を残した夏は(いやそんなことはさすがにないと思うけど。ないですよね?)、CSまで行ったのに最後にスガノにノーノ…いやなんにもない、とにかくこの夏は、すごく楽しかった。

いつか子どもたちは(きっとあっという間に)私の手を離れて、友達と、恋人と、野球を見に行くようになるかもしれない。もしかしたら野球なんてまったく見なくなるかもしれない。でも、何はともあれ私の人生に、この夏があってよかったなと思う。そしてできることなら、子どもたちの記憶に、この夏のことが残るといいなと思う。

そのどれもが失われゆく時間で、そしてだからこそそれは、美しいのだから。

強い言葉を使うのは、得意じゃないけど

9年前からあふれていた強い言葉たち

もうすぐ8歳になる(!)息子の妊娠中に、twitterに出会った。周りにママ友なんて一人もいなくて、母も亡くしていて、不安だらけの私にとってtwitterは大げさでもなんでもなくオアシスだった。

その頃は今よりもきっとずっとtwitter人口は少なくて、まあこれは今もかもしれないけれど、ある程度の表現欲求があったりとか、何かこう、軸や芯を持つ人が多かった。その頃はにんぷさんや仕事の近そうな広告業界の人たちをフォローすることが多かったけれど(そしてにんぷさんたちは今も大切な友達になってくれているのだけれど)みんなしっかり自分の意見を持っているなあ、という印象だった。

だからなのか、その頃からtwitterには、力強い言葉があふれていた。社会的な歪みに怒る声や、子育ての不公平さに怒る声。そして「ワーキングマザー」という言葉がよく見られるようになったのもこの頃だったと思う。

特にこの「ワーキングマザー」たちのある種の怒りやパワーはすごかった。約9年前だ。今よりももっともっともっと、働くママさんという存在は、本人も会社も社会も手探りの状態だった。誰かが、大きな声で、何かを主張しなきゃ変わらない時期だったのだろうと、今振り返ってみて思う。

それでも白黒つけた物言いができない

その中で私は、どうしても、白黒はっきりつけた物言いができなかった。会社の制度はこうあるべき、にんぷさんに対してのマナーはかくあるべき、さらに、女性はこうあるべき、ワーキングマザーはこうすべき・・。

正直、その頃はどれが正しいのか自信がない、というものあったし、どこかで、強い言葉の威力で見知らぬ人を追い詰めたりしないだろうかと、怖かったというのも、ある。そしてそういう自分は、なんとなく弱いんじゃないかなあと、思っていた。こんなんで、「ワーキングマザー」とやらをやっていけるのかなあと、不安にもなっていた。

あれから9年がたった今、その頃のことを思い返してみるのだけれど。結局私は今も、「強い言葉」を使うことが得意じゃない。

天ないのマミリンみたいにはなれないけれど

3、4年ばかり距離を置いていた間に、twitter界隈の有名な人というのも様変わりしていて、いろんな「インフルエンサー」の人がたくさん登場していた。みんな、上手に「強い言葉」を使うなあ、という印象を持った。何かにはっきりと怒り、主張があり、それを感情的だけでなくロジカルに表す。

すごいなあと思う、かっこいいなあと思う。ずっと、はっきりとモノが言える人にちょっとした憧れはあったと思う。天ないで言うとマミリンみたいな。

だけど、3年経っても4年経っても9年経っても変わらないのであれば、まあ私自身は無理に強い言葉を使わなくてもいいのかな、それはそれでいいのかもな、と、思うようになった。それでもなんとかここまで、やってこられてはいる。もちろんまだまだだと思うところはかなりあるけれど。

そもそも自分にとって、これだけは譲れない、という、主張できるものって、もともとほんとうにものすごく少ない。(もちろん、少しだけはある。そりゃ、もちろん。誰だってそうだ。)たいていの物事は、裏も表もあるからなあ、と思っている。それ自体がどうなんだ、とずっと思っていたけど、まあそれが、私という人間なのだろうなあと、最近は少し思っている。

目立つような強い言葉は使えないけれど、たぶんそれが自分にとって、使いやすい言葉なのだ。みんながみんな、同じ言葉を使う必要はない。人には人の言葉や文体が、たぶん、ある。

