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『騎士団長殺し』を読んで

もう随分前に読み終わっていたのですが、何から書いていいものやら分からず、そしてやっぱり本について語るのはどうも恥ずかしいようで、寝かせておりました、『騎士団長殺し』のあれこれ。時間が空くとつい忘れてしまうので、とりあえず今の気持ちを記しておこうと思います。

 

本の感想ってネットで見ない

と、言っておいてなんですが。私自身はほとんど、インターネット上で本の感想は読まないのです、そういえば。調べてから本を買うということはほとんど、全くと言っていいほど、ない。小説以外のもの、仕事に必要な本とか、そういったものはamazonのレビュー見たりしますが、小説に関してはまず見ない。見ても全く参考にしていないと思う。小説に関しては、受け取り側がどう思うかというのはやっぱりものすごく個人的なものであると思うし、ましてや「良い」「悪い」の判断というのは、誰かにしてもらうものではない、と、思っています。

なので、ここに記すのもあくまでも私が「感じたこと」だけであって、これに変な影響を受けず、いいものはいい、好きなものは好き、嫌いなものは嫌い、という人それぞれの感想を大切にしていただけますとこれ幸いです。お前は誰だという話ですが。

この小説に関しても、私はネット上にしてもメディア上にしてもたぶん一つも読んでいないので、これが世間一般の受け止め方と同じなのかズレまくっているのかはさっぱりわからない。わからないけれどもまあ、それで良いと、思う。

あと一応、これから読む人だってたくさんいると思うので、小説の内容は分からないように書いています。

つまり一言で言うとものすごく良かった、と思う。

前作の1Q84を読み終えた時、正直私は、あの小説が春樹氏の集大成のように思えてしまって、「これはすごい。もしかしてこの人は、これ以上もう長編小説を書かないんじゃないか。」と、ちょっと思った。今までの物語がなんというか一つの伏線となっているような、ノンフィクション含めて、すべてがこの物語につながってるんじゃないかなあというような気が、していた。今までの物語は、この物語のためにあったんじゃないか、と。

けど、それって今思えば当たり前のことなのだろうなと思う。小説家だって人間なわけで、時間とともになんというか進化しある程度洗練だってされていく。だから一番新しい物語が、今までの集大成である、というのは、それはごく自然なことなのだ。

その時点での集大成から、また先に進むというのは、実はものすごく当たり前で、それを同じ分野でできるというのが、つまりはプロだということかもしれない。そしてそんなことはわかりきっていたけれど、村上春樹さんはプロなのだ。しかもとてもタフな。

そんなわけで、もう二度と読めないんじゃないかと思っていた春樹氏の長編を読めるというだけで私は嬉しかったわけですが。そんな気持ちがあったからなのかどうかわからないけれど、私はこの物語を、とても優しい物語だなと感じた。春樹氏の小説は、いつも深い深い地下に潜り込んでいくのだけれど(それは比喩としてもストーリーそのものとしても。)今回はその地下のダークさが、いつもよりも穏やかであったように思う。でもそれはこの物語のせいなのか、それとも読む私の変化のせいなのか、それはわからない。もしかしたら私が歳を重ねて、地下のダークさを、「受け止められるようになった」とは言えないにしても、ただ「知る」ようにはなったからかもしれない。

「優しい物語」だと感じられること

そしてこの小説で、主人公が深く深く潜り込んでいく過程で、それは具体的にストーリーの中でそういう描写がある(潜り込んでいくというのはここでは比喩だけれども、具体的にある行動をとる)場面で、私は一度、すごく泣いた。深く潜り込んでいく過程で泣くというのは、春樹氏の小説を読んでいて初めてのことで、自分でもちょっとびっくりした。

たぶんちょうど自分が、今までにないくらい、自分と向き合おうとしているからかもしれないな、と、思う。自分と向き合おうとしているというか、まだ何も見えない中を、手探りで、なんとか前に進もうとしているというか。とにかくその描写は、自分のようだ、と、思った。その先で待っている(であろう)ものや、過去に置いてきたものや、遠くに聞こえる声すべてが、私を囲むもののようだ、と。

