はたらくこと

会社を辞めて、フリーになりました。(たぶん)

息子の卒園前くらいめっちゃ泣いたこの数ヶ月

毎日更新しようと決めたのが年末頃で、美しいまでに月一更新となっているこちらのブログ、ここのところ何をしていたかと言いますと、退職手続きと送別会に追われていました。何度となく泣きました。(送別会での暖かい言葉並びに個人事業主としての手続きの煩雑っぷりの恐ろしさに。)

12年前、新聞社の広告局という部署に就職が決まった。その時母に、「この会社の名刺があれば、いろんな人に会えるし、どんな仕事もできると思う。でもいつかその名刺がなくなった時、自分の名前で、仕事をしたいと思ってもらえるようなそういう仕事を、積み重ねていってね。」と、いうことを言われた。

それは決して、会社を辞めて欲しいとかそう言った意味ではなかったと思うのだけれど、私の中でその言葉はずっと残っていて、母がなくなった後も、ずっとどこかにあって、いつしかそれは私にとっては、会社を辞めてフリーランスとして仕事をしていきたい、という思いに繋がっていった。

その思いはたぶんもう数年前からずーーーーーーっとあって、ずっとあたためていて、それでも特に出産してからの仕事のバランスや、一緒に仕事をしてきた人たちが好きすぎて、心地良すぎて、なかなか決心がつかないところもあったのだけれど、なんとなく、もう、そろそろだなあと、春先に決意した。(それからが長かったけれど・・・会社を辞める、というのは大変だ。)

新聞社で12年弱働いてきて得たもの

新聞社に入る前は、「個人の力でできないことを、新聞社という大きな組織でやりたい。」と、思っていた。(志望動機でもそんなことを言っていた気がする。)でも、12年間働いてみて、なんかものすごく大きな仕事をやり遂げたとか、社会を動かすような何かをしたとか、そういったことがあったわけでは、決してない。いつも目の前の仕事を、その小さな仕事が終わる時に喜んでくれる人の顔を、そしてその先にある、この会社があることの意味を少しだけ、考えながら、やっていたにすぎない。

専業主婦だった母が、結婚して会社を辞めるとき、「よく社会の歯車という言葉は悪い意味で使われますが、私はこの会社の歯車になれたことが嬉しかったです。」と、挨拶をしたそうだ。

今その気持ちが、すごくよく分かる。

私が12年間やってきたのは、会社の小さな小さな歯車であることだ。でも、この会社の、いろんなことがあったけど、今となっては好きな人がたくさんいるこの会社の、小さな歯車になれたことが、とてもうれしいし、そのことを、今誇りに思う。

大きな会社で、いわゆる男社会で、日本的な会社で、社会人1年目の頃から戸惑うことばかりで、あーもうしんどいな、ここでやっていくのはなかなかに辛い。と、思ったことも死ぬほどあった。なんで私はここで働いてるんだろう、もっと緩やかに働ける場所はいくらでもあるんじゃないの、と幾度となく思った。

広告営業で毎晩毎晩残業どころかタクシー帰りの日々を送ったこと。ひっどいつわりに耐えながらお客さんのところへ行って、吐きながら残業したこと。おっきいお腹でもんのすごいトラブルを抱え、大人の事情が飛び交う打ち合わせを全てお腹の赤ちゃんに聞かせ、何たる胎教だ、この子は酸いも甘いも全部知った子になるな・・・とか思っていたこと。

生まれてきた赤子があまりにもかわいすぎて、そして産休前の仕事の記憶があまりにハードすぎて、こんなかわいい子どもを預けてまで私は仕事に戻るべきなのかと悩んだこと。

確かに辛かったことは考えてみれば山ほど思い浮かぶのだけれど、でもその何もかもを思い出すときに今は、それでも助けてくれた、支えてくれた人たちの顔も一緒に思い浮かぶ。

だって私がそれでも会社を辞めなかったのは、結婚しても出産してもずっと仕事を続けてきたのは、何があったって支えてくれた、助けてくれた人たちがいたからだ。そうじゃなければ、私はずっと昔に会社も、仕事も、働くことも辞めていたと思う。そしてその人たちと仕事を重ねながら、私は「自分で考えて仕事をすること」「自分で働き方を決めること」を学んでいった。「自分で」きちんと考え決めるよう意識するようになってから、仕事はぐんぐん楽しくなっていった。

私がこの会社で得た一番大きなものは、一生かけて付き合っていきたいと思える大好きな人たちと、そして「自分は仕事が好きなのだ」という気づきだ。

辛いことも山ほどあったけれど、私はやっぱり仕事が好きだったし、そして支えてくれる、一緒に働いてくれる人たちが大好きだった。人と人が繋がっていく瞬間を見るのが、すごく好きだった。

フリーになってやりたいこと。「書く」こと「伝える」こと。

私はそもそも非常に個人的な人間で、半径5メートルくらいの世界を生きている人間で、だからサラリーマンなんて絶対向いてないのに、それでも12年間も続けてこられたのは、この会社があまりにも寛大で素晴らしいところだったからにすぎない。そして私の周りにいる人たちが、全くもうムシ(わたしのこと)のてきとうっぷりときたら。。と言いながら、いつもいつもサポートしてくれていたからにすぎない。それくらい素晴らしい環境を卒業してでも、それでもわたしはやっぱり、自分で自分の働き方と人生を、自分で作っていきたいなあと、思った。なんともまあ、わがままな決断だけれど。

そして、私が大好きな場所を卒業して、それでもやりたかったことというのは、やっぱり「書く」ことなのだ。もし自分にこの先、何かできることがあるとしたら、どこかの誰かを少し、楽しませることが、心を軽くすることが、できるとすればそれは、やっぱり「書く」ことなのだと、思う。

コンテンツの値段がどんどん下がっていくこの時代に、私が「書く」ことでどんな「価値」を生み出せるのかはまだまだわからない。それでもきっとできることがあると、信じてやっていきたいなと、思う。それが自分にできること、というか、それくらいしか不器用な自分にはきっとできない。

「書く」こと、そして「伝える」こと。

誰かが書いたものをわかりやすく編集して「伝える」こと。たとえばSNSやオウンドメディアでの「伝え方」に悩む企業のお手伝いをすること。

そして、大好きな洋服のことや、子育てのこと、そして働き方や働くということについて、「書く」こと。

「書く」「伝える」ということにはまだまだたくさんの可能性というか、人の心を軽くする何か、があるように思う。

そう、私は、就職する時、新聞社という大きな組織で、人を、人の心を動かすようなことがしたい、と思っていた。でも12年経った今、私がやりたいことは、そんな大きなことではなくて、「人の心を少しでも軽くする」ことだ。

