「いやだ」と言っちゃってもだいじょーぶ。

だいたい週に2回くらい、会社のゲートでピッとsuicaをかざすようになってきた。なかなかキテいる証拠です。3月ですね。

3月のキリン

言いたくなっただけ。3月のライオンにかけてみましたとか言ったらほんとそろそろ怒られそう。

3月になり、いよいよ息子の卒園が近づいてきました。考えたら泣きそう。なので考えない。ちょっと別の視点からのお話。

卒園に向けて保護者主体のイベントや行事も増えてきます。たぶん多くの人は、当たり障りなく、「何となくみんなが出席するイベントだから」とか、「子供のため・・・」とか、そういった気持ちも含めて、行事には出席するし、役員は続けます。それはもちろん私も含めて。それが「多数派」です。

もちろんイベントが心から楽しみだとか、子供のためになることを本気でしてあげたいとか、そういう気持ちももちろんある。それはもちろん私も含めて(と何度も繰り返す)。でもどちらにしても、その「本気でやりたい」度合いがどれくらいのレベルにあるにしても、とにかく結果的に私たちは「多数派」を選ぶ。そして、自分は「多数派」だろう、と、認識する。(そして少しの安心感を得る。)

ところで、いつの世も、保護者(というか人間)が集まるとそれなりに小さいトラブルのようなものも発生します。そして私という人間はほんとうに人間的に未熟ですので、そういったトラブルの種を見つけるやいなや全力で逃げます。ええもうだめな大人ですね。しかしこれはもう致し方ない、神様が与えたもうた性格なのです。許して仏様。(意味不明)

そしてだいたいいつも面倒なことから距離を置くわけですが(ほんとうにすみません)、そうすると、何があったか背景はわからないけれど、結果として残ること、つまりあの人は今回の行事に出席しないとか、役員を降りた、とか、そういう「結果」となることだけを知ることになります。

だいたいのことは「ああそうなのか。」といったレベルで受け止められる

「行事に出席しない」とか「役員を降りる」という選択は、「多数派」ではない。あくまでも少数派なわけで、もちろん一部の人たちからは「協調性がない」とか「子供がかわいそう」(ところでこのフレーズは本当に他人が発する言葉ではないですよね条例で禁じたらいいと思います。)というネガティブな声も出るやに思います。おそらく。たぶん。

と、そうは思うのだけれども、「トラブルの内容はよくわからないままだけれどもとにかくその結果だけを知る」といういつものパターンを繰り返す私がここで気づいたこというのは、例えば「行事に出席しない」という結論を出した人のことを、いやまあ特になんとも思わないな、と、いうことです。「変わり者なんだなあ」とか「あんまり近づきたくないなあ」とか、ましてや「そんな親の子供はどんな子なんだろう」みたいなことは、特にというかまったく思わない。

まあ「多数派」ではないのだろうし、そういう意味ではちょっと変わっているところはあるのかもしれないなあとちらりと思う程度のことはあっても、だからと言ってまあ基本的に「ああそうなんだないろいろあったんだろうなあ。そういうこともあるよなあ。」くらいのことしか思わない。何かを詮索しようとも思わないし、もちろん何かを説得しようとも思わないし、「ああそうなのか。」というのが、ほぼすべての感想なのです。

で、思うに、これってだいたいの人の感想なのではなかろーか、と。いろいろ言う人が少しはいるにしても、その声が大きく聞こえがちだとしても、もしかすると世の中の多くの物事は、「ああそうなのか。」といったレベルで他人に受け止められるのかもしれない。

「いやだ」と言っても大部分の人は「ああそうなのか。」と思うに過ぎない

これを視点を自分にして考えてみると、もし仮に自分が何かいやなことがあってそれを「いやだ」と口にした時、もちろん「けしからん。」という人は一定数いるにしても、大部分の人は「ああそうなのか。」と、思うに過ぎないのだろうな、と、いうことです。ちょっとくらい「変わってるなあ」とは思われるかもしれないけれど、でもその程度。

自分がやりたくないことがあったとして、それを断るのって、いろいろ考えるとすごく高いハードルのような気がしてしまうけれど、実はそんなに高いものじゃないんじゃないかな、と、思います。本当にやりたくないことをやるのと、ほんのちょっと「変わってるなー」と思われることだと、よくよく考えてみれば後者の方が圧倒的に楽。だいたい「ちょっと変わってるところ」なんて、誰も彼もみんな持っている。

もちろん保育園のイベントというのは一つの例であって、それを否定するわけでも、頑張って取り組むことを冷ややかに見ているわけでもなくて、実際私自身はみんなでワイワイいろんなことができてすごく楽しかったし、交友関係も広がったし、行事に参加するのも係をやるのも結果的には良かったなあと思っています。

ただ、それだってなんだって、基本的には「やりたい人がやればいい。」と、思うのです。それはどんなことだって同じで。本当に嫌なことに対して、「いやだ」と言ったって、自分が思ってるほどのリスクは実はないのだと思う。むしろ、本当に嫌なことを無理してやる方が、ずっとずっと不健康だし、長い目でみればものすごいリスクになると思います。

ほんとーーーにいやなことは「いやだ」と言ってしまうのが大事だな、と思う。それで失うものって、実は自分が思うほどないのだから。というか守るものこそあれ、失うものは多分、何もないのです。

全然そんなに、たいしたことないのです。

そんなことを、ふと考える3月中旬。ああもう中旬。仕事も大詰め年度末。ああ年度末。

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洋服の好きなテイストは変化するのか、という話

「好きな服を着る」「好きな服を買える」モチベーション

よく考えてみると長いこと洋服が好きだなあと思うし、自分の人生において「好きな服を着る」「好きな服を買える」ということは、結構大きなモチベーションになっているのだなと気づく。

中学生や高校生の頃、自分のお小遣いの範囲ではなかなか欲しい洋服が買えなかった。まあそりゃあ当たり前なのだけれど。だから例えば母の昔の服をリメイクしたりだとか、今では絶対にやらないけれど(特技:不器用だから)、家にある布でスカートを作ったりとか色々と工夫しながらなんとかかんとか自分が着たい洋服を着ていた。いつか好きな洋服を好きなだけ買えるようになってやるぞ・・・とか思いながら。

そしてその思いは基本的にずっと自分の根っこにあって、大学の時は多分服を買うためだけにバイトをひたすらしていた。時には授業にも出ずに。いや良い子の皆さまはそんなことしてはいけません。(しかし大学で学べることというのは本当に限られていて、私が大学で見つけたのはまあ数人の友達とオットくらいである。たぶん。)

でも大筋はおそらく今も変わらず、「好きな服くらいは自分で選んで自分で買いたい。」という気持ちは今も働くことの大きなモチベーションになっている。結局少ないお小遣いの中でなんとか好きな服を着るために試行錯誤していたあの頃と、今も大きく変わっていないのかもしれない。どこかで「もっと」と思いながら、少し背伸びをしているのかもしれない。

そういう「服が好き」という根底にあるものや、それをモチベーションにしているところはどうやら変わっていないようなのだけれど、じゃあ好きな洋服のスタイルというかテイストというのは、大枠は変わっていないのだろーか、と、ふと思った。

好きなテイストは流行とともに変化する

結論から言うとこれは変化する。と、私は思う。高校生の頃ものすごいガングロギャルで、ある日思い立って美白をして、お姉さん系のカッコ(ってなんだ)に変化し、それに飽きて今度は古着ばかり着るようになる、といったような大きな変化があるわけじゃないにしても、ほんの数年の単位で、好きな色やテイストや例えばブランドだって、ある程度は変わっていく。それはもちろん、中学生の時にしていたカッコを今もするというのはありえないわけで、スタイルは(おそらく体型含め)変化していからというのもある。

そしてもう一つ、それはおそらくファッションというものが「流行」という波を大きく作っていく業界で、それとは切っても切り離せないものだというのも大きいのかなあと思う。