それでも一つだけ変わってきた視点

ただ少しだけ、変わってきたなと思うのは、その強い言葉を使えない理由に、昔は「自分が嫌われるのがこわいから」というのがかなり大部分を占めていた、という部分があると思う。これはたぶん、息子が生まれてからのこの8年間で、私が一番向き合ってきた課題だ、と思っている。そして少しずつだけ、変わってこられたな、と思っている部分だ。もちろんまだ完全にとはいかないけれど。

できる限り(それでも100%は絶対無理なのだけれど)言葉で人を不必要に傷つけることのないよう、ということは、何より慎重になりたい部分だけれど、「嫌われないように」という保身は、全然なーんにも生まない。その視点は、意識的にとっぱらっていきたい。

その上で、自分は自分なりに心地よい、自分の言葉で色んな物事を、紡いでゆけたらいいなと思う。

まあそんな私にでも今使える強い言葉といえば例えば「おいそろそろ再起しろよヤクルトスワローズ。」くらいでしょうか。ええ。まじで。ほんと。

明日も走ろうと思えるモチベーションを残すコツ

暑すぎてランニングスランプだ

毎日走っていると書いたばかりでこう言ってはなんだけれども、ここ1週間ばかり、ランニングスランプである。いや、スランプと言っても私はアスリートでもなんでもないためタイムが伸び悩むとかそういうことではなくて、単に、「死ぬほど走りたくない死んでも走りたくないまじでいや」という状態であった。

理由はわかっている。

暑い。暑すぎる。

私は冬よりも500倍夏が好きな人間ではあるけれども、ことランニングに関しては、夏より冬の方が100倍マシだ。いくら寒くても1キロも走れば身体はあったまってくるけれど、暑いのはもう救いようがない。1キロ走るごとに暑さが増す。地獄だ。なんでこんな辛い思いをして毎日走るのだ?なんでこんな辛い思いをして毎日毎日負けるヤクルトの試合を見るのだ?我ながらわけがわからない。

大事なことは「毎日走る」ことそのものだから、この走りたくない病とは本当に日々向き合っていかなければならない。メロスは戦わなくてはならない。

小さなハードルを日々越えることでモチベーションを保っていたけれど

基本的には走ることの自分のモチベーションを、「小さな目標を達成する」ことでなんとか保ってきた。タイムであったり距離であったり、わかりやすく「今日はこれ」とあらかじめ自分でハードル決めておく。もちろん走りながらある程度の調整もする。もう少しいけそうだな、と思ったら、スピードを速めて、距離を伸ばす。そうやって、自分で決めたハードルを越えることで、今日もできた、と、自分の小さな糧にしてきた。

だけどそれだけでは、いつかモチベーションの糸はぶちっときれるらしい。つまり暑い中しんっっどい思いをして走っても別にタイムも速くならない距離も伸びないただ紫外線を浴びまくってお肌を傷めるばかりであることに心底疲れる。なんで私走ってるんだっけ。もう定めるべきハードルがさっぱりよくわからない。

こうなっては結局、昨日のしんどさがあとをひいて、今日も明日も死ぬほど走りたくない、という気持ちになる。これは自分にとっては由々しき事態なのだ。

「明日も走りたいな」という余力を残す

あまりの暑さに、まずは走る時間を1時間早めた。子どもたちが家を出てから1時間くらいざっと仕事を済ませてから走る、というリズムだったのを、子どもたちが家を出たらまず走る。そのあとに仕事する。眠いけど。

この時期に関しては、1時間早めるだけでも暑さは随分和らいだ。格段と走りやすくなった。そしてここからが大事なのだけれど、こうなると、今までの私なら、これならまだ走れるな、と、距離かスピードを上げていた。そうすることで、今日も目標よりも速く(長く)走れたな、と、モチベーションを上げようとしていた。

でも、それで毎日本気で走って疲れ果ててしまうと、また心底走りたくない毎日の繰り返しになる。だからぐっとがまんして、スピードを上げすぎず、あらかじめ決めた距離(10キロ)のところで走るのをやめた。「まだいけるな」「まだ走りたいな」という余力を少し残して。

これはなかなかに効果てきめんであった。まあ、走りたくないものは走りたくないのだけれど、翌日の心持ちは随分と楽だった。

大切なのは、「毎日走る」こと。それならば、「毎日走る」ためのモチベーションをきちんと維持することが、何より大切。それはつまり、「明日も走りたいな」と思えること。だから、「もっと走りたいな」という状態で、今日は一旦やめる勇気、というのも必要なのだ。それ、今週初めて知った。ここすごい大事。