どんな形でもいい。私が、書いて、伝えることで、誰かの心を、もやもやしたものを抱えた、小さな痛みを抱えた、そんな誰かの心を、少しでも軽くすることができるなら。

個人の力に限界を感じて、大きな組織に入りたいと、「マス」のメディアで仕事がしたいと思ったのが、12年前。今、もう一度個人に立ち戻って、小さなところからコツコツと、積み重ねてゆきたいと思っています。

「書く」「伝える」。まだまだ個人でできることに限界はあるかもしれませんが、お手伝いできることがあればお気軽にお問い合わせフォームよりご連絡ください。私一人だけじゃなくても、こういったところならお力になれるかも、こういう人なら紹介できかも、などなど、できることがあるかもしれません。

新しい日々、新しい毎日、不安もたくさんだけれど、12年間のサラリーマン生活で学んだこと、仕事は楽しく!を、モットーに、また一から頑張ります。

↓お仕事募集中!!笑。

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「信頼されている」と、信頼すること

新年度が始まって数日が過ぎました。息子が小学校に入学し、むすめもまあなんだ・・・プリンセスの特訓にいそしみ(まあそれは普段通り)、私は出産前にいたバリバリ系部署に7年ぶりくらいに戻ることになりました。ひょえ。

新しい環境に身を置いて思うこと

「働き方改革」やら、「女性活躍」などなどが注目される昨今。自分の実感としても、確かに私が一人目を出産した後よりも、確実に「育休明け」の女性が増えていると感じます。わが社でもそうだし、取引先でもよく聞くし、何と言っても子供たちの保育園は年々入りづらくなっているようだし。(まったくもってなんとかしていただきたいところではありますが。)

そんな折、二人目の育休から復帰してもう3年ばかりたつ私にも、出産前にいたバリバリ系部署に戻って欲しいと辞令が出ました。曰く、そういった部署でも子育て中の女性が働ける環境を作っていって欲しいと。

それ私が作るのかい。と、思ったことはさておき、それはやはりなかなかの試練であるわけです。

業界的なものもあって、出産前の私ときたらまあもう今では考えられないくらい残業ばかりの毎日を送っていた。終電を逃してタクシー帰りなんてザラであった。で、それが別に珍しくもなんともなかった。それが原因で上司が咎められるとか、お国の指導が入るなんてまずなかった。そういう風潮だったのだ。いやはやなんとも。

そこに、超絶時短の私が戻るとは。さすがのノーテンキな私もこれは不安でしかない。と、思った。あの頃の働き方はもうできないし、それは今はやりたいことでもない。

そして新しい部署での仕事が始まってみると、まあ自分の無力なこと無力なこと。時間的な制限に加えて、そもそもその業界を担当するのも初めてだし、新しいことだらけでまったく使い物にならない、ように思える。この歳になってこれは結構きっついなあなどと思ったりする。そんな風に思うと、実際のところ、現場はみんな子育て中の女性なんていらないんじゃないか、会社の考えがあるからしぶしぶ引き受けただけで、本当はバリバリ働く男性か、未婚の女性だけで回したいんじゃないか、とか、ついつい考えてしまっていた。

目の前の人が考えていることは本当はわからない。なら信じちゃえばいい。

思い出してみれば、6年前かな、初めて育休から復職するときも、そういえば私は同じようなことを思っていた。まだ育休復帰の女性も会社にものすごく少なかった頃。時短で、子育て中の女性なんて、会社は制度としてクビにすることはできないだけで、全然ウェルカムじゃないんじゃないか、とか。そこまでして私はこの仕事を続けていきたいのか。子供を保育園に預けてまで、やるべきことなのか。とか。そんなことを考えていた。

だけど6年経ってみて、今思うこと。私は仕事を続けてきて本当に良かったし、今となってはすこーしは、それまでの部署でできることが増えて、必要とされているな、と、思えるようになってきた。けどそう思えるようになるには、きっと自分の中で考え方の工夫のようなものがあったのだ。それをもう一度思い出してみたら、なんだか随分と楽になった。

よく考えれば当たり前だけれど、「自分が信頼されている、必要とされている」というのは、正直実際のところはどうなのかわからない。時短で働く私のことを、周りの人が疎ましく思っていたとしても、私にはそれはわからない。そりゃまあいろんな人がいるから、面と向かってたまには嫌なことを言う人だっていうけれど、世の中の多くの大人は、嫌なことをそんなに露骨に言葉や態度に表さない。たまに出てしまうことはあっても、いつもいつも感情のままに行動しているわけではない。

けど。他人が本当に考えていることが実際のところわからないのであれば。それなら、「必要とされている」「信頼されている」と、こちらが信じてしまっていいんじゃないか。と、思う。本当は目の前の人が考えていることはわからない。でも、わからないのであれば、「この人私のこと疎ましく思っているな。」「いらないと思っているな。」と、疑うより、「この人私のこと必要としてくれてるわー。信頼してくれてるわー。」と、ノーテンキに信じ込んでしまった方が、自分の気がラクなのだ。そして「気がラク」な方が、萎縮しているよりも何倍も何百倍も、仕事のパフォーマンスは上がるのだ。

そんなノーテンキに他人を信じてしまって、裏切れたらどうするの、と、思うかもしれない。けどそれだってまあ別に仕方ない。「必要とされている」と思い込んだのはこちらの勝手であって、別にその人は私を信頼するために生きているわけではもちろんない。そして私も、その人の信頼や期待に応えるために生きているわけではない。こう言ってしまってはなんだけれど、相手を信頼することは、その人のためではなく、自分のためなのだ。自分が、心地よくそこで仕事をするためなのだ。だからまあ裏切られるようなことがあったら、それはまあ良い気はしないけれども、「仕方ないな、この人も自分も、相手のために生きているわけではないのだから。」と、思うしかない。

新しい環境というのはどんな人にとっても結構な試練だ。初めての部署、初めての小学校、初めての保育園、初めての幼稚園、初めての職場復帰、初めての就職・・・。そこにとっての新参者の自分は、ものすごく無力に思えることだって、あるかもしれない。でも、そんな時はあれこれ考えず、「信頼されている」と、信じちゃえばいい。