衣食住において、食や住は「流行」の影響をそこまで大きく受けるものではないけれど(そりゃもちろんナタデココやパンケーキやアサイーやチアシードなどの流行はあれど。)どうしてだか「衣」は流行と切っても切れない関係にある。そして「衣」は流行に振り回される、往々にして。

それについてとやかく言う人はもちろんいるだろう。「流行に振り回される」という言葉は、だいたいにおいてポジティブな意味では使われない。でも私は思う。「流行に振り回される」のはそんなに悪いことなのだろうかと。「流行に振り回される」のは、流行を楽しむことでもあるんじゃないかなと。そしてそれは、「衣」を、洋服を纏うことを、楽しむということなのではないかと。

流行というのは、何も隣の人と同じものを着る安心感を得るために存在するのではなく(そういう人ももしかしたらいるのかもしれないけれど)新しい何かを楽しむきっかけでもあると思う。ずっとヒールばかり履いていたけれど、数年前にスニーカーを履き始めたのは明らかに「流行に振り回された」結果だけれど、おかげで洋服を選ぶ楽しみはぐんと増えた。持っていた洋服が新鮮に見えたし、選ぶ洋服も少し変化したかもしれない。そしてそれはとても楽しい変化だった。

その流行には、業界のマーケティング戦略が存分に組み込まれているのかもしれない。バレンタインデーやハロウィンやイースターのように、そこに生まれるお金の流れを期待する人というのは一定数いるのかもしれない。それでも、そうだとしても、まあ自分が楽しければそれでいいじゃないか、と思う。多かれ少なかれ、誰もがマーケットのターゲットであることには違いないのだから。

流行というフィルターを通して見える世界というのは、ある程度自分にとっては新鮮な風を運んでくれるもののような気がする。その風を通じて、少しずつ好きなスタイルやテイストが変わっていく過程というのもまた、楽しみの一つだなあと思う。

それでもその奥にある軸を大切にすること

ただ、そうはいっても、多分この歳になってくると、やっぱり他のものと同じく、軸の軸まで突き詰めていくと、多分好きなものというのはある程度変わらないというのもまた事実なり、と、思う。それはもしかしたら他人にはわからないことかもしれないけれど、そして言葉には表せないことかもしれないけれど、ある時はものすごくハデで、ある時はものすごくシンプルだとしても、そこには自分にはわかる確固たる軸があるのかもしれない。「カジュアル」「きれい系」「原宿系」みたいなファッション誌的分類では言い表せない軸が。(それにしても例えが古い)

「ちょっとひねりのある変わった形が好き」「どこまでもシンプルだけれど、体にそう形がきれいなものが好き」あるいは「とにかく黒が好き」。その人にはその人の、それは流行とは別のところにある、その人の歴史が影響したスタイルや好きなものがあるのだろうと思う。それはたとえばその人の性格と同じく、内面から外面から、あらゆる影響を受けて形作られていくもののような気がする。そして多分そういうものは、大切にした方がいい類のものだ。それを突き詰めていくと、洋服を選ぶ時の迷いが結構なくなってくるような気がしている。

好きなテイストは変わってゆく。それは洋服を楽しむという意味で、ポジティブに捉えていいと思う。でも同時に。自分が形作ってきた何かを、その好きなスタイルを、大切にしていきたいなあと思う。「流行」だけを見て、隣の人と全く同じカッコをするというのはそれはやっぱり、楽しいものではないから。

なんだって、「大事なのは変わってくこと、変わらずにいること。」byマッキーなのだ、たぶん。(それにしても例えが古い)

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うれしいとスキップをするアラフォー(アラウンド4歳)から学ぶ

「絵に描いたような瞬間」によく出くわす

最近、むすめ(4月で4歳、つまりアラフォー)が、うれしいことがあるとスキップをする。

うれしいことというのはつまり、「今日の晩御飯は(母さんが疲れているので)サイゼリヤにしよう!」と言った時とか「おやつ一個ローソンで選んでいいよ。」と言った時とか「今日のお迎えちょっと早いよ(10分くらい・・・)」と言った時、ということである。

なにもシャネルのバッグを買ってあげるよとか宝くじ当たったよとか4月から君は部長だよとかそういうことを言われた時ではない。

しかしむすめは、大人から見ればえらくささやかであろう喜びを、本当に絵に描いたように、スキップに込めて全身で表してくれる。これを見ていて大人である私はつい笑ってしまう。だってうれしくてスキップする、なんて、まずもうしないから。漫画みたいだなと思って笑ってしまう。人はうれしいとスキップをするのか。と、改めて思う。なんだかちょっと滑稽で、そしてとてつもなくかわいい、うれしくて思わずスキップをする姿。

子どもたちを見ていると、こういう「絵に描いたような瞬間」というのに結構よく出くわす。「ティッシュペーパーを一枚ずつ全部出すいたずら」とか、よく見かけるけど我が子がそんなことをするなんてなぜか全く思っていなくて、ほんとにやった時は「これまじでやるの!!」と、妙に感動した。ほんとうに赤子はティッシュを一枚ずつ全部出すのか・・・!と。そしてその状況って、何かで絶対見たことがあったはずなのに、目の前で我が子がするとあほみたいにかわいい、なんでだろうか。

コントみたいにベタな面白さと、ベタなしあわせ。

たぶんなんだって、「ちょっとコントみたいな日常」というのは、なんだかおかしくてかわいいものなのかもしれない。昔、みんなで飲んでる時に、先輩が酔っ払って椅子に座ったまま寝落ちっていたのだけれど、なんかのはずみで笑った瞬間に椅子から落ちてそれがベタベタなコントみたいでおかしくてお腹がよじれるくらいにみんなで笑った。と、今書いていて思ったけれどこれは別に文字にすると何一つ面白くない。びっくりするくらいに面白くない。ゆえにこれは単にみんな酔っ払ってたから面白かっただけかもしれない。こういうときこの面白さは世界共通だきっとあの人だって笑うに違いないとか思っておそらく仕事中であろう同僚とかに電話とかしちゃったりとかしがちですけどほんとこれ最悪ですよね酔っ払ってる人の「面白い基準」ほどひどいものはないですよねほんとすみません反省します。

それは反省しますが、例えば吉本新喜劇ではみんなが椅子から転げ落ちるのがお決まりですが(最近見てないなあ吉本新喜劇・・・見たい・・・)それはやっぱりベタすぎるけれどもやっぱりおもしろい。初めて生で吉本新喜劇を見たときは、「本当に転げ落ちるのか!」と、これまた感動した。

なんだっけ、椅子から転げ落ちる話やっけ。椅子から転げ落ちた先輩は実は「仕事は楽しい方がいいでしょ」という名言を残した先輩と同一人物でこの人はやはりすごいという話やっけ。

いや、そうではなくて、ベタベタなコントとか漫画みたいなことが目の前で起こった時っていうのは、なんだか面白い。そしてなんかキュートで和む。やっぱりコントみたいに椅子から転げ落ちる人が目の前に表れるとものすごくおもろいのである。コントかよ!と、いうツッコミができる時ほど、日常でおもしろい瞬間はない。と、私は思う。というか、私はその瞬間がものすごく好きなのだ、きっと。

そしてふつーに過ごしていても、そういう瞬間というのは、実は結構たくさんある。何も椅子から転げ落ちなくても、その辺に山ほど転がっている。道端にうそみたいにバナナの皮が落ちていたりする。いやほんとに。

そして同時に、ベタベタなしあわせっぽい瞬間というのも、結構たくさんある。子どもが手をぎゅっとつないでくれたとか、「ママだーいすき!」って言ってくれたりとか「ママの作るちらし寿司がいちばんおいしい!」って言ってくれたりとか。いやこうして文字にするとベタすぎてうそっぽさまで出るけれども、子どもってほんとに、そういうベタベタで信じられないくらいストレートで、でもほんとに素直でうれしいことを、いとも簡単に表現してくれる。

なんというか、日常っていうのは、それくらいのテンションでいいなあと思う。何も奇をてらうことはなくて、ふつーのことが、とてもおかしくて、かわいくて、しあわせなのである。