そこには、恐ろしいものや、血なまぐさいものや、どろりとした手触りのものがあったかもしれない。そしてそれは自分の周りにあったのではなくて、本当は自分の中に、そこだけにあったものかもしれない。それと対峙することは誰かに傷つけられることよりもっと痛いことかもしれない。

それでも、それらすべてが「私を囲むもののようだ」と思ってもなお、この物語を「とても優しい物語だ」と感じたことは、私にとってもこの主人公にとっても、「救い」だなと思う。それはきっと、自分と、自分の手に届く範囲にあるものを、信じているからこそだろうと思うから。誰かの評価ではなく、自分のものさしで、少なくとも「見よう」という気持ちはきっと持っているからだろうと思うから。

続きが気になってどんどんと読み進めていく小説というのは山のようにあるけれど、読み終わるのが惜しくて、なんとかゆっくり読み進めたいと思った小説は初めてだったかもしれない。私にとって数少ない、何度でも読みたい本。1年後、2年後、10年後。読み終えた時にどんな感想を自分が抱くのか、とても楽しみだなと思います。

大切な物語が一つ増えた。それはとてもとても、素晴らしいこと。

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スモックをピンクにするのか水色にするのか問題

入学準備が一向に進まずおそろしい今日この頃ですが、とりあえずこないだ小学校と提携しているお店で、美術の授業とかで使うスモックを購入した時のこと。

ピンクと水色、二色のスモック

スモックにはピンクと水色の2色があったのですが、試着用のスモッグはピンクしかなくて、お店の人が、ごめんねサイズ合わせはピンクだけど、ちゃんと水色の用意するからね!と、言ってくれた。

それを聞いて息子は、ぼくピンクがいい!と、言ったのです。
その時わたしはつい「でも男の子はみんな水色かもよー」とか言ってしまったわけだけれども、そして息子はあっさり水色に変えたわけなのだけれど、なんかこれがずっと、すごくひっかかっていた。

私はとっさに、一人でピンク着てたらからかわれるんじゃないかとか、思ってしまったわけだけれど。
でも、そもそもそのなんとなく男の子用は水色、女の子用はピンク、と大人が枠組みを決めてしまうのって絶対よくないよなぁと、思えてきて。

そういえば最近息子は好きな色を聞かれると、すぐピンク!と、答える。息子が、子供の感性で、素直にピンクを選んだのに、大人の私が、男の子は水色、女の子はピンクという、自分が違和感を感じるこの「システム」に、息子を乗せてしまったことがどうも歯がゆくて。

深く考えなきゃいいんだけど、スルーしてなんとなくそのシステムに組み込まれていけば楽なのだろうけど、でも。

子供の感性というのは、やっぱり大人が邪魔しちゃいけないものなのだ、絶対に。

そしてこれからの時代を歩む息子に、男の子は水色、女の子はピンク、などという固定概念を、やっぱ植え付けちゃいけないんだよね、大人は。

これまでの6年間は、そんな概念に左右されずに過ごしてこられた息子の感性を、私はやっぱりとにかく大切にしてあげたい。だからできれば、ピンクでいいよ、という大人でいてあげたい。

とはいえ、いざ学校が始まって、男の子がみんな水色で、女の子がみんなピンクのスモックを着ていたら、息子はあれ?と、思うだろうと、思う。そこで「水色にしておけばよかった」と、思うかもしれない。その瞬間、感性がもしかしたらひとつ、静かに消えてしまうかもしれない。そしてその瞬間、息子にも、男の子は水色で、女の子はピンク、という固定概念が、生まれてしまうかもしれない。それってやっぱりなんだかすごく、もったいないことだなあと思うのです。声を大にして「それはおかしい!」と、言うほどのことではないかもしれないけれど、でもそれは、単純にすごくもったいないと思う。

だからできれば、学校という一つのシステムの中で、最初から男の子は水色、女の子はピンクという、なんとなくの、大人の「暗黙の了解」に、子供たちを付き合わせるのは、やめてあげてほしいなあと、思う。プリンセスソフィアはいつも男の子の遊びをして男の子に勝っちゃうのだから。そんなプリンセスの、時代なのだから。

現存する生命の「しくみ」はただ一つである。

上野の国立化学博物館で、ものすごく印象的な言葉を見つけた。私はド文系の人間で、なんでも「言語」からしか理解できなくて、何を理解するにも「映像」より「言語」なのだけれど、科学のことを考えるのもやっぱり「言語」からのようだ。いつもそう。