そして自分を信じること。

そして、目の前の人が、自分を信頼してくれていると信じることは、すなわち自分を信じることでもある。それが、一番大切だ。もっと言えば、自分の能力とか、仕事量とか、そういったことだけでなくて、存在そのものに意味があると、自分で信じて思い込んでしまうことが大切。まだまだ新入社員のペーペーだけれど、まだまだお母さんとして始まったばかりだけれど、子育て中で働く時間は短いけれど、でもまあ、こうして毎日のほほんと生きているだけでよくやっているじゃないか、と。なんか今話している自分の目の前にいる人は、笑っているじゃないか、と。

新生活。不安な中での生活の人もたくさんいらっしゃるかと思います。気楽に気楽に、必要とされてるわー、生きてる自分、えらいわーと、思いながら、日々過ごしてゆきましょう。そして、新生活を始めた子供たちにも、君が生きているだけでほんとうにうれしい。と、毎日毎日伝えてゆきたい。少しずつ手を離れていく子供たちが、いつか大人になっても、そこにいるだけでいいと感じてもらえた記憶を、励みにできるように。

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「いやだ」と言っちゃってもだいじょーぶ。

だいたい週に2回くらい、会社のゲートでピッとsuicaをかざすようになってきた。なかなかキテいる証拠です。3月ですね。

3月のキリン

言いたくなっただけ。3月のライオンにかけてみましたとか言ったらほんとそろそろ怒られそう。

3月になり、いよいよ息子の卒園が近づいてきました。考えたら泣きそう。なので考えない。ちょっと別の視点からのお話。

卒園に向けて保護者主体のイベントや行事も増えてきます。たぶん多くの人は、当たり障りなく、「何となくみんなが出席するイベントだから」とか、「子供のため・・・」とか、そういった気持ちも含めて、行事には出席するし、役員は続けます。それはもちろん私も含めて。それが「多数派」です。

もちろんイベントが心から楽しみだとか、子供のためになることを本気でしてあげたいとか、そういう気持ちももちろんある。それはもちろん私も含めて(と何度も繰り返す)。でもどちらにしても、その「本気でやりたい」度合いがどれくらいのレベルにあるにしても、とにかく結果的に私たちは「多数派」を選ぶ。そして、自分は「多数派」だろう、と、認識する。(そして少しの安心感を得る。)

ところで、いつの世も、保護者(というか人間)が集まるとそれなりに小さいトラブルのようなものも発生します。そして私という人間はほんとうに人間的に未熟ですので、そういったトラブルの種を見つけるやいなや全力で逃げます。ええもうだめな大人ですね。しかしこれはもう致し方ない、神様が与えたもうた性格なのです。許して仏様。(意味不明)

そしてだいたいいつも面倒なことから距離を置くわけですが(ほんとうにすみません)、そうすると、何があったか背景はわからないけれど、結果として残ること、つまりあの人は今回の行事に出席しないとか、役員を降りた、とか、そういう「結果」となることだけを知ることになります。

だいたいのことは「ああそうなのか。」といったレベルで受け止められる

「行事に出席しない」とか「役員を降りる」という選択は、「多数派」ではない。あくまでも少数派なわけで、もちろん一部の人たちからは「協調性がない」とか「子供がかわいそう」(ところでこのフレーズは本当に他人が発する言葉ではないですよね条例で禁じたらいいと思います。)というネガティブな声も出るやに思います。おそらく。たぶん。

と、そうは思うのだけれども、「トラブルの内容はよくわからないままだけれどもとにかくその結果だけを知る」といういつものパターンを繰り返す私がここで気づいたこというのは、例えば「行事に出席しない」という結論を出した人のことを、いやまあ特になんとも思わないな、と、いうことです。「変わり者なんだなあ」とか「あんまり近づきたくないなあ」とか、ましてや「そんな親の子供はどんな子なんだろう」みたいなことは、特にというかまったく思わない。

まあ「多数派」ではないのだろうし、そういう意味ではちょっと変わっているところはあるのかもしれないなあとちらりと思う程度のことはあっても、だからと言ってまあ基本的に「ああそうなんだないろいろあったんだろうなあ。そういうこともあるよなあ。」くらいのことしか思わない。何かを詮索しようとも思わないし、もちろん何かを説得しようとも思わないし、「ああそうなのか。」というのが、ほぼすべての感想なのです。

で、思うに、これってだいたいの人の感想なのではなかろーか、と。いろいろ言う人が少しはいるにしても、その声が大きく聞こえがちだとしても、もしかすると世の中の多くの物事は、「ああそうなのか。」といったレベルで他人に受け止められるのかもしれない。

「いやだ」と言っても大部分の人は「ああそうなのか。」と思うに過ぎない

これを視点を自分にして考えてみると、もし仮に自分が何かいやなことがあってそれを「いやだ」と口にした時、もちろん「けしからん。」という人は一定数いるにしても、大部分の人は「ああそうなのか。」と、思うに過ぎないのだろうな、と、いうことです。ちょっとくらい「変わってるなあ」とは思われるかもしれないけれど、でもその程度。

自分がやりたくないことがあったとして、それを断るのって、いろいろ考えるとすごく高いハードルのような気がしてしまうけれど、実はそんなに高いものじゃないんじゃないかな、と、思います。本当にやりたくないことをやるのと、ほんのちょっと「変わってるなー」と思われることだと、よくよく考えてみれば後者の方が圧倒的に楽。だいたい「ちょっと変わってるところ」なんて、誰も彼もみんな持っている。

もちろん保育園のイベントというのは一つの例であって、それを否定するわけでも、頑張って取り組むことを冷ややかに見ているわけでもなくて、実際私自身はみんなでワイワイいろんなことができてすごく楽しかったし、交友関係も広がったし、行事に参加するのも係をやるのも結果的には良かったなあと思っています。

ただ、それだってなんだって、基本的には「やりたい人がやればいい。」と、思うのです。それはどんなことだって同じで。本当に嫌なことに対して、「いやだ」と言ったって、自分が思ってるほどのリスクは実はないのだと思う。むしろ、本当に嫌なことを無理してやる方が、ずっとずっと不健康だし、長い目でみればものすごいリスクになると思います。

ほんとーーーにいやなことは「いやだ」と言ってしまうのが大事だな、と思う。それで失うものって、実は自分が思うほどないのだから。というか守るものこそあれ、失うものは多分、何もないのです。