今日も走りながら気づく

村上春樹は長編小説を書くときに、あらかじ決めた文字数を毎日毎日同じ量だけ書き進めてゆくそうだ。どれだけ筆が進まない日も、あるいはとても調子が良くてもっと書けるなという日も、必ずその文字数だけは書き、そしてその文字数に達したらそこですぱっとやめる。「まだ書けるな」という余力を残しておくことがすごく大事、だそうだ。

そうか、これがその「余力」か。と、私はハッとしている。身をもって知った気がする。やっぱり私は頭でじゃなくて、身体や手を動かしながらじゃないといろんなことがわからない人間なのだなあと、またもや思う。もっと頭でいろいろ考えちゃうタイプだと思っていたのだけれど、全然そんなことなかったらしい。走るようになってやっと気づいた。

私はプロ野球選手でもアスリートでもないから、何かと戦っているわけじゃない。だから、日々(ある程度は)楽しく気持ち良く、走れることがすごく大事だ。まあ、しんどいものはしんどいけど、緩急をつけて、走りたいな、という気持ちをちゃんと維持することは、すごく大事だな、というお話。仕事だってなんだって、そういう「遊び」の部分は大事だ。ピッチャーはいつだってど真ん中にストレートを投げ続けるわけにはいかない。いやそういう話じゃなかったっけ。

こうしてなんとかかんとか、明日も走るべく整えるのです。走っても走ってもヤクルトが勝つわけじゃないのに。(今日こそ勝ってくれませんかね・・)

「毎日走る」ために、自分と約束していることたち

シンプルに、なぜ走るのか

誰に言われたわけでも誰かと約束をしているわけでも誰かに脅されているわけでもない。焼肉をおごってもらえるわけでもないし、エルメスのサンダルが手に入るわけでもないし、セリーヌのデザイナーにフィービーが戻ってくるわけでもない。つまり何かが急激に好転するわけではない。

それなのに毎日毎日、私は走っている。今日も走りたくないと思いながら、走っている。なんでこんな辛い思いをして毎日走るのだ?あとなんでこんな辛い思いをして毎日毎日負けるヤクルトの試合を見るのだ?我ながらわけがわからない。

なぜ走るのか。メロスなのか。理由はたぶん、一つだけ。

少しでも、心身共に健康でより良い日々を送るため。

至って地味な理由である。なんだそれ。でもほんとうにこれだけだ。

だからそのために私が一番に大切にしたいことは、速く走ることよりも長く走ることよりも「できるだけ毎日走る」ことなのだと思う。

ノムさんが「速い球を投げられるのは、天賦の才であって、練習しても限界がある。目標設定にはなりえない。対して制球力は、練習をすればするほど、経験を積めば積むほど、向上する。つまり、どんな投手にも身につけられる可能性がある」と本に書いていて、私はそうだよ「目標設定」とはかくあるべき!と、目から鱗だったのだけれど、つまるところ私にとって走ることにおいての「目標設定」は「毎日走る」と位置付けられるべきなのだ。人生は野球だ。意味不明だ。

「毎日走る」ことの規則性そのものが大事

会社を辞めてから、毎日同じ時間に起き、同じ時間に電車に乗り、同じ時間に会社に行く、ということがなくなった。それは控えめに言って素晴らしいことなのだけれど、同時にあらゆる規則性が失われたということでもある。

何か一つ、自分の日々に規則性を持たせること、というのは何となく必要なことのような気がしていた。毎日走る、毎日書く。そういったようなものが。

だから走るということは、もちろん身体をある程度鍛えるといったわかりやすいものと同時に、日々に規則性を持たせる、繰り返すこと自体に、(あくまでも私にとっては)意味がある。まあたぶん一種の修行なのだ、あっほみたいに弱いヤクルトの試合をみるのと一緒だ、あれも修行だから。

「毎日走る」ためのルール

さて、だからと言って「毎日走る」というのはもちろんそんなにめちゃくちゃ簡単だ、というものではない。プロ野球選手になるとか、ZOZOの社長になるとか、石原さとみと付き合うとか、ヤクルトが優勝するとか、そのレベルの物事よりはもちろんよっぽど100億倍くらい簡単なことだけれど(だから私ごときにでもできるわけだけれど)、まあ「毎日ご飯を食べる」ことよりは、ちょっとだけ難しい。