 

現存する生命の「しくみ」は
ただ一つである。

「生物のからだをつくる細胞は細胞膜で外界と隔てられ、生命活動の設計図を持っている。設計図はDNAというすべての生物に共通の『言語』で書かれており、これを基につくられるタンパク質もまた、すべての生物でよく似ている。これは、地球上に現存する生命の『しくみ』がただ一つであり、生き物たちはこの共通性の上に多様化したことを示している。」

なるほどなあ、と、思う。生命のしくみはただ一つ、共通するDNAという言語で設計図が描かれている。その「共通性の上に多様化」している。この「共通性の上の多様化」というのが、すべてなのだろうなと思う。みんなしくみは同じなのだから、だからこそ、みんなちがってみんないいbyみすず、なのであーる。と、思った。

男も女も設計図を描くDNAという言語は同じ。その上で、多様化していく。ピンクが好きな男の子も、水色が好きな女の子もいる。男の子が好きな男の子も、女の子が好きな女の子も、そりゃもちろんいる。肌の色だって様々で、脳の発達だって様々かもしれない。でも、言語は同じなのだ。「共通性の上に多様化」しているだけなのだ。

たぶん子供たちは、そんなことを細胞レベルで理解している。「共通性の上に多様化」なんて言葉を用いなくても、そんなこと肌感覚で分かっている。男の子と女の子は何となく違うけれど、でも「しくみ」は同じであることを、ちゃんと分かってる。その感覚を、大人が邪魔しちゃいけないよなあと、改めて思った。

だからもし次に同じようなことがあったら、やっぱり好きな方を選んでいいよと言ってあげたい。そしてできれば、そんななんとなくの色分けを、システムの側がしないであげられるといいなと思う。

スモックの色一つでたくさん考えてしまった。子育てというのはほんと、いろんなことを考えさせられるものであーる。みすず。

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アスガルドを初めて使うときに必要な物

初心者がアスガルドを買った時一体何が必要なのか

さて、初心者なのにNORDISKを買ったはいいものの、他になにが必要なのかさっぱりわからない。調べてみてもいまひとつよくわからない。というか、なにを言っているのかわからない。なぜならそう、私は初心者だから。

というわけで、もしこれからキャンプを始めたいと思っている人で、これから始めようとしているのにも関わらずノルディスクのアスガルドがどうしても欲しくなったという人が、この世で私以外にいらっしゃいましたら是非参考にしていただければと思い記しておきます。きっと誰かには届く。たぶん。

基本的に全部amazonのリンクを貼ったので、お値段とかレビューとかはそちらからどーぞ。写真をクリックするとamazonに飛びます。便利な世の中であーる。

まず絶対に必要な物。

こちら。アスガルドのフロアマット。アスガルドのテントは、それだけだと床がありません。これがないと、地べたで寝ることになります。これ必至。というかなぜこれとテントが別売りになっているのかそれがもはやよくわかりませんが。どちらかが壊れた時に買い替えられるようにだろうか・・・いやそれなら部品として売れば良いのに・・・

まあよって最初から、このフロアセットを買うのが良いと思われます。ちなみにフロアマットは上のテントの大きさによってサイズが分かれいるので要注意であります。あと、2014年以降は新しいモデルになっていて、フロアマットも変わっているようなので、これまた要注意であります。やはり別売りなのがややこしすぎますぜ姉さん・・・誰姉さん・・・

ここからは、私が独断と偏見で選んだものたちです。これじゃなくても全然良いし、他にも色々な方法があるかと思いますが、とにかく手っ取り早く最初に必要なものを揃えたい!と、いう方はご参考いただけますとこれ幸いです。

では細かいものを一つずつ!