全然そんなに、たいしたことないのです。

そんなことを、ふと考える3月中旬。ああもう中旬。仕事も大詰め年度末。ああ年度末。

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プレミアムフライデーに思う

プレミアムフライデーじゃなくてチューズデイを選んでもいい

花金です。プレミアムなフライデーです。何をしていたかというと残業です。

もちろん写真は関係ありません。ハワイのターゲットで買ったパーティーグッズたち。こういうのはアメリカならではで楽しい。

まあそんなわけでプレミアムなフライデーです。月末の最終金曜日、15時に帰ろうというあれです。会社のアシスタントさんによると、箱根に向かう特急がめっちゃ混んでたらしい、今日。何事かと思えばプレミアムフライデー!と、いうわけです。

早く帰ろう!と、いう取り組みというか、意識付けはまあ素晴らしいものだと思う。例えば新入社員の子たちに堂々と今日は帰って!と、言うとなんだかんだ喜んでくれるんじゃないかと思う。私が新入社員なら喜ぶ、きっと。そう思うのだけれど。思うのだけれど。

例えば私が今日、「15時に帰って!」と、もし言われていたとしたら、いやそれはちょっと困る。と、思ったはず。でもこれが今週の火曜日であったなら、ありがとうございます失礼しっまーーーす。と、帰ったと思う。と、いうか実際に子供関連の所用がありそれより早い時間に早退したそういえば。まあそれもあって仕事がちょっとたまっていて、今日は15時に帰るのはちょっと厳しかった。ちょっとやけど。もし無理に帰らされていたら、月曜日にちょっと泣くことになっていたと思う。ちょっとやけど。もしくは家でちょっとやることになっていたかも、とも思う。ちょっとやけど。

決して決して、「15時なんかに仕事が終わるわけがない。もっと働く時間が必要だ。」と、言っているわけでは全くもって全然ない。自分の仕事に関して、というか、私の働き方の中では、15時に帰れる日だって、月に一回くらいであれば、余裕で存在する。

ただその早く帰る日は、自分で決められるといいなと、思う。それは今週の私にとって今日じゃなくて火曜日だったのだよ、ということ。プレミアムチューズデイ。

「強制」が働かないと、帰れないという意識

一斉に今日は早く帰りましょう!と、いうくらいの強制がないと早く帰れない。と、いうのが多くの企業なのかなあと思う。「多くの企業だ」と、いうか、そういう考えを持っている人が大半だから、多くの企業でそういう考えが幅を利かせているのだろう、というか。

で、みんな、「とは言ってもそんな一斉になんて帰れませんよね、帰ったらこの会社の仕事は成り立ちませんよー。」と言っている。いろんな会社でもう結構何度も聞きいた。まあ、本当にそうだと思う。けどそうは言っても、実際のところ、本当に早く帰れるのであればうれしいな、と、思う人だって少なからずいるんじゃないかと思う。本音では。「この会社の仕事は成り立ちませんよー」と、いう人たちも含めて。

それはやっぱり、「強制的に帰らされるのであれば(いやいやを装いながら)早く帰ることができる。結構うれしい。」からなんじゃないかなと、思ったりする。

でも本当は、そんなのよりも、「自分で決めて自分の好きな日に何も気にせずさっさと帰る」方が良いに決まっている、と、思う。そしてその方がずっと自然じゃないかと思う。

意識付けを制度から強制的にやっていくというのも、「働き方改革」の一つなのだろうとは思う。本気で心から「月に1回でも15時なんかに退社したら仕事が成り立たない。世界は滅亡する。」と、思っている人ももしかしたら世の中に存在するのかもしれない。私はにわかには信じられないけれど。そういう人たちが、強制的に「15時に帰らされる」ことで、「あ、意外と15時に帰っても仕事って回るんだな。世界の終わりは来ないな。」と、気づくことができれば、それはそれで一つの成果なのかもしれない。いやほんとにそんなことに今更気づく人がいるのかはわからないけれど。

例えば水道局の人が一斉に今日は15時で帰ります、断水します、トラブルにも対応できません。と、なるとそれはやっぱりちょっと困る。なんとかならなくもない気はしなくもないけれど、やっぱりちょっとそれは困る。ただ、「一斉に帰ります」と言われると困るにしても、それぞれの人がそれぞれの仕事の範囲で、「今日はこの時間まで働こう。」「今日はちょっと頑張ってここまでは仕上げてしまおう」「今日はさっさと早く帰ろう」と決める分には、困る人はでてこないはずだと思う。組織というものは、そういう個々の働き方に、臨機応変に対応出来るようにできているもののはずだから。

ゴジラだって眠るし巨災対だって休む

金曜日に早く帰りたい人もいれば、火曜日に早く帰りたい人もいる。そして早く帰ること自体は、決してできないことじゃない。月に1回程度、誰かが15時に帰ったところで、世界が滅亡することは絶対にありえない。ゴジラだってあんなに眠ったし。その間巨災対の人だって休んでたし。

それを、みんなが認めて自然に受け入れて、自分が決めた範囲で、「今日は早く帰りまーす。」と、何も気にせず言えればいいなと思います。そういう雰囲気さえあれば、逆に言えば、本気で今日はやりたくて残業しているという人に対して無理に帰らせる!という必要だってなくなる。だってその人は、自分で決めて、明日はさっさと15時に帰ることだってできるから。

でも今は、そんなことは全然できない雰囲気のところが、ものすごおおおおおく、多いのだと思う。「帰りたい時にも帰れない」から、「強制的に帰らせる」必要があるのだ。でもこれは、なんか不自然だなあと思う。

そして「好きな時に早く帰れない雰囲気」を、自分のいる組織が出しているとして、その「雰囲気」を作り出すのは自分でもある、ということを、私も含めてちゃんと自覚しなきゃなと思う。自分も含めた組織なのだから。

他人を変えることはまずできない。変えられるのは自分しかない。自分の属する組織の雰囲気が嫌だな、辛いな、と、思った時、自分にできることは、その雰囲気を全力で無視すること。「好きな時に早く帰れない雰囲気」があるなら、そんなものはさっぱり無視してなんなら気づかないフリをして、堂々と早く帰ること。もしかしたら自分のそんな行動が、組織の雰囲気を変えてしまうかもしれないし、実は全く変わっていなかったとしてもなんか変わった気がすると勝手に思い込むことができるかもしれないし、いずれにしてもそれは自分にとってはそこそこ良いことだと思う。まず間違いなく身体を壊してしまうよりは、ましてや命を落としてしまうよりは、空気を読めない方がずっといい。

だいたい、「自分で決めて自分の好きな日に何も気にせずさっさと帰る」ことが本当に嫌な人なんて世の中にいるのかな。私にはそうは思えない。好きな時に好きなだけ働き、早く帰れるときはさっさと帰る。それが「絶対に嫌だ!」と、思う理由は、私には思い浮かばない。