続けるために、なんとなく、自分の中でこうしよう、と決めていることがある。(あるな、と、今日走りながら気づいた。)

具体的に自分が自分に決めていること(誰に言われたわけでももちろんないので、勝手に自分が自分に約束していること)を書き出してみるとこれくらい。

・平日は毎日走る、土日祝日家族の休みの日は走らなくて良い

・基本は月曜10キロ、火曜5キロ、水曜10キロ・・と、5キロと10キロを交互に走り、週に合計約40キロ以上走る

・それを繰り返して月に160キロ以上走る

・3泊4日以上の旅行にはランニングウェアを持って行き一度は走る

・雨の日雪の日暑すぎる日寒すぎる日はジムで走る

・前日に飲みすぎようがヤクルトがあほみたいな負け方をしようがオットとケンカしようが子どもともめようがとにかく朝が来たら走る

・午前中に走る

・午前中に予定が入っていて時間がなくてもとにかく1キロでもいいから走る

・短い距離しか走れなかった日の分は、1週間や1か月のうちに距離を調整して、最終的に月160キロにする

・できれば週に1回15キロを走る

・できれば月に1回20キロを走る

・できれば信号のない道を走り、歩かない、止まらない。

 

もちろんこの先に例えばタイムが速くなるとか、フルマラソンが走れるようになるとか、そういうことも目指したいと思うし挑戦したいとは思うけれども、本質的に大事なのはそういった数字のこと以上に「(休みの日以外は)できるだけ毎日走る」ことなのだと思う。だから、こういう自分なりの小さな約束ごとを、毎日地味に地味に守ることで、私の小さすぎるモチベーションをなんとか維持している。

「なんとかギリギリに守れる」約束であることが大事

だからそのために、自分に課すルールは「なんとかギリギリに守れる」範囲でなければならない。これは無理だわ毎日続けられない、というルールだと本末転倒なわけで、これならなんとか守れる、というギリギリのラインを、日々走りながら見極めてきた結果がこれ、という感じ。

最初から、月に160キロ走ろう!と思っていたわけでも、なんなら平日は休まず走ろう!と思っていたわけでもないのだけれど、日々走りながら、目標も、そのための自分との小さな約束も見つけてきた。

決して頭が良い人間ではないから(あたりまえだ)、机の前に座ってじっと考えて、ものすごく良いアイデアとか、大切な「答え」とか、目標すら見つかるわけでは、ない。最初にこうしよう!と決めるのではなくて、走りながら、歩きながら、身体を動かしながら、少しずつなんとなく、わかってくることがある。そうやって私は、いろいろなことを見つけて決めてゆくのだな、と、改めて思う。

なんかそれも走ることの一つの重要な側面なのかな、と思ったりしている。直接的にも、比喩的にも、走りながら大切なものを見つけてゆくため。しんどいけど。

明日は、この「しんどさ」を乗り越えるためにこれ必要だわ!と、私が今日気づいたことについて書きます。すごい大事ですここテストに出ます。たぶん。

反抗期息子(小2)との、絡まった関係のほどき方

関係性の糸がぐるんぐるんに絡まっている

小2息子は7年間で最大の反抗期を迎えている。原因はわかっている。私の余裕のなさだ。

一向に学校の宿題をやらない、くもんはここ1か月くらい宿題の残塁の山だし、明日の準備も全くしない。朝は朝で早起きするのにダラダラ準備をして、家を出る2分前に帽子がない!とか言い出す。

そのすべてにおいて、「だからあれだけ言ったのに!!」という言葉で私が片付けてしまう。そして、正直、今日々の息子とのコミュニケーションはほぼこれだけで終始してしまっている。

あれもこれも言ったのに、あれもこれもできていない。そんなことばかり言われていたら、大人だって嫌になってしまう。何を言われたって、聞く気が失せてしまう。そりゃそうだ。

それでも息子がギャーギャー言い、私がギャーギャー言い返し、それの繰り返しで息子の気持ちに寄り添う余裕がなくなっているなあと、思う。そう、息子が学校へ行っている間はつくづく心からそう思う。帰ってきたら今日こそ気持ちに寄り添うようにしよう・・