SNSにあふれる「ステキな生活」に憧れるのも良い。それを目指すのだって良い。でも真四角に切り取られたその写真は、もちろんとてもとても長い一日の、そして人生の、ほんの一瞬の切り取りに過ぎない。それを、忘れちゃいけないなあと思う。その真四角の写真には切り取られていない、たくさんのふつーーーーーの、でもつい笑っちゃうような、すてきな瞬間が、人生には山ほどあるのだ。

うれしいことがあればスキップしちゃうような、それくらいの軽やかな気持ちで、毎日を過ごしてゆけるといいなと思う。うれしくてスキップする、というのは、SNSもインターネットもなかった時からきっと存在した世界共通の「ベタベタな行動」なのだから。

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走ることは出産のようだ、全然違うけど。

走り始めて約1か月のとりあえずのキロク

ハワイで走り始めて早1か月。ここのところは全然走れていない、週1回も走っていない。そんなへなちょこですが、できるだけ定期的に走っていきたいなと思い始めている。ので、ものすごおおおおおおく初心者の今の気持ちを一応残しておこう、と、思いついた。

1年後、ペーペーのくせにこんなこと言ってるわ・・・と、思うのか、この時から全然成長していないな私・・・と、思うかは、今の所もちろん全くわからない。

普段から走っている人にとっては何ら面白くないというかふざけるなといった話かと思いますが、初心者の記録なので大目に見ていただけますと幸いですほんとごめんなさい。(先に謝る)

ハワイでは海までの道をだいたい往復3キロ、4日間毎日走った。ワイマナロのきちんと舗装されていない道だったというのもあってか、というかまあ走るのなんて何年ぶりだろうというのも、3キロちょっとでゼイゼイハアハア言って全然走れなかった。いや、走ったのだけれど、その距離ですっかり疲れ果てていた。

毎日きれいな海まで走るのはなんだか楽しかったような記憶もあるのだけれど、それはハワイのきれいな海を見ながら走るというのはそりゃあ楽しかろう、という、過去を振り返ってなんとなく美化されている感覚のような気もしている。実際走ってる時はもっとしんどかったのかもしれない。

東京に戻ってから走ってみると、高低差は意外とあるものの、東京の道というのはやっぱりきれいなのですごく走りやすくて、一気に5キロまでは走れるようになった。それでもやっぱりしんどいものはしんどい。会話を楽しみながら軽やかにジョギング、とかよく言うけどあんなの絶対無理だ・・・と、何度も思う。でもなんとなく、ある程度距離を走ってみたいなあという感覚も生まれてきた。昔から、「早く」は苦手だけれど「長く」は結構得意だったような気がする、そういえば。いや、この時点でまだ5キロしか走ってませんけども・・・。

そして今日は、「10キロ走ろう」と、なんとなく決めてスタート。iPhoneせんぱいの「1キロ通過・・・」「2キロ通過・・・」を励みに走る。いやもう途中6キロ地点くらいが本当にしんどくて、なんでこんなことをしてるんだとか、なんでこの道上り坂なんだとか、そもそも私はなんで走り始めたんだとか、なんで10キロって決めたんだ別に5キロでいいじゃないかとか、そもそもこの靴もしかして走りづらいんじゃないのとか、だいたいこんなしんどいことをするとかあほなんじゃないかとか、まあもう色々な思いが巡る巡る。あほなのかな私うんあほなのだなと結論づける(※あくまでも個人的な見解です←よくあるテロップ)

※あくまでも個人的な見解です

なのだけれど、8キロすぎて9キロすぎて10キロが見えると、やっぱりうれしくなってきて、これはいけるなという感じがしてくる。ただし、5キロ走ってた時とは違って、ゴールが見えてくるからスピードアップ・・・とはいかず、物理的に足が結構痛くなっていて、機械的に交互に足を前に出すことしかできなくなっていたのでタイムはほぼ横ばいで上がらず。(ただ先週5キロ走った時から1キロ当たりのタイムは落ちてもいないのでそれはそれでよく頑張ったと自分で自分をほめてあげたい。と言ったのは誰やっけ。オリンピック選手やったっけ。)

これに関しては、初めて10キロ走ったからまあ足もびっくりしたのだろうとは思うけれど、とはいえたった10キロな訳で、世の中にはもっと長い距離を走る人もいるわけで、というか、実感として人間はきっともっと長い距離を走れるだろうという感じはあって、そうすると走り方とかももっと足に負担がないように気にした方がいいのかもしれないと思ったりした。これは課題。メモ。

そんなわけで、6キロ地点で「こんなランニングする人とかあほだ(※あくまでも個人的な見解です←よくあるテロップ)もう私は二度と走らない決して走らない」と思ったのもつかの間、走り終わったら「まあまたこれ続けていってもいいかもなそのうちハーフくらいなら挑戦してみてもいいんじゃないかな」とか思っている私はほんとうにあほなのだと思う。(※あくまでも以下略)

しかし、そういえばあれは上の子を生むときの陣痛の最中、「こんな痛いとかまじできいてないこんなんみんなやってきたとかどう考えてもおかしい正気の沙汰じゃないっていうかこれで二人目生もうと思うのとかほんとうにあほだどうかしている(※あくまでも以下略)」と、思ったくせに、生んでみたら「まあいいかもう一回くらいあっても」とか思ってしまう私はほんとうにあほだなと思ったけれどもそれと同じだな。いや、全然違うけど。

そういったわけで、人は忘れてゆくいきものですが、私はほんとうに昔から何もかもをほんとあっという間に忘れていく人でして(忘れ物もしょっちゅうでして)だから痛みもすぐに忘れてしまうらしく、だからきっとまた走るのだと思う。うん、あほだな。(もう断言)

そんなわけで、走り終わったらもう抜け殻のようになって足痛いわ眠いわだるいわでその後何も手につかなくなったけれど、でもまた走りたい、できれば10キロくらいはさらりと走れるようになりたい、と、思う。そんなさらりと走れるようになるとは到底思えないけれど。

1年後、10キロ走っただけでフルマラソン走ったみたいな顔してるよこの人、と、笑えるくらい、軽やかに走れるようになっていたい、なんかまたあほなんじゃないかと思いながらゼイゼイハアハア言ってそうな気もするけれど。

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とにかく本が好きらしいということがわかった話

好きな作家の本を時系列に読む

大学の時の恩師が、好きな作家の本は、時系列に全て読むと良い、その人の考えていることがなんとなくわかってくるから、というようなことを言っていて、「ほう、そんなものなのか。」と、その時はなんとなく思った。ただその先生が好きだった作家というのは松本清張で、私は松本清張の本を読んでもどうも感情移入できず(松本清張に憧れた宮部みゆきの本は、いくつか好きなものもあるのだけれど。特に「蒲生邸事件」は最高です。いずれまた。)やっぱり一人の作家のものを全部読むっていうのは厳ししいな、松本清張はこれ以上私には読めぬ。と、思ったのを覚えている。(ほんとすみません清張。)

でも村上春樹の本を読んでから、それが何だったかももはやさっぱり覚えていないのだけれど、よって最初は時系は全くもってデタラメだったと思うけど、とにかく村上春樹の本はいつの間にか全部読んでいて、そしていつだったか、時系列に全部読み直してみて、「あーこういうことか、先生の言ってたことは。」と、いうことがわかったような、気も、した。

それは村上春樹の考えていることがわかってくる、というわけでは全くないのだけれど、そこから私が得るものというか、感じるものというか、受け取るもの、が、少しずつクリアになってくるような感覚が、あったのです。ものすごく抽象的で分かりづらいのだけれど。それは確実に、私をなんだろう、勇気付けてくれたし、とにかく色々なことが「わかる」ようになるまでに時間がかかる私に、少なからずの軸のようなものを与えてくれたような気がしています。