だからまあ、プレミアムなフライデーもいいけれど、個々人がプレミアムなマンデーやチューズデーやウェンズデーやサースデーを何にも気にせず選べるといいな、と、思います。

今日はプレミアムフライデーだしなーみたいな感じで、ちょっと気をゆるっと持つとか、なんかまあ肩の力を抜くとか、それくらいのユルさを持つ日、みたいな感じはいいかもしれない。あーこの仕事終わらないなーまいっかープレミアムフライデーだし。納期遅れるなーまいっかープレミアムフライデーだし。電車遅れてるなーまいっかープレミアムフライデーだし。今日の晩御飯はサイゼリヤだなーまいっかープレミアムフライデーだし。みたいな。世の中全部がゆるーい日、というのはなんかそれはそれで楽しそうだ。

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春物第一弾と、誰かの「無駄」に寛容であること

暖い日も少しずつ増えてきましたね。私は引きこもっていたので分かりませんが。→むすめがインフルエンザになって会社を休んだ話(つまり今)(わからんのかい。)

春物スイッチの入るタイミング

さて、そろそろ春物を考える季節です。ただの服が好き、な、一般ぴーぽーの私にとって、春物に目を向ける、というのはもちろん春になってからでいいのではないか、と毎度思うのですが、なんで私は毎年毎年このさっぶい時期に春物と夏物のことを考え始めるのであろーか。そして夏のあっつい時期に、冬のコートについて思いを巡らせるのであろーか。それはもう一種のビョーキのようなもんである。うん。(写真は全く関係ありません。)

どうやら私は洋服がめちゃくちゃ好きらしいのですが、いやほんと好きらしいのですが、毎日毎日洋服のことだけ過ごしているかというとそんなことはない。いや、ちょっとそんなことはある気はするけれども、その温度感というか、それは一定ではない、と思う。

例えば冬のこの季節。今年はニットは一着しか買わず、コートに至っては一着も買わなかった(それは去年やらかしたから。)ので、いい加減、手持ちの冬服に飽きてくる。12月頃に大物を投入すると、結構テンション高く2月末頃まで飽きずにやれるのだけれど(それも去年やらかしたから知っている)普段は、やっぱりシーズン始めに一番多く買うことがほとんどなので、数ヶ月前、下手すると半年くらい前に買ったものたちにそろそろ、飽きてくるわけであります。

基本、このカッコばかり。チャンキーとムートン。

あと寒いの苦手人間としてはとにかく防寒第一になってオサレは二の次になってしまう。ということもある。女子力とは。

というわけで、この時期お洋服への温度は低めです。今年は特に。

そしてスイッチを入れてくれるアイテム

だけどこの低めという温度ももちろん一定ではなく、ぎゅいんと急上昇することもある。それは多くは、そのシーズンの肝となりそうな、これ!というアイテムに出会って手に入れた時、にやってくる。

こないだインスタをぼーっと見ていて、久々にこれめっちゃ欲しい!と、思うお洋服を見つけた。Vネックのカーディガンなのだけれど、色といい形といいもう完璧であった、私の中で。

基本的に洋服は試着して買う、というのを大切にしているけれど、なんせここのところの洋服熱の低下により、お店を調べて試着しに行くのもかったるく(もしかして洋風熱低下じゃなくて女子力低下なんじゃないか)全力で通販をお願いした。

ただ、私はこれが届いた時におそらく、洋服熱がぎゅいんと上昇する気がしている。なんとなく。これが、この春夏シーズンの肝!になる予感がしている。そしたらきっと街に出てちゃんと試着してお買い物へも行ける・・・はず・・・。

こうなると、このカーディガンに合うパンツとか、スカートとか、下に着るノースリーブとか・・・色々と妄想が膨らんで楽しい。いつもこんな感じで、一つのアイテムから想像がぐいーーーーーんと膨らんでゆく。その時間がものすごおおおおおおく、楽しい。

そしてその肝となるアイテムというのは、手持ちのものとの組み合わせを考えるだけでわくわくできるものが多い。なんかそれ一つで、いつもの洋服もちょっと新鮮になるというか。それだけで妄想の幅が広がるというか。ところでさっきから私、肝とか妄想とか、もう少しなんというかこう女性誌的な言葉の言い回しができないものか・・・すみません・・・

とにかくこうしてわたしのシーズン始めというのは、何かしらのテンション上がる一つのアイテムからスタートすることが多い。「新しい世界(新しくこれから買う服)」も、「既存の世界(今持っている服)」も、広げてくれるものとの出会いって素晴らしいし、わくわくする。

ファッッションはなくても生きていけるけど、でも

でもこれって、別に洋服に限らず、好きなものに対しては誰もが持つ感情なんじゃないかなと思う。好きなものを考えている時に、連鎖的に妄想が広がって一人でどんどん楽しくなっていく感じ。また妄想って言いましたけどねわたし。でもそれって何より至福の時間じゃないですか。わたしはそうです。一人でワイン飲みながらそのシーズンに着たい服を考えてる時間。もうそれだけで仕事頑張れる。

ファッションなんて、なくても生きていけるものだ。それはよくわかっている。だからそれに向かう価値観が、時にやたらと批判というか攻撃の対象になったり(なんであの人はあんなにファッションにばかりお金をかけているんだ、とか、逆にあんなチープなものをつけているんだ、とか。)理解を得られなかったり(なんなんだあの着こなしは。。。とか。よくわからんけど。)しやすかったりもするのかなと思う。でも、じゃあみんなが同じような服をしている世界って面白みがあるのかなというと、そんなことないよなあと思う。ファッションに限らず、やっぱり「なくても生きていけるもの」に没頭できる余裕や、そして他人の「なくても生きていけるもの」に寛容でいられる心持ちがない世界というのは、やっぱり相当に息苦しいし、面白みがないと思う。

まあ、アメリカヴォーグ編集長のアナ・ウィンターは、「ファッションが教えてくれること」で、「ファッションのことにとやかく言うのは自信がない人よ。自分がいけてないグループにいることを認めたくないから」みたいな痛烈なことを言っていてそれはそれでなかなか面白かったけれど。

別にそれはファッションじゃなくたって全然いいから、とにかく、時間を忘れられるくらいの自分の好きなものを、そういう最高の「無駄」を、やっぱり楽しんでいける余裕を持っていたい。そうすれば、隣の人の「無駄」にも寛容でいられると思うから。ファッションに興味はないけど、私も音楽のこととなるとつい没頭してしまうから、その「無駄」もわかります、と言えるのがやっぱりハッピーじゃないかとは思う。