まず、フロアマットの下に敷くシート。いわゆるブルーシート的なやつ。なぜフロアを買ったのにさらに下にシートがいるかとお思いのあなた。思いますよね私も思います。でもこれは必須です。なぜならフロアマットを地面に直接置くと、この大切な大切な、ただの床というだけでいくらするんだといというようなこのフロアシートが、あっという間に真っ黒になるからです。いや床なんだから仕方なかろうとお思いのあなた。実際にこのたっかい床を手にすると気持ちは変わります。今すぐに買いましょう。

アスガルドの、4人家族でぴったりの12.6サイズのテントには、このサイズのシートで大丈夫です。ここのメーカーのシート、大きさの種類が山ほどありますが、これで大丈夫。メーカーは有無を言わさずこれです。ユタカです。初めて聞いたけど、ユタカです。

なんかよくわかりませんが調べまくった結果これが間違いないという結論に達しまして、実際の所なんの問題もございません。そこらへんのビニールシートの100倍くらい丈夫そうです。あと、色があのいわゆるブルーシートじゃなくて、なんとなく落ち着いていて良いです。他にブラックとかシルバーもあります。色はお好みでお選びください。ええ、フロアシートの下に敷くので1ミリも見えませんが。気分の問題です。

あ、あと、プロはこのシートをフロアシートの大きさぴったりに切ったりするようですが、我が家はズボラ一家につき、このままで折って使っています。これまた何の問題もございません。とにかくこの大きさのユタカシートを変えば間違いないです。

続きまして、ホットカーペット。キャンプにホットカーぺットなんて!と、思いますがとにかくキャンプの夜はめちゃくちゃ寒いです。9月すぎたら場所によっては本気で凍えるくらい寒い。キャンプ上級者で、数万円のちょう高級寝袋を持っているならまだしも、そうでないと本気で凍えます。なので、我が家は秋(冬)春の間は、電源が使えるキャンプサイトを選んで、このホットカーペットを敷いています。ホットカーペットは安いやつでなんでも大丈夫と思います。ガシガシ使うので。できれば、コンパクトに畳めるやつだとなお良いかと。

あと、ホットカーペットの下には100均の銀マットがあると良いです。熱が逃げない、気がするので。アスガルドのフロアマットの上は、驚くほど冷たいです。めちゃくちゃ冷えます。ホットカーペットの熱に本気で救われます。ありがとうホットカーペット。
ここまでで床は、ユタカシート→アスガルドのフロアマット→100均の銀マット→ホットカーペット、というところまで出来上がっております。

さてお次は寝るところ。キャンプで寝るためにはそれはそれは色々な選択肢があります。ここが私が混乱しまくったところです。何で寝ればいいのか全くわからない。そして最終的に私が重視したものそれは。見た目。です。アスガルドの中にベッドのようなものがあるのがめちゃくちゃ可愛い。と、いうわけで、寝床はエアベットにしました。

我が家はこの100cmサイズを2つ。これで大人2人、子供2人寝ています。で、これ2つが、2畳のホットカーペットの上にぴったり収まります。ホットカーペットの上でないと、エアマットはめちゃくちゃ冷たくなると思われるので、ぴったりくっつけてホットカーペットの上にエアマットを置くのが吉。

あと忘れがちですがエアマットを買ったら地味に絶対に必要なもの。電池式の空気入れ。これめちゃくちゃコンパクトで、でもあっという間にエアベット膨らませてくれるパワーの持ち主。しかも安い。これだけあれば間違いない。

そしてホットカーペットの上とはいえまださぶい・・・というときに大活躍なのが電気毛布。ホットカーペットと電気毛布どちらかでいいんじゃないかと思っていたのですが、いかんせん私はめちゃくちゃさぶがりでして、さぶいのが一番テンションが下がる。なので結局持って行きました、電気毛布。しかも2枚。

しかし電気毛布ってめっちゃコンパクトです。かなり小さく折りたためる。だから、持って行って損はないのではないかと思います。寝る前は、テントの中でホットカーペット代わりに使ったり、寝るときはエアベットの上に敷いてさらにあったかくしたり。めっちゃ使える。安いし。なんならこの冬、家でも使ってました、電気毛布。見た目はアレですが、電気毛布がある生活っていうのは・・・結構幸せです。まじで。

さて電気製品をこんなに持って行くわけですが、テントから電源までは結構な距離がある。というわけで絶対に必要な延長コード。

これコンセントをさすところがちょうど3つに分かれています。なんとぴったり。そしてこの長さがあれば、たいていの電源サイトで使えるかと思います。ただし本来はこれ防水とかいったわけではないようなので、その辺りは自己責任でというか、気になる人は防水のものを探した方が良いのかもしれません。