読んだ物語が自分の軸を形作ってゆく

私はあまり人を「尊敬する」ということがなくて(ほんとすみません)、というか尊敬ってなんだ、よく分からないとか思ってしまう節があって(ほんとすみません)、そして大きな決断ほど人の忠告を無視するという大変困った性質を持つわけですが(ほんとに自分でもめんどくさいと思ってますほんとすみません)、自分なりになんとなくいつも軸というか、大切にしたいもののようなものは抱えていて(それが多分頑固だと言われる所以なのだけれどほんとすみません)、その軸はおそらく、人というよりは本からの影響がものすごく大きいように感じています。そしてその多くは、たぶん村上春樹の本なのだろうなあと、やっぱり思う。こっぱずかしいといえばそうなのだけれど、でもやっぱり、そう思う。

それは例えば、全然野球に興味がなかったくせに、息子が興味を持ち始めて野球を見始めてルールもわからないけれども神宮で飲んだビールがものすごく美味しかったからそうだヤクルトファンになろうと思ったことに村上春樹が影響しているとか、ハワイで急に走りたいなと思いついて走り始めて結局今も定期的に走っていることに村上春樹が影響しているとか、何事もすぐ「やれやれ」と口にしてしまうことに村上春樹が影響しているとか(嘘やけど)、そういう具体的なことではなくて(いやたぶん・・・いやそれもそうなのだけれど・・・)でも村上春樹のたくさんの物語を読んで、そこから受け取った何かを、なんだろう、なんというか自分の旗印にしているようなところが、あるような気がしています。それはあくまでも「何か」やから、具体的にどうといったものではないのだけれど。

それがまず一つ、私が影響を受けたこと。というかほぼこれがものすごく大きな影響そのもの。

もう一つ、読書体験の変化

もう一つ、村上春樹の小説を読むようになってから大きく変わったことは、とにかく古い外国の本を読むようになったこと。いやもちろん翻訳ですが・・・。それは私にとって大きな読書体験の変化です。たぶん『ノルウェイの森』に出てくる永沢さんの影響がでかいんじゃないかと思うんやけど・・・いやだめだあんなヤツに影響を受けては・・・。

でも、これはかなり自分の中で大きかったことだと思う。なんというか、正直に言って、村上春樹の本を読むようになってから、日本の小説に、どこか物足りなさのようなものを感じてしまう時期があった。今はもうそんなことはないのだけれど、一時期それが本当に強くて、あまり本を読めなくなってしまったというか、読む意欲を削がれてしまったというか、なんか斜に構えてしまって、その頃何を読んでたのかなあ、家に残っている、数少ない「何度も読み返したい本」を、ちまちまめくっていたような気がする。あとは古本屋で見つけた三島由紀夫だとか川端康成とか、その頃の本をめくっては「暗すぎる。」と、言っていたような気がする。(でも三島由紀夫は『金閣寺』が、そして川端康成は『古都』が最高傑作です。特に『古都』は何度読み返しても面白い。なかなかあんな本はないと思う。)あと、源氏物語。だめだ、完全におかしくなっている。

でもそのあと、外国の小説、特にサリンジャーの本に出会って、それからはまた読むことや、新しい本に出会う楽しみがぐんと増えた。それは本当に私にとって大きな読書体験の変化で、それからまた読みたい本がどんどん出てきた。「読みやすい最近の日本の本」も、それはそれで楽しめるようになった。重めの外国の本と、軽めの日本の本を、交互に読むというのが結構良いバランスだなと気づいて、最近はまた日本の本も読むようになってきた。

「良い本」を手にしていたい

ただ、今ようやく思うのだけれど、やっぱり、がむしゃらに手当たり次第その辺の本を読む、という時期は、過ぎたのだなあという気がしている。それはやっぱり、中学生や高校生や、大学生の、あの時間が有り余っていた頃の特権だったのだと思う。やっぱり、「良い本」というのが、それは自分の価値観を超えて存在するというのが実感だし、そして今はやっぱりもう、「良い本」だけを読んでいたいと、そう思ってしまう。もちろん好き嫌いはあるし、好みもあるし、例えば私はどうしても太宰治が苦手だし(又吉さんごめんなさい)、そういうのはあるにしても、でもなんだろう、本を手にする時、そこはやっぱり自分の信頼できる何か、人だったり物語だったり、本そのものだったり、あとは場所(本屋さんだったり、好きな本棚がある喫茶店だったり、旅館だったり)だったりなんだったりのそういう力を借りて、選びたいと思う。それは私の中ではamazonのおすすめとはちょっと違う。データに紐付けされたものというよりは、自分で選んだもの、自分が信頼出来るものを通じて広がっていく世界のような気がしている。

文章の持つ影響というのは思った以上に大きいと思っていて、あまりに良くない文章(それはあまりに信ぴょう性に欠けているものだったり、必要以上に何かや誰かを批判でなく「攻撃」しているものだったり、まあいろいろな形があるけれど。そして例えばそれは物語の中の「攻撃性」や「暴力性」とはまた別のものなのだけれど。)というのは、必要以上に人の心を消耗させて知らず知らずのうちに傷つけてしまったりもすると思う。

まあそんな中でこんな駄文を読んでいただくのは本当に心苦しい限りですがすみませんとしか言えないわけですが・・・。いやすみません・・・。

それは本当にすみませんなのですが、とにかく、やっぱり本を読むからには、「良い本」を手にしていたい。そう思うと、最初の読書体験のきっかけとして、母の本棚からスタートしたのは、今となっては良かったのかなあと思う。あの頃は影響が強すぎると思っていたけれど、結局離れて暮らしてみて、母の俗っぽいとことか、人間くさいとことか、弱いとことか、そういうところも知って、その上で、あの本棚は今も大好きだなあと、思うから。

そういったわけで、つらつらと本が好きだ、ということについて語ってみましたが、書いてみてわかったのだけれど私は本当に本が好きなのだな。。。これはもう恥ずかしいとかそういうことを言っている場合ではないなきっと・・・

なので、読んだ本についても、少しずつ書いていこうと思います。まずは『騎士団長殺し』を読み終わったらその時に。

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そろそろ好きな本について話しても良いような気もする

クラシックだけでは荷物が入りきらないことが多々あり、トートバッグがあると大変助かる。

「読書が好き」というのがなんとなく恥ずかしい

この前、とても嬉しいことにブログを読んで下さった方からメッセージをいただき(ありがとうございます!)、読んだ本のこととかも知りたいです、と言っていただきました。

昔から、本を読むことが好きで、多分飽きっぽい私が一貫して好きなことは読書と洋服だけのような気がするのですが、なんでだろう、昔から「読書が好き」と言うのがものすごく恥ずかしかった。

思えば小・中学校時代、まあ田舎のヤンキーだらけの小・中学校(小学生はヤンキーにはならないか。中学生かあれは。)に通っておりまして、「勉強をする=超絶ダサい。」みたいな価値観の中で育ちました。いやもう本当にあの頃はそれが世の中の真理だと思っていた。それが全てと信じて疑わなかった。あほだ。

そういう価値観の中でですね、「本を読む」なんていう行為は、ださい中のださいだったのです。多分。あんま覚えてないけど。

いやそれが今も影響しているかというとまあそんなことはないだろうと思うのですが、(なんせ高校へ入ったら、周りに「勉強のできるギャル」が山ほどいてびびって価値観がころっとひっくり返ったから)ただ、なんだろう「本を読む」ことについて語るとなると今でもなんだかこっぱずかしいという思いがあるのも事実。

本が好きとは言っても作家や編集者のように山ほど読んでいるわけではないし、新刊はくまなくチェック、というわけでもないし、洋服のブランドに詳しくないのと同じで、作家に詳しいわけでもまったくない。多分私の読書はものすごく偏っている、と、思う。だから、「読書体験を語るに足らない」、と、どこかで思っているというのもある。誰も私の読書体験に何も興味はなかろう、と思っているような。読書というのはどこまでも個人的な体験だから、それを共有する場は特になくていい、と、多分ずっと思いながら本を読んできたという面もある、気がする。