なんだって「あそび」のある世界がやっぱりいいよなあと思う。そしてももちろん、どんなことにしろ、誰かの「それはおかしい」という言葉にも、「そうですねえ」と、受け入れられる余裕も持ち合わせていられるといいなと思う。「そうですねえ。あなたの考えがそうであることはよくわかります。そういう考えもありますよね。まあ、私の考えは違うんで知ったこっちゃないんですけどでもまあそれでいいですよね。」と、思えればそれでいいのだから。

と、いう、また新しい洋服を買ったことへの壮大な言い訳でした。おしまい。

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就活生に会って思ったこと。「自分の言葉」で話すこと。

就活生とどのように接するか。

ここのところ、仕事だったり個人的にだったり、就活生に会うことが増えてきました。時期的なものなのかな、イベントに呼ばれたり、個人的に紹介されたり。年次的にも、いろいろ聞きやすいのかもしれませぬ。(人事に便利使いをされている。と、よく言っている。)

で、就活生の悩みというのは、私が就活している時と、つまるところあんまり変わらないよなあ、と、よく思うのですが。こちらの、つまり就活生の話を聞く立場としての振る舞いというか、心構えというか、考え方のようなものが、少しずつ変化してきたなあ、と、思う。

例えばOG訪問をお願いされたような時。数年前までは、「わが社の良いところ。」とか、「今の仕事がいかに充実しているか。」とかを、必死に考えて答えていたような気がする。「必死に考えて」と、いうことは、ものすごくナチュラルにそう思っているわけではない、ということでもあったような気がする、今思えば。

もちろん、採用面接におけるタブーというか、聞いちゃいけないこととか、言っちゃいけないこととか、そういうのはおそらくかなり厳しくなっていて、こればっかりは私が就活していた時と全然違う気がする。面接で家族のこととか普通に聞かれた気がするけど、今は絶対にNGだったりする。そういう意味で、気をつけなくてはいけないことも多くて、気が張っていて「必死に考えて」という部分もあったとは思うのだけれど。

けどそれだけじゃなくて、まあもちろん、うちの会社を志願してくれたらいいなという思いがあったり、もっと言うと、自分自身でも、こんな楽しい仕事をしているんだ!と、思い込みたいような気持ちがどこかにあったり・・・したような、気が、しなくもない・・・書いてるとなんて恥ずかしいんだ、と思うけど。

けどそんな話、正直就活生にとって何の面白みもないよな、と、思う。いや、そんなことはわかっていた。わかっていたのだけれど、「就活生」に向かって「会社を代表して」自分が話せることなんて何もないよ・・・と、いう自信のなさが、そういう何というか会社や自分の仕事を良く見せよう、と、つい考えてしまうことにつながっていたんじゃないかなと思う。いえほんと、書いてると恥ずかしいんですけど。

でもやっぱり、それは就活生の心には絶対に響かないし、何より、学生さんたちの時間を、無駄にしてしまってるんじゃないかな、と、思ったのです。どんなことにも相手があって、その人の時間をもらっているからには、こちらは誠実であるべきだ、と、思う。

で、そう思った時に私にできることって何だろうなあと考えると、会社の良いところを必死にアピールするとか、自分の仕事はこんなに楽しいですって話すことじゃなくて、「働くこと」「仕事をすること」の、自分の考えを伝えることなのかなあと。そして、とにかく就活生の話をしっかり聞いてあげて、その上で自分の考えを自分の言葉で答えてあげることなんじゃないかなあと。

前にも書いた気がするのだけれど、私が就活をしている時、とある企業の面接で、「むしこさんがとても芯がしっかりとした女性であることは伝わってきました。でも、固い枝は、強い風が吹くとすぐに折れてしまいます。一方、柳の木は、しなやかで、強い風が吹いても折れることはありません。是非、柳の木を目指してくださいね。」と、言ってもらったことがあった。

その言葉がすごく心に残っていて、今でも仕事をする中で何かの折にふと思い出す。そして今やっと、その言葉の意味がわかってきたような気がしている。

よく言われることだけれど、就活っていうのは、いろんな人に会って、いろんな人と話をできる時期でもある。なかなか、短期間にこんなにたくさんの企業の人に会って話をするという機会はないと思う。その中には、きっとハッとすることや気づきのある言葉や人に、出会うことがあると思う。

柳の木の話をしてくれた人のように、もう今はその人の名前も顔も覚えていないのだけれど(すみません)、それでもただ一度だけ会う就活生のために、すごく大切なことに気づかせてくれる人がいる。そこまで大それたことはできないし、誰かの心に残るいいことを言おう!と構えるわけではもちろんないのだけれど、せっかくの就活生の時間なのだから、何か一つでも、その子にとっての気づきや、仕事をするっていいな、楽しみだな、というような気持ちを、持ってもらえたらいいなと思う。

そのためには、会社のいいところ!とか、自分の仕事の素晴らしいところ!とかばかりを考えているだけじゃ、きっと伝わらないよな、と、思います。自分の言葉で、「これは個人的な考えだけれど」ということを、話していってあげたいなと思う。「会社を代表して」の言葉なんかじゃなくて、「個人的な考えだけれど」という方が、就活生にとって聞きたい話でもあるんじゃないかと思うから。

シューカツするみなさまへ。

そして就活生の人たちには是非、そういう、自分が出会った人から何か一つでも、仕事って何だろう、仕事をするってどういうことだろう、何が楽しいんだろう、この人は、どういう価値観で仕事をしているのだろう、ということを、何とかして盗んでやろう、知ってみよう、という気持ちを持ってもらえるといいなあと思います。自分をどうアピールしよう!どういう風に良いイメージを持ってもらおう!なんてことは、ほとんど考えなくていいし、そういう態度は、いとも簡単に見破られてしまうというか、そういう態度にばかり接しているのでみんな慣れきってしまっているというか・・。

もちろん、「自分アピール」はほとんど考えなくてもいいとはいえ、相手あることなので、誠実に、「しっかり聞く」ことは大切。それは多分、仕事を始めてからも大切。やたらと斜に構えることは全くなくて、せっかくなら素直でいた方が色々と吸収できて良いと思う。素直さというのは若さの武器だ。ほんとに。