と、思いながら、帰って来た瞬間、一向に学校の宿題をやらない、くもんは・・のループが始まり、また同じことの繰り返しである。

なにを話してもケンカになってしまう。これは倦怠期のカップルのようである。ぐるんぐるんと絡みあっている。ぐるんぐるん。

そもそも、本来の私の性格として、あまりに他人に興味がなさすぎる、という問題点も、ある。もうこう言ってはなんなのだけれど、例えば息子が友達にやらせてもらったゲームの話とかするじゃないですか。ぜんっっっぜん面白くないわけです。なんでもにこにこ聞いてあげる、ということができない。あからさまに、てきとうな返しをしている、気がする。

そういえば昔から、誰かの話を聞いている時に、「ムシこの話全然興味ないでしょ!」と、よく言われていた。気がする。なんて失礼なやつなんだ誰だそいつは、私だ。

それをたった小2の我が子にもするんですよなんてひどい母親なんだ誰だそいつは、私だ。

こうなると本当に息子は大変だ。お母さんとの会話のすべてがあれやった?これやった?なんでやってないの?で終わってしまう。地獄だそんなの。ブラック企業だ。絶対勤めたくない。

だけど、そんなブッラク企業と化した家の中でも、唯一共通に楽しめる会話として糸口になってくれるものそれが。野球である。なんだよまた野球かよほかに話題はないのかそうですないです人生は野球だ。(キテいる)そう、野球なら私も好きなことなのだ。他人に興味がない私でも、好きなことの話ならいくらでもできる。

ヤクルトの試合を見ながら一喜一憂するとき、昨日の試合を振り返って、あれ良かったよね、これすごかったよね、あのときのプレーかっこ良かったよね、と話すとき。あまりに負けが続いて、これは打順が絶対悪い、どうしたら得点につなげられるか、って、紙に書き出して二人で考えるとき。未だにわからないルールや用語を見つけて、息子にていねいに教えてもらうとき。(野球のルールってめちゃくちゃ奥深くて知らないことがまだ出てきておもしろい)

好きなものを共有する時間は、二人ともごきげんだ。そうやって、実際には何の役にも立たない、ヤクルト球団が知る由もない、余計なお世話なことを二人でぐだぐだと話す、その時間は、ぐるんぐるんに絡まった関係性の糸を全く感じることなく過ごせる時間だ。好きなものを共有しているって、こんなに良いものなのだな、と思う。

それは、オットと私の関係でも言えることだなと思う。普段から本当に家にいないのでじっくり話す機会がほぼないような我が家で、共通の話題といえばいつも子どもと仕事の話ばかりだったのだけれど、野球を観るようになってから、格段に野球の話が増えた。おもしろい記事を見つけたらすぐに LINEするし、多分会話の数もLINEの数も増えた。

私は本当に個人的な人間だなと思うけれど、やっぱり好きなものっていうのは、とことん話せる人がいるっていいものだと思う。昔からずっと好きだった本に関しては、なかなか思いの丈をぶつける人が周りにいなくて、ずっと一人で咀嚼して反芻してああ誰かと共有したいでもできない、と、もどかしく思いながら生きてきた。(というか、そう思っていたのだなきっと、ということに最近気づいた。)

だけど、例えばファッションのことはディープにとことん話せる友達がいるし、野球にしても家族や先輩ととことん話せる。その、好きなものを「とことん」話せるってめちゃくちゃしあわせなことだし、人との関係において大事なのって、もしかしてそういう好きなものの共有だったりするのかな、とか思ったり、する。当たり前のことなのだけれど、好きなものに関して話している間、人は、ごきげんなのだ。そしてごきげんなことというのはとても大切なことだ。

だからまあ何が言いたいかというと、今日も野球は楽しいねということと、息子の話はちゃんと聞きましょうということです。あーーー早く終われー反抗期ー(他力本願)

 

100%の力でやってみることを怖がらないようになりたい。

「どれくらい頑張るのか」という問題

ずっと、努力を人に見せるのが恥ずかしいなあと思ってきた。というか、努力をしなくてもサラリとできることに憧れていた。もちろんもういい大人になって、そんなことはありえないと今ではわかるのだけれど。

もう一つ、「努力をするのがカッコ悪い」と思っていた(思い込もうとしていた)理由の一つに、「頑張ってしまうと、自分の限界が見えてしまうんじゃないか」という怖さがどこかにあったのだと思う。頑張って出来なかったということは、自分はそれ以上はできないということだ、と、自分の能力の限界を知ることが怖かったのかもしれない。

いつも80%にしておけば、失敗した時も、あと20%の力を出せば成功できていた「かもしれない」という、思い込みを残せる。その根拠のない自信の余白を残すために、どこかで頑張ることを恐れていたのかもしれない。