なにより、読んだ本について語ること、自分の本棚をさらけ出すことというのは、なんだか自分の中身を全部見せるような気がして、人間性までさらけ出すような気がして、どうもムズムズしてしまうというのも、大きかったと思う。とは言ってもつい、自分の思いや考えが本に書かれていると、「そうそうそういうこと!」と、つい引用してしまうのですけどね。自分の言葉では言わないくせに、本で書かれていることで自分を表現するってちょっとずるいなと自分でも思いながら、ついお借りしてしまう。やっぱり、「これは自分のことが書かれている」と感情移入する時ほど、読んでて楽しいものはないというのもあるのかなあ。

とにかくつらつらと言い訳を並べましたが、読んだ本の感想とかをあまり長々と語ることはなく、人ともあまり話すことはそんなに多くなかったと思います。

そして「村上春樹が好き」というのもなんとなく恥ずかしい

 

でも30歳もだいぶんと過ぎて、人並みに、よりはほんの少しだけ多く、本を読んできたような気がしていて、そしてやっぱり、今の自分を形作っているというか、少なからず影響を与えているのは「本を読む」ことそれ自体なような気がして、今なら、本を読むことについて、読んだ本について、なんとなく思うことを記しておくのもいいのかな、と思うようになりました。

これから、読んだ本、面白かった本、自分に影響を与えた本、などなど、記していけたらいいなと思いますが。その前に自分にとって本を読むことについて、少し記しておきたいと思います。

「趣味は読書です」と、言うのと同じくらい恥ずかしいのが「好きな作家は村上春樹です」というこの一言。これはなんというかもう、あまりにメジャーになりすぎてこっぱずかしいというか。自分が好きだった地下アイドル(が何かはよくわからへんけど)が一気に人気が出てメジャーになって、ファンですというのがはばかられるような。(いや全然違う気もするけど・・・)なんだかメジャーすぎて恥ずかしいというのは、私がいかにあまのじゃくかということにつきますが、でもやっぱりこれは避けては通れないことなのだ、やはり。

村上春樹の本を最初に読んだのはもういつだったかも覚えていないのだけれど、高校生の時だったか、大学生だったか、それまでは主に母が読んだ本に大きく影響を受けまくっていた自分にとって、初めて自分で選んで読んだ本だったかもしれない。いやもちろん、図書館で借りて読んだ本とか、そういう意味で自分で選んだ本というのはあったのだけれど、なんというか、家を出て一人暮らしをするまで、自分の価値判断において母の価値観というのがすごく大きくて、あまりに大きくて、母が「いい」といったものが、とにかく「いい」ものだ、と、心のどこかで思っていて。

だから、本にしても、母が「いい」といった本が、「いい」本なのだと、どこかで思っていた。よしもとばななも、小川洋子も、まあ夏目漱石や森鴎外も、アンネの日記も、ミステリーで言えば宮部みゆきも綾辻行人も、まあとにかく家にある本を片っ端から読んでいたと思う、中学生や高校生の途中までは。でも村上春樹はそうじゃなくて、でもどんな経緯で読んだのかさっぱり覚えてないけれど、とにかく自分で選んだ本だった。家にはなかったと思う、多分。

今になっては母の影響が大きかったというのも、それはそれで良かったなあと思うのだけれど(「いい」本であることに変わりはなかったし)思春期の私は、このままじゃいかん、と、思っていて、そんでそれなりに反抗期も経て、結局東京の大学に進むことになる。東京へ出た理由はまあ色々とあって(失恋したとか、うん。)一言では言えませんが、でも自分の価値観でものを選びたい、というのもすごく大きかったのだと思う。そしてその「もの」には、少なからず本も含まれていたと思う。自分で、自分の感覚で、本を選びたい、と、思っていた。

そして、きちんと自分で選んだ本が、結局そのあと、自分にとってかなり大きな影響を与え続けているような気がします。今、こうして振り返るまで気づきもしなかったけれど、多分私が思っていた以上にその影響は大きかった。

ものすごく長くなるので、続きはまた明日。(たぶん)

なんせ最近夜更かししすぎて風邪をひきやすくなってしもうた・・・。規則正しい生活は村上春樹の基本であります(なにそれ)

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プレミアムフライデーに思う

プレミアムフライデーじゃなくてチューズデイを選んでもいい

花金です。プレミアムなフライデーです。何をしていたかというと残業です。

もちろん写真は関係ありません。ハワイのターゲットで買ったパーティーグッズたち。こういうのはアメリカならではで楽しい。

まあそんなわけでプレミアムなフライデーです。月末の最終金曜日、15時に帰ろうというあれです。会社のアシスタントさんによると、箱根に向かう特急がめっちゃ混んでたらしい、今日。何事かと思えばプレミアムフライデー!と、いうわけです。

早く帰ろう!と、いう取り組みというか、意識付けはまあ素晴らしいものだと思う。例えば新入社員の子たちに堂々と今日は帰って!と、言うとなんだかんだ喜んでくれるんじゃないかと思う。私が新入社員なら喜ぶ、きっと。そう思うのだけれど。思うのだけれど。

例えば私が今日、「15時に帰って!」と、もし言われていたとしたら、いやそれはちょっと困る。と、思ったはず。でもこれが今週の火曜日であったなら、ありがとうございます失礼しっまーーーす。と、帰ったと思う。と、いうか実際に子供関連の所用がありそれより早い時間に早退したそういえば。まあそれもあって仕事がちょっとたまっていて、今日は15時に帰るのはちょっと厳しかった。ちょっとやけど。もし無理に帰らされていたら、月曜日にちょっと泣くことになっていたと思う。ちょっとやけど。もしくは家でちょっとやることになっていたかも、とも思う。ちょっとやけど。

決して決して、「15時なんかに仕事が終わるわけがない。もっと働く時間が必要だ。」と、言っているわけでは全くもって全然ない。自分の仕事に関して、というか、私の働き方の中では、15時に帰れる日だって、月に一回くらいであれば、余裕で存在する。

ただその早く帰る日は、自分で決められるといいなと、思う。それは今週の私にとって今日じゃなくて火曜日だったのだよ、ということ。プレミアムチューズデイ。

「強制」が働かないと、帰れないという意識

一斉に今日は早く帰りましょう!と、いうくらいの強制がないと早く帰れない。と、いうのが多くの企業なのかなあと思う。「多くの企業だ」と、いうか、そういう考えを持っている人が大半だから、多くの企業でそういう考えが幅を利かせているのだろう、というか。

で、みんな、「とは言ってもそんな一斉になんて帰れませんよね、帰ったらこの会社の仕事は成り立ちませんよー。」と言っている。いろんな会社でもう結構何度も聞きいた。まあ、本当にそうだと思う。けどそうは言っても、実際のところ、本当に早く帰れるのであればうれしいな、と、思う人だって少なからずいるんじゃないかと思う。本音では。「この会社の仕事は成り立ちませんよー」と、いう人たちも含めて。

それはやっぱり、「強制的に帰らされるのであれば(いやいやを装いながら)早く帰ることができる。結構うれしい。」からなんじゃないかなと、思ったりする。

でも本当は、そんなのよりも、「自分で決めて自分の好きな日に何も気にせずさっさと帰る」方が良いに決まっている、と、思う。そしてその方がずっと自然じゃないかと思う。

意識付けを制度から強制的にやっていくというのも、「働き方改革」の一つなのだろうとは思う。本気で心から「月に1回でも15時なんかに退社したら仕事が成り立たない。世界は滅亡する。」と、思っている人ももしかしたら世の中に存在するのかもしれない。私はにわかには信じられないけれど。そういう人たちが、強制的に「15時に帰らされる」ことで、「あ、意外と15時に帰っても仕事って回るんだな。世界の終わりは来ないな。」と、気づくことができれば、それはそれで一つの成果なのかもしれない。いやほんとにそんなことに今更気づく人がいるのかはわからないけれど。

例えば水道局の人が一斉に今日は15時で帰ります、断水します、トラブルにも対応できません。と、なるとそれはやっぱりちょっと困る。なんとかならなくもない気はしなくもないけれど、やっぱりちょっとそれは困る。ただ、「一斉に帰ります」と言われると困るにしても、それぞれの人がそれぞれの仕事の範囲で、「今日はこの時間まで働こう。」「今日はちょっと頑張ってここまでは仕上げてしまおう」「今日はさっさと早く帰ろう」と決める分には、困る人はでてこないはずだと思う。組織というものは、そういう個々の働き方に、臨機応変に対応出来るようにできているもののはずだから。