ただ、マニュアル通りの自己PRや、マニュアル通りの質問やお礼や、そういうのはやっぱり人の心には届かないものだと、私は思います。いやほんと、自戒を込めて。それなら、(面接の段階まで行くとだめだけれど)自分の本当に悩んでることや迷っていることを自分の言葉で話したほうが、ずっと誰かの心に届くと思う。OB・OG訪問もセミナーも面接も基本は全て「対話」だから、型どおりのマニュアルに振り回されるんじゃなくて、自分が本当に考えていることを、自分の言葉で話してほしいなと思います。なかなか難しいことだけれど、本気の言葉には、きっと本気の言葉が返ってくると思うから。

というのはまあ、私というたった一人の思いであって、世の中にはいろんな会社があっていろんな考えの人が当たり前のように存在するわけで、一概には言えませんが。(と、言ってすぐ逃げるのが社会人のずるいとこですよねすみません。)

最近、就活生からも、「汐留の広告会社であんなことがあったばかりですが御社の働き方は・・・」という話がよく出るようになってきました。そりゃそうだよね、気になるよねきっと。だから私は、今だからこそ、働くとはどういうことなのか、仕事をするってどういうことか、なんで自分は働きたいのか、どういう働き方をしたいのか、ものすごく真剣に考えてほしいと伝えるようにしています。「働き方」を決めるのは、本当は会社ではなく、上司でもなく、親でも友達でも先生でもなく、自分自身なのだから。

と、いうことに気づくのに10年以上かかった社会人の戯言でありました。

就活生のみなさんが、たくさんの良き出会いに恵まれますように。

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むすめがインフルエンザになって会社を休んだ話(つまり今)

1年ぶり2回目の快挙(インフル)

さて今年も元気にむすめがインフルエンザになりました。えーーーー。1年ぶり2回目の快挙です。おめでとう。というわけで「子供がインフルエンザになって会社を休むという状況をサラリーマンである自分はどう捉えるか」という話です。たぶん。

子供が発熱した、インフルエンザにかかった、というときに、「仕事どーしよ!」と真っ先に思ってしまういけない親になってしまいました。そこは子どもの心配をしましょうすみません。そこまでならまだいいのだけれど(いいのか)、「子供がインフルエンザで仕事を休む私を他の人はどう思うのだろう。」という、考え方をついしてしまうのはいかがなものだろう、と、ふと思った。

気づけば、休みを取って旅行へ行く時も(旅行へ行くって頭痛が痛い的なものなのか?)、子供の病気で会社を休む時も、なんだか同じような落ち着かない感じを持つようになっている。なっているというか、それは結構昔からの癖のような感じで、「こういう自分は、人からどう思われるのだろう」ということを、長い間ずっと気にしてきたような気が、するのです。

でも子供がインフルエンザで仕事を休む、という時、気にするべきなのは当然、「休んでいる間にすべきだった仕事をどうするか」であって、(いやそうじゃなくてインフルエンザになった子どもの心配ですそうですその通りです。その通りですがその次に。)「休んでいる私が人からどう思われるか」では、ない。私は幸い、すごく理解のある人たちに恵まれて仕事を続けてこられたけれど、それでも、周りの人たちが、「はぁぁぁあの仕事代わりにやるのめんどくさいな・・・」とか「これだからハタラクジョセイは・・・」とか「子持ち女性がチームにいるのはきついなあ」とか、声に出さなくても心の中で思ってしまうのを私が止めることはできない。それは、その人が感じることであって、他人の気持ちに対して「こう思ってください!」と、私がコントロールすることなんて絶対にできない。

それなのに、つい、「こう思われたくないな。」とか、しまいには「ここで休んで迷惑かけることで、会社の他のママたちの印象まで悪くなってしまうんじゃないか」とか、それは一体何目線なんだ、ということまで考えてしまう。

それは元来気にしいな性格だった私だから思うことかもしれないけれど、結構同じようなことを感じてしまう人って多いんじゃないかなあと、ふと思った。

仕事の「相手」をはき違えちゃダメだ。

けどそれってよく考えたらおかしなことで、だって私たちは「会社の人たちに良く思われる」ために、仕事をしているわけじゃない。どんな仕事にもその先には取引をする人(お客さんだったり)がいて、それは決して会社の同僚ではない。お客さんにとって有益になることをすることで、会社(自分)の利益(お給料・お金)をもらう、というのが、基本的な仕組みのはずだから。

だから、考えるべきなのは、その先にいる、自分の仕事を待ってくれている人たちのこと。もちろん、その人たちのために仕事をする中で、自分の会社の人と良好な関係であることはとても大切で、そこにある信頼関係を崩さないようにすることは、すごく大切なことだと思う。だけど、それは決して「仕事の目的」ではないんよね。

そしてそれをいつも思い出させてくれるのが、子どもたちの保育園のイベントの時の、先生たちの仕事ぶりなのです。

例えば運動会のリレーの時、先生たちの子どもたちを見る目にハッとすることが、もう何回もある。その時先生たちは、保護者の顔を見るわけでもなく、もちろん園長の顔色を伺うわけでもなく、まっすぐ真剣に、ただただ子どもたちのことだけを見てくれている。もちろん怪我をした子どもがいれば真っ先に飛んで行くし、バトンを渡した子には一人一人声をかけてくれる。何より、走る子どもたちから決して目をそらさず見守ってくれている。

その真剣な表情はなんだかすごく胸を打つ。先生たちは、自分の仕事が誰のためのものなのか、誰を相手にしているものなのか、ちゃんとわかっているんだな、と、思う。その姿には、同じ仕事人として、教わることがすごくある。上司とか、ちょっと権力を持っているように見える人とか、そういう人のためじゃなくて、ちゃんと本質的な自分の仕事の相手のために、仕事をする姿。ものすごく当たり前なのだけれど、会社で働いていると、いとも簡単に忘れそうに、なってしまうこと。

そして、自分の仕事の相手、をきちんとわかっていると、仕事をしている中での本当の喜びというか、嬉しい瞬間というのを、きっととり逃さないのだろうと思う。先生たちであれば、子どもたちがリレーで一生懸命走る姿や、昨日うまくいかなかったバトンがきちんと繋がった瞬間や、走るのが嫌だと言っていた子どもが頑張る姿や、子どもたち同士で励まし合っている瞬間や、そういった子どもたちが紡ぐ一つ一つの瞬間を、きっととり逃さない。園長に褒められることや、保護者に感謝されること(それももちろん喜んではもらえるのだろうけれど)じゃなくて、子どもたちの成長を見届けるという、きっと、先生たちにとって一番の仕事の喜びなんじゃないかなと思う瞬間を、仕事の相手である子どもたちとちゃんと共有できるだろうなと思う。