書いてみたら、なんとまあ恥ずかしい考え方なんだと思うのだけれど、そういう気持ちのバランスをとりながら、いろんなことに向き合ってきた部分はあると思う。

あと、これは私に限ったことだと本気で思うけれど、サラリーマンでいた時、どうしても出る杭になるのが怖い気持ちもどこかにあった。80%の力と、100%の力で、お給料も変わらない空間に身を置いていると、なんというかいろんな保険を考えて80%にとどめてしまいがちだった気がする。

もちろん、毎日毎日100%の力を出していたら人は簡単につぶれてしまう。緩急が大切で、いざという時に100%の力を出せるように、普段は緊張を緩めておくことも大切。だけど、きっと私はそのいざという時の100%そのものを、怖がっていたような、気がする。

いや、正直に言えば、今も少し、怖い。

大きな会社を辞めて、一人になった。その理由はいろいろあるけれど、「言い訳なしの個人の力でやっていきたい」という気持ちもあった。だけど、今まだ、その「個人の力」に向き合うのが怖いという気持ちが、残っているなと感じる。

会社にいれば、100%を一生出さなくても、食いっぱぐれることはなかったかもしれない。(これから厳しくはなってくると思うけれども。)でも一人になったからには、怖がる気持ちを克服しなきゃな、と思っている。

あれは高校受験の時だったか、刺繍が趣味だった母が、

「It’s better to regret doing something than to regret not doing it.」(やらないで後悔するより、やって後悔した方がいい)

っていう言葉を入れた額をくれた。(ような気がする。)(うろおぼえ)

なんかまさに、その通りだと思う、34歳の春。15歳の春にその精神で頑張ってたはずなのに、もうすっかり忘れていたよ・・・。

なんだか踏ん張りどきな気がしている。恐れずに、いろんなことにチャレンジしてゆきたいな。そう、野球選手のように。(本当に野球のことしか考えてない。)ぐっとお腹に力を入れて。

 

【50音blog 】お:音読ーー息子の音読を聞くのが好きだ

声に出して読む、聞く、物語も良いものだ

子供が生まれてから知ったことの一つに、「音で聞く(読む)物語もいいものだ」ということがある。

ずっと本は一人で読むものだと思っていたし、昔は本を読むときに声を出して読み上げたら怒られたような・・気がする。声に出さずに読むもの、と教えられた気がする。

本を一人で読めるようになってからもう30年近く、ずっとそうして生きてきたわけだけれど、子どもたちに読み聞かせをするようになって、「声に出して読む」と、物語がまた違った印象を持ってぐんと迫ってくることを知った。この世に朗読会とかがある意味がものすごく良くわかった。

絵本を声に出して読んでいると、その言葉のリズムがすごく心地よくて、良い本だと普通に泣いてしまったりする。読み聞かせしながら泣くとかどーなんだと思うけれど、仕方がない、母ちゃんも人間だ。あたりまえだ。

声に出して読む方が、ゆっくりと読めるわけで、言葉をかみしめやすい。音にすることで見えてくる情景もあるのだなあと、私は初めて知った。

そういう中で息子が小学生になり、毎日毎日来る日も来る日も夏休みも冬休みも音読の宿題を聞かされている。

まあ、めんどくさいのだけれど(忘れてて朝出る前に思い出すとかキー!ってなる。)でも息子の声で聞く小さな物語は、なかなか良いものだな、と思う。

7歳の男の子が聞かせてくれる言葉遊びや、詩や、お話を聞く。ちょうど良いところで今日の分は終わったりして、いっちょまえに先が気になったりする。ご飯を作りながら聞くその時間は、ちょっとだけスペシャルだな、と思う。

そのうちきっと恥ずかしがったりとかして、今のように素直に感情を込めて読んではくれなくなるだろう。セリフの声を大きくして話したり、ちょっと寂しげに言ってみたり、抑揚をつけたり、まだ素直だからこそ見られるその表現は、きっと失われてしまうものだったりするのだろう。

子育てなんてきっと、後から振り返って懐かしくなるものごとのオンパレードだと思うけれど、できることなら、少しはその瞬間に、ああこれいいなあ、と気づいてみたい。小学生の男の子が、物語を読み聞かせてくれる時間なんて、きっとほんの一瞬で過ぎ去ってしまうことだから。

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