ゴジラだって眠るし巨災対だって休む

金曜日に早く帰りたい人もいれば、火曜日に早く帰りたい人もいる。そして早く帰ること自体は、決してできないことじゃない。月に1回程度、誰かが15時に帰ったところで、世界が滅亡することは絶対にありえない。ゴジラだってあんなに眠ったし。その間巨災対の人だって休んでたし。

それを、みんなが認めて自然に受け入れて、自分が決めた範囲で、「今日は早く帰りまーす。」と、何も気にせず言えればいいなと思います。そういう雰囲気さえあれば、逆に言えば、本気で今日はやりたくて残業しているという人に対して無理に帰らせる!という必要だってなくなる。だってその人は、自分で決めて、明日はさっさと15時に帰ることだってできるから。

でも今は、そんなことは全然できない雰囲気のところが、ものすごおおおおおく、多いのだと思う。「帰りたい時にも帰れない」から、「強制的に帰らせる」必要があるのだ。でもこれは、なんか不自然だなあと思う。

そして「好きな時に早く帰れない雰囲気」を、自分のいる組織が出しているとして、その「雰囲気」を作り出すのは自分でもある、ということを、私も含めてちゃんと自覚しなきゃなと思う。自分も含めた組織なのだから。

他人を変えることはまずできない。変えられるのは自分しかない。自分の属する組織の雰囲気が嫌だな、辛いな、と、思った時、自分にできることは、その雰囲気を全力で無視すること。「好きな時に早く帰れない雰囲気」があるなら、そんなものはさっぱり無視してなんなら気づかないフリをして、堂々と早く帰ること。もしかしたら自分のそんな行動が、組織の雰囲気を変えてしまうかもしれないし、実は全く変わっていなかったとしてもなんか変わった気がすると勝手に思い込むことができるかもしれないし、いずれにしてもそれは自分にとってはそこそこ良いことだと思う。まず間違いなく身体を壊してしまうよりは、ましてや命を落としてしまうよりは、空気を読めない方がずっといい。

だいたい、「自分で決めて自分の好きな日に何も気にせずさっさと帰る」ことが本当に嫌な人なんて世の中にいるのかな。私にはそうは思えない。好きな時に好きなだけ働き、早く帰れるときはさっさと帰る。それが「絶対に嫌だ!」と、思う理由は、私には思い浮かばない。

だからまあ、プレミアムなフライデーもいいけれど、個々人がプレミアムなマンデーやチューズデーやウェンズデーやサースデーを何にも気にせず選べるといいな、と、思います。

今日はプレミアムフライデーだしなーみたいな感じで、ちょっと気をゆるっと持つとか、なんかまあ肩の力を抜くとか、それくらいのユルさを持つ日、みたいな感じはいいかもしれない。あーこの仕事終わらないなーまいっかープレミアムフライデーだし。納期遅れるなーまいっかープレミアムフライデーだし。電車遅れてるなーまいっかープレミアムフライデーだし。今日の晩御飯はサイゼリヤだなーまいっかープレミアムフライデーだし。みたいな。世の中全部がゆるーい日、というのはなんかそれはそれで楽しそうだ。

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子育ても仕事も楽しんでいいと思うという話。

進学準備がいろいろあり、今日は仕事を休んで息子とお出かけ。

子育てには波がある

銀座の高級クレープを初めて食べた。季節のクレープ。いちごのわらび餅とか入ってて大変美味しかった。なんか子供たちのどちらか一人とお出かけすると、妙に心が広くなり、高級アイスとか高級クレープとかつい二人で分けっこして食べがちになる。なぜ。夫と二人ならまず食べないというのに。なぜ。

それにしても、もうすぐ1年生だなんて信じられない。ついこの前生まれてきたばかりだと思っていたのに。ついこの前、保育園に預ける不安と戦ったばかりだと思っていたのに。生まれてきた時は、この子が小学生になるだなんて思いもしなかったのに。ずっと赤ちゃんでいるのかと思っていたのに。

こないだ保護者会があって、友達(ママ)が、「子育てって波があるなーとよく思っていて、最近すごく子供が落ち着いているな、自分も穏やかだなっていう時期と、ものすごく手がかかるな、自分もいっぱいいっぱいだなっていう時期が交互にくる。」と、言っていた。

それものすごくよく分かる。よく「反抗期」というけれど、とりあえずこのたった6年の間にも、何度も何度も波のように反抗期が訪れている気がする。「あーすんごいかわいいすんごい素直」という時期と、「何だうちの子めっちゃ不安定やなすぐ怒ってるな」っていう時期が、結構短いスパンで、1か月とか下手すると数週間単位で繰り返されながらここまで来た気がする。

ちなみに今は「ちょっと落ち着いてる期」のような気がしてるけど、つい先週くらいまでは「すぐ怒る不安定期」であったような気がする。

つい最近までは、この子供の一喜一憂というか、主に「憂」のところに自分も引っ張られて、相手が泣いてようが起こっていようがとにかくついイライラしていたのですが。いや、今だって泣いてると「泣くなもう。」と、心から思ったりしますが。いやもう母親だってそんな女神様じゃないのでイライラとかします、余裕で。

ただちょっと、その相手の感情に引っ張られて、こちらも感情的になるのを、ぐっとこらえられるようになってきた・・・ような・・・気が・・・少しだけしている。少しだけ。

とにかく鼻歌を歌ってスルーする

こらえると言っても、優しく諭すとかそんな女神様のようなことは当然できないのだけれど、思いっきりスルーすることにした。もう。ものっっっっすごい華麗なスルーを。

具体的には、子供が怒り狂っていようが泣きわめいていようが、こちらは鼻歌を歌うことにした。完全なるスルーである。

子供が怒り狂いながら泣き喚きながら文句を言ってきた際は、鼻歌交じりに返事をする。もう完全にやなやつな気はするけれども、鼻歌歌ってるとまあ向こうのペースに飲み込まれることはない。やはりペースに飲み込まれると負けである、何事も。何と戦ってるのかわからへんけど。そして何より、何となく母さんだけは楽しそうである。

そうやっていて気付いたことは、子供の切り替えっていうのは思った以上に早いのだなあということ。子供のイライラに、こちらもイライラで返すと、子供のイライラも長引いてしまうけれど、こっちが鼻歌歌ってると結構あっさり「ごめんね・・・」とか言ってくる。かわいいやつめ。もしくは怒ってたことを忘れて遊び始める。

これは兄妹喧嘩の時も同じで。二人のやりとりについイライラして口を挟みたくなるのだけれど、挟むと結構こじれませんか子供の喧嘩って。「大人として」ここはちゃんと言っておいた方が・・・とか思ったりもしていたけれど、まあ子供の喧嘩に「大人として」言えることなんて正直ほとんどない。

で、私が最近していることというと、鼻歌を歌うことである。もはや世の中のあらゆることは鼻歌で解決できるのではなかろうか。「もーいもーとちゃんやだ!!ぐわああん!!」「かーしーてー!っていったもん!!ぎゃーーーー!!」「・・・♪きみの中ーにあるーもーのーーー♪」「ママ聞いてよいもーとちゃんがあああ!!」「ちがうよむすこくんがあああ!!!」「♪きょりのなかーーーにあるーーーこーーーどーーうーー♪」「ママ聞いてる!!!!???」「ママ!!!!」「トゥ〜ルル〜(徹子の部屋)」

といった具合である。何も解決していない。

大人のしての責務は一切果たしていないが、子供達は呆れ果てて何となく喧嘩もやめる。ついでにちょっと私がふざけると笑ってしまったりする。笑ってしまったことに自分でキレてたりするけどそれこそ放っておく。

子育ても仕事も楽しくたっていいじゃないか。

大好きな先輩が昔、ダメッダメであった若き頃の私をよくかばってくれていて、何であんなことできたんですかって最近になって聞くと、「だって仕事は楽しくできた方がいいでしょ。」と、言っていた。いやほんと、そうだ、その通りだ。