だから私も仕事をするとき、「相手」を取り違えないでいよう、と思う。自分は誰のために、何のために、仕事をしているのか。特にサラリーマンがルーティンに追われていると、ほんとについ忘れてしまうこと。

子どもがインフルエンザになって、仕事を休んだとき、本当に気にすべきことは何なのか、というのは、マイナス起点の話だけれど、ここで「自分の評価」「自分が他人にどう思われるのか」という考え方をするくせがついてしまうと、プラス起点で仕事が発生するときにまで、「相手」を取り違えるようになってしまうんじゃないかな、と思う。だからこういう時の考え方から気をつけようと思った、と、いうお話です。

病気や、育児や、介護や、他にも自分の趣味だったり、楽しみだったり、旅行だったり、その他いろんなものと仕事のバランスや向き合い方に悩んだ時、国の制度や、会社の理解や、自分の置かれた環境なんかについ目が行きがちだったりするけれど、まず最初に変えられるのは自分の意識だったりするんじゃないかな、がんじがらめになっているように感じるのは、実は自分の考えなんじゃないかな、と思ったりしたのです。

まあとはいえほんともういろいろ気にはなりますしというか仕事めっちゃたまって泣きたいのでほんと来年こそインフルエンザなんとかしたい。もうほんと。泣く。打倒、インフル。

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2/10のネガティブをスルーすること

村上春樹いわく、バーをやってるときに、10人に2人、そのお店を気にいる人がいてくれたら、そのお店はやっていける、それは小説家も同じ、と、いうことなのですが(たしか)(ちがったかも)。

10人に2人受け入れられないか、10人に2人好かれるか。

私が思うに、人というのは、例えば10人いたら2人には受け入れられない人とか、10人いたら2人には受け入れてもらえる人、というのがいると思うのです。(10人いたら10人が好き、というのは本質的にはたぶんありえない。)

で、それはどちらも素晴らしいことで、

村上春樹が言うように、10人中8人が、あの人はちょっと。。。

と、言っても、2人、でもあの人俺は好きだよ、みたいに言う人がいると、その人は世の中で社会で生きていけるのだと思う。

そしてどれだけ好かれる人でも、10人中2人くらいにはあの人はちょっと。。と、思われたとしても、それはそれで普通のことで、堂々と生きてゆけばいいとおもう。
まあ怖いのは、10人中、誰一人として受け入れられない人だよね、と、いうことをオットと話していて思った。

そういう人が唯一生き抜けるとすれば、その人が数百年に一度の天才であることしかないのではないかと。つまり、モーツァルトとか、ピカソとか、もしくはジョブズとか。それくらいのレベルでないと、0の人が生きてくのは厳しい。

人は基本的にいろんな人とつながって生きてくわけやから。

だから、子育てにおいては、子供たちを0の人にしないようには最低限育てなきゃね、と、いう話をしました。

いやもちろんピカソとかジョブズレベルの天才である可能性だってあるわけやけど、でも子育ての段階で、それを前提にしちゃいかんよね、と。

2/10か、8/10か。そこはほんとうにこだわらなくて、少し変わっていて2/10でもいい。

でも、2人の人には、愛される人にそだってほしいし、そして、2人の棘にはひるまない人に育ってほしいな、と、思うのです。

ネガティブなもの、に振り回されないこと

翻って自分のことを考えてみると、典型的な長女気質の私は、常に10人に好かれなきゃいけない、と思って生きてきた気がします。30年くらい。長い。

だから、2/10の棘にすべて反応しては、なにがいけなかったんだろう、自分のどこがダメなんだろう、ということをいつも考えていた気がします。

悪い理由を、いつも自分に求めていた。

でも、だいたいどこの世界にでも、2人くらいはどうでもいいことを言う人たちがいる、ということが大人になった私がようやく知ってそして受け入れたことです。

人はネガティブなものについつい反応してしまいやすい生き物だとおもう。

毎日みたいにSNSの情報が入ってきたら、いいものも悪いものも「気」のように巡ってきて、知らず知らずのうちに振り回されてしまうということがたくさんあるとおもう。

しかしですね、子供が生まれて、それでも欲張り母さんは相変わらず仕事もやりたくて、そして靴とかバッグとかファーベストとか黒いストレートパンツとか(また)欲しいものばかりがある毎日を送っていると、とにかく優先順位をつけてあれこれこなしていくしかなくなっていきます。

人生は短い。やりたいことは山のよう。靴はほしい。子どもはあほほどかわいい。なぜ急に絵本の読み聞かせを始めるのだこの2歳女子は。その本はパンやのくまさんの話で決してばいきんまんは現れないがなぜ今現れた。そしてなぜ最後は「あたしはかわいいです(ハート)」で締めくくられるのだ。

みたいなことを考えていると、1日なんてあっという間に終わる。

そういう日々を送っていると、ネガティブなもの、人、空気に、関わる時間というのはやっぱり、ものすごく優先順位の 低いものになります。

そもそもネガティブなものっていうのは、捉えられるとあっという間に時間を奪われる。

ちょっと話は違うけど、タレントさんとか有名人の悪口を書いた記事をつい読んでしまって、そのうちどんどんリンクをさかのぼって気づ けばものすごい時間がたっていた、という経験ありませんか。そしてその読後感の悪さときたら。

そこから生まれるものは、正直言って何もないと思う。そしてどれだけ好感度の高い人でも、2/10くらいはネガティブに捉える人がいるもので、しかもそのパワーはいつもどうもでかいから、大きな声に聞こえがちやけど、まあ「否定」することというのはいとも簡単にできてしまうものやから、実はたいした意見ではないものがほとんどやと思います。(もちろん中にはとても建設的で愛のある批判もあるけれど。)

はっきり言って、人生にそんなことを気にしているひまはないのです。目の前でパンやのくまさんは急に「1、2、3、ばいばいきーん」と「ちっちゃい声で」言いだしたのだから。2歳児の手によって。

今は「子ども」という、否応なしに優先順位の高い対象が目の前にあるから、2/10のネガティブなものをスルーする力もある程度ついてきたけれど、この子育て時期が少し落ち着いて、またいろんな選択の自由が目の前にせまってきたときも、このことは忘れずいたいなと思います。

そして何にしても、そういう姿をみて、子どもたちには大切なことを知ってほしいと思うのです。

パンやのくまさんには、決してばいきんまんは出てこないという大切な事実を。

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