どこかで「仕事ってしんどいものだ」という思いがあって、苦労とかしんどい思いとか、しなきゃいけないみたいになんかどこかでつい思いがちだったのだけれど、そんなことなくて、仕事だって楽しい方がいいに決まっている。「楽しい」と「楽(ラク)」は違うというだけで、楽しいことは良いパフォーマンスにつながるはずだ。

それはきっと、子育てだって同じ。家族を運営することだって同じ。楽しく過ごすことに越したことはない。「しつけ」しなきゃとか「大人として」きちんとしなきゃとか、どこかでつい思っていたけれど、子供達だってきっと、窮屈な雰囲気の中よりも、楽しい中での方が、できることも増えていくと思う。学ぶものも得るものも、楽しい方が結局は多いだろうと思う。

「子育てってしんどいものだ。」「苦労がつきものだ。」という思いは、何となく抱きがちなんじゃないかなあと思う。「仕事はしんどいものだ。仕事には苦労がつきものだ。」というのと同じで。でも、ほんとはそんなことないのかもしれない。別に仕事だって子育てだって、楽しくできればそれが一番だ。楽しんで悪いことなんてない。そんなこと言ったってしんどいものだ、と、言いたい気持ちはわかるけれど、そんな時は鼻歌歌ってしまばいい。放っておいたってもちろん、仕事も子育てもしんどいことというか大変なことは当然あるけれど、でも「苦労しなきゃいけない」わけじゃない。基本は、楽しんでやろう、というスタンスでいいはず。

だから、私は鼻歌歌って生きていきたいと思う。周りの人が、何と思おうと、お気楽でいいなあと言われようと、もっと苦労しなよと思われようと、しなくていい苦労なんてわざわざ買わないし、鼻歌で解決できることは鼻歌で乗り越えちゃいたい。「楽しむ」ことに、そしてしあわせになることに、恐れを持つ必要は全然ないんだ。

・・・と、4月からのあらゆる新生活に大きな不安を抱える自分に言い聞かせる2月末。トゥ〜ルル〜(徹子の部屋)

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春物スイッチと、こだわりのバランス

予想通り、届いた春物第一弾が最高にかわいくて、予想通り、あれこれ欲しくなる、春。

nowos というブランドがとにかくかわいいという話。

nowos というブランドがとにかくどれもこれもかわいくて、久々にわくわくしております。あれもこれも着られるわけではないし、洋服を選ぶという時間も限られているから、だんだんお洋服を買うブランドというのは限られてくるのだけれど、それでもたまに(というか定期的に)これはかわいい!と、いうブランドに出会えるととてもうれしい。洋服が好きでよかったーと、思う瞬間。

と、いうわけで、これに合う色々が欲しくなる今日この頃です。予想はしていたけれども→(春物第一弾と、誰かの「無駄」に寛容であること。)やっぱり一つ買うと勢いがつく。つきますね。はい。

このブランド、なんせおしゃれ欲・・・というか女子力がいちいち低下していた自分がお店に向かわず通販すべく問い合わせしたわけですが、すぐに丁寧なメールを返信してくれて、結果とても良い気持ちでお買い物ができた。

店舗でなくても、顧客満足(自分で顧客とか言ってますけど)を上げてくことはできるのかもしれない、と思った出来事でした。大事だよね、体験っていうのは。

そしてこのカーディガンを着て、ふらっと寄ったロンハーマンで見つけたパープルのスカートがものすごくかわいくて、あれよあれよという間に春物第二弾・・・。あれれ・・・。あと、HYKEのプリーツスカートもスエットパンツもかわいかった。HYKEは毎シーズンのカラーがすごくかわいいなあと個人的に思う。今年はベージュがかわいい。まあ私は万年ベージュが好きなんですけども。。。

好きなブランドが限られていくということについて。

それにしても、「好きなものが限られていく」というのは、洋服に限らず最近顕著な気がするなあ、と、思う。

若い時は、と言っても10代とか20代前半は、洋服にしたっていろんなブランドのいろんなアイテムが気になった。学校が休みのたびにお気に入りのお店を何件も巡っては、あれこれ見て楽しんだ。だけど、歳を重ねるにつれ、お気に入りのブランドはある程度限られてきたなあと思う。

例えばシーズン始めに必ず見るな、というブランドは、私の場合2つとか3つくらいに限られる。前はもっと色々と見て回った気がするのだけれど、なんかまあ体力も気力も無くなってきたかもしれないのですが・・笑

でもそれだけじゃなくて、やっぱりなんというのだろう、時間には限りがあって、物事には限界があるということを、つくづく知ってきたからなのかもしれない。

髪を切る日の自由について

例えば、数ヶ月前に髪を切った時のこと。

普段の私ときたら美容院に行くのは半年に一回ペースというありえない状態だったわけですが、私がそのペースを崩すときそれはつまり急に「短くしたい!」と、思ったときです。

髪というのは切りたいと思いついてしまったらもう最後、もういてもたってもいられないくらい切りたくなるものなのですそれはもう昔から決まっていることなので仕方ない。

しかし、切りたい!と、思い立った日に担当の美容師さんがお休みだとな。がびーん。

でも、その時の私は安心できた担当さんにお願いすることよりも、とにかく今切りたい気持ち、が勝ちまして、担当お任せで予約を取りました。大丈夫かなーという不安を抱えたまま、美容院へ。せめて今まで切ってもらっていた人と同じく女性で、くらいは希望を伝えればよかったかなーとか思いながら。

ところが再び新しく紹介してもらったのは、おそらく私と同い年くらいの男性。

なんせこの美容院に通い始めた頃、スタイリストの美容師さんというのは田舎から出てきたばかりの私よりもずいぶん年上で、アシスタントの人たちだって私よりも年上か一番若くて同い年、とかだったわけです。

それがもう美容師さんが同い年になるとは。。。美容師さんというのは歳上だ、と思い込んでいた私としてはちょっと不安。。。とか思いつつ、切り始めてもらうことに。

ところがですね。その美容師さんもまた、こちらの意図をものすごく読んでくれて、大変満足いく感じに仕上げてくれました。いつもその美容院に行く時、こういう感じで、という写真とかは持っていかないわけです、私。なぜならめんどくさいから(出た)。

で、切りたいんですーとか、色をちょっと抑えたいんですー。とか、パーマかけまーすとか、多分もうすぐ赤子が生まれてきそうな気配なんでしばらくこられませーん楽な感じでお願いしまーすとか、もうざっくりなのもいいところなくらいざっくりなオーダーをする。

でもそれでこの10年間、あ、そうそうこんな感じ、という仕上がりにしてもらってきた。そして、今回は担当の方を指名せずお任せしてみたけれど、嫌な思いはまったくしなかった。そして私は、あ、いいな、この感じは。と、思ったのです。なんかすごく、気が楽になった。なんでかなーと、考えてみたのですが。

もし私が、担当していただいた美容師さんに絶対にお願いしたい、というこだわりを持っていたら、どうしてもこの日に切りたい!と、思った日に切ることができなかったわけです。髪というのは切りたいと思った時が切りどきなのに。(誰が言ったかは知らんけど)

こだわりのバランス

結局こだわりというのは見方を変えれば何かに縛られるということ。人生において「自由であること」をかなり上位の重要事項として掲げている私としては、やっぱり何かに縛られるという状態は心地よいものではないのだと思います。それは髪を切る日、一つにしても。

だから私の中では、美容師さんに関しては柔軟に考えて大丈夫だなと。縛られる必要はそんなにはないなと。私の場合、そこまでこだわりすぎることはない。

一方でこだわりのない人生は味気ない。尊敬するダライ・ラマは、何のこだわりも持つことがないよう、そこから生まれる不自由さに振り回されないよう、そのために家族を持たないといったわけだけれども、私は家族という縛りや子育てというある種の不自由さは、そこから生まれる新しいものの見方や世界があると思うからもちろん否定しない。私にはそれはすごく大切なもの。

そして、こだわること、の楽しさももちろんあって、私の場合はやっぱり洋服が多分それなりに、いや結構、好きらしいので、ここはそれなりにこだわったり色々探したり考えたりする。譲れないもの。時間とお金をかけたいもの。

他にもたとえば、本と漫画なら本が好き。とか、本と映画なら本が好き。とか。もちろんこれはあくまでも、自分の場合だけれど、好きなものや、時間をかけたいものの優先順位がある。

そしてこだわりの中でも、多分範囲はある程度狭められていく。人生の何もかもにこだわっていては時間も気持ちの余裕的にも足りない。若ければいいけれど、家族がいて仕事もしていてという状態では、何もかも、というわけにはいかない。だから、自分なりのこだわりのバランスを見極めることが大切なのかなーと、思ったりした。結局譲れないものがどこにあるか。人生と時間には限りがあるから。

それがきっと年々ある程度、絞られてきたのだろうなあ。それはもしかすると、心地よく人生を過ごすための、小さなヒントになるのかもしれない、と、思う。そしてそのバランスを見極めていくことは、結構楽しいことなのかもなあとか、思う、春の始まり。今年の春夏も、こだわったり自由でいたり、楽しんでゆきたいな、と、思うのです。

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ランカウイ旅行記2016(!)ーホテル編

思うところあり、今年はできるだけたくさん文章を書いていこうと思っているわけですが、書こうと思っては挫折した文章が結構残っておりましてですね。。。

みなさん知っていますか。私がランカウイに行っていたことを。ええ、去年の3月のことですけどね。。約1年前・・・

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1年前の旅行記を何食わぬ顔で書こうという結構な暴挙

その時の旅行記の続きを書こうと思っていたのだけれど、途中で止まっておりまして、記事は「下書き」にぽつねんと取り残されたままでありまして、それを今更取り出して何食わぬ顔で続きを書こうというのが今回の趣旨です。なんてやつだ。そんなこと仕事でやったら殺される。しかしこれは私のブログなので何食わぬ顔で続けます。ただ、覚えておいていただきたいのはこれが約1年前の出来事であることです。

村上春樹は旅行記を書くコツを、「とにかく何でも詳細にメモを取ることだ。人は驚くほど忘れていく生き物だから」的なことをどこかで言っていたのですが(例にもれずうろ覚えですもちろん。)子連れ旅になってからほんと記録的なことをする余裕がさっぱりなくてどんどん忘れてゆくわけですもう。だから書けない、ほんともう。

いや、まあ、子連れ旅になってからとか言ってますけどまあそうなる前から病的に忘れっぽい性格であることはわかっていますはいすみません。

そんなわけでランカウイ旅行のことなんてほんと記憶の欠片くらいしか残っていないのですが、その欠片だけでもどうにか残しておこうと思います、もう1年近く前の旅行ですけどはい。

旅行記を書くといった割にはホテルからほぼ1歩も出ていないという事実

そんなわけで相変わらずものすごく田舎で何もなかったランカウイ。やることがないので毎日毎日ホテルから出ずにプールでだらだらと過ごした。1年前ですけど。

泊まったホテルはこちら。タンジュンルー。

ホテルにも人が少なくて、プールに行けばだいたいみんな顔見知り、みたいな状態になっていてなんかもう最高に居心地がよかった。ああ今すぐ戻りたい。なんせお盆開けてから微妙に仕事が忙しい。(と、これは半年前に書いていた。そしてその微妙な忙しさは結局年末まで続くということをその時の私は知らない。)

アジアの島の人たちっていうのは本当に無条件に子供を可愛がってくれるので、娘と息子のことをすぐに覚えてくれて、名前で呼んでくれて、子供達もそれがとっても嬉しかったみたいで、何をするにも「サンキュー!」「ユアウェルカム!」といいいまくっていた。

そのおかげで、3歳のむすめは今もランカウイのことを「さんきゅーゆあうぇるかむのとこ」と呼びます。かわいい。(親バカ)

こんな引きこもりにとって素晴らしい制度だったのが、人生で初めて体験したオールインクルーシブ。

お酒は対象外なのですが、それ以外のフードやドリンクは全て飲み放題食べ放題という。最高。

1年前に食べたものを写真から振り返る

レストランのお食事はもちろん、プールサイドで飲むドリンクやピザなどの軽食、ルームサービスや、ライブラリーのようなところがあってそこで飲むコーヒーやスムージーもインクルーシブ!いっつストレスフリー!

こういうちゃんとしたレストランのちゃんとしたお料理もインクルーシブ。そしてもちろん、1年前に食べたこれが何かはわからない。

オープンエアの気持ちいレストランだった気がする。多分。おそらく。きっと。一応ドレスコードのようなものがあったらしいのだけれど、そんなことつゆ知らずオットが思いっきり短パンにビーサンで行ったら「まあいいよいいよ。楽しんで行ってよ!」みたいなことを言われていた。そして結局毎日同じようなカッコでレストランへ行っていた。1年前ですけど。

こう言ってしまっては元も子もないけれど、やっぱり現地での滞在費というものはアジアの島々は格段に安い、と、思う。ハワイの物価ときたらいつの間にあんなに高くなってしまったのだろう。いや楽しんだ対価を旅行客としてお支払いするというのは当然のことなのだけれど、それにしてもお金というのは不思議だな、と、思う。同じ体験をしても国によって地域によって価値が違うというのはなんだか不思議な気がする。

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不思議な気がするけれども、そしてなんだか少しの罪悪感に近いものを感じなくもないのだけれど、でもとにかく滞在費が安い、というのはやっぱりありがたい。と、思う。そしてオールインクルーシブは素晴らしい。いやまあ、とりあえずそれに尽きる。

ライブラリーで飲むコーヒーもオールインクルーシブ。夜、子どもたちが寝静まってからここへ行って本を読むのが至福の時間。であったことを、今思い出した、1年ぶりに。

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夕暮れの空。これは世界共通美しい。1年経っても美しい。

やっぱりランカウイの素晴らしいところは何もないところ

こないだハワイから帰ってきたばかりだから思うというのもあるのだけれど、やっぱりランカウイはめちゃくちゃ田舎である。ハワイもワイキキを離れたら田舎だけれど、でもやっぱりワイキキがある。と、いうのは圧倒的に違うところ。

ほんとうに何もないのだ、ランカウイというところは。(ついでに言うと海もそんなにきれいなわけではなくそこはハワイの方がずっときれい。)

何もないのだけれど、何もないから、やることがなくてずっとぼーーーーっと過ごすしか無くなる。あーさっきエルメスで見たバッグやっぱかわいいな明日にはもうなくなってるよなはあ・・・みたいなことは、まあ考えなくて済む。なんせお買い物をするところもない。

何もないから、もう本を読むしかなくて、毎日毎日毎日プールサイドで本を読むしかなくなる。

でも、もうやることがほんとになくて、本読むしかない、というのは、まあ正直に言ってものぐさで怠惰な私にとっては最高の環境なのであーる。

強制的に、やることを取り上げる、くらいがいいのかもしれない。私は。ものぐさで怠惰なくせにすぐいろいろと考えるから。まあ「考えない」くせもだいぶついて来たとは思うけれど。それにしても「考える」のも「考えない」のも、他にやることを取り上げないとできないくらいに不器用なんだなやっぱり私は。いろいろなことを、あーそういうことだったのかと理解して、前に進むのに、多分効率的な人の10倍くらい軽くかかる。その不器用さがずっと歯がゆかったけれど、でもまあ、それが私なわけで、そういう自分であるからには、人の10倍くらいかけて色々知っていこう、と思う。それでまあいいか、と、思える時間が、きっとランカウイには流れている。まあ、1年前の話ですけど。

だからまたここに私は戻ってゆくな、と、思う。いろんな場所へ行きたい。いろんな世界を見たい。それは同時に、大切な場所、またここへ戻ってきたいなと思える場所が、増えていくということでもある。それは私にとっては、私の人生にとっては、ものすごく大切なことなのだ、たぶん。

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