さて、防寒準備を念入りに進めましたが、見た目にこだわったエアベットでいったいどうやって寝るかと言いますと。私ですね寝袋が苦手で・・・どうも肩が凝って・・・。と、いうわけでこれはかなり離れ業な気がしますが、家にあるでっかい羽毛ぶとんをグローブトロッターに押し込んで持って行きます。あと、これも家でみんなで使っている無印の「あったかファイバー毛布」を4枚。リンク貼ろうと思ったら季節が季節だからかもうオンラインになかった・・・。無印の毛布、軽くてあったかい(そしてシンプル)なのでおうちでも大活躍ですが、持ち運びもそんなに苦にならない。2枚くらいは、羽毛ぶとんと一緒にグローブトロッターにあっさり入ってしまいます。ほんと。

エアマット→(電気毛布)→無印のファイバー毛布→人→無印のファイバー毛布(2人で1枚)→でかい羽毛ぶとん(4人で1枚)。これで、意外といけます。さすがに子供たちがぐんぐん大きくなってきたので近々これが厳しくなるかと思うのですが、その時はエアマットを一つ増やして、お布団も小さいの2つにするとかして、工夫したら行ける気がする。なんといっても家で使っているものなので、どれくらいの大きさのものがどれだけ必要か、とかが想像しやすくてすごくやりやすいです。

エアベットを2つ並べても、アスガルドの中はまだ広々。この時は、手前に2枚電気毛布を敷いて、その上からペンドルトンのタオルケットを2枚敷いています。子供達は寒くなってきたらここでぬくぬく遊んでいた。

ちなみに、ペンドルトンのタオルケットは定番すぎてどうかと思ったけれども信じられないほど使いやすいのでおすすめです。こうやって絨毯みたいに使ってもいいし、ひざ掛けにしてもいいし。これまた、おうちでも大活躍。椅子に座って、電気毛布とペンドルトンかけて、本読んでると至福です。これだけでキャンプ気分。何してるんだろうわたし。

そして、これはテントの外でも絶対に必要なのだけれど、中でも必要なランタン。アスガルドの中で我が家が使っているのは、スノーピークのたねほおずき。

見た目が可愛い。かなり小さくて、めちゃくちゃ明るいわけではないけれど、寝る前のリラックスタイムとかにはちょうど良い明るさ。このオレンジの丸い部分が磁石になっていて、アスガルドの真ん中のポールに磁石でくっつけてぶら下げることができます。めちゃ便利。電池のランタンなのでテント内でも安心。

もひとつ、電池のランタン。(LEDランタン)

これは結構明るい。中でも外でも使えて便利。あと、家に置いておくと非常時にも使えて良いと思います。子供達が寝静まったあと、テントの中で本読むにも読書灯になってくれる。とにかくひとつあると便利です。もちろんテントの外でも使える。

たぶん、これでアスガルドの中で快適に寝られるはず。と、思います。これは本当にあくまでも我が家の場合、ですが。たぶんアスガルドって、二つ目とか三つ目のテントに買う人が多いような気がします。だから、ある程度キャンプに必要なものを、理解して持っている人たちがほとんどで、テントに必要なものを何も持っていないわたしのような人は、アスガルドで寝るために何が必要なのかいざっと調べただけではさっぱりわからず、準備にえらく時間がかかり、かつ実際にキャンプへ行くまでとっても不安でありました。本当にこれで寝られるのかと。なので、もし仮に私と同じような境遇の人がいたとしたら、何かのお役に立てますとこれ幸いにございます。

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息子の修了式を終えて

何から書いて良いものやら。3月吉日、息子の保育園の修了式でした。今の園では3年間。前の園も合わせると6年間の園生活。泣ける。本当に泣ける。

保育園も自分で「選ぶ」こと。

私にとって、初めての子供である息子。当たり前なのだけれど、喜びも戸惑いも何もかもの初めてを、教えてくれた子供です。

保育園に預けるということに関して、6年前の私は、もう本当にものすごくものすごく戸惑いがあった。不安も、これでいいのだろうかという迷いも、山ほどあった。産休前、本当に仕事がしんどかったこともあって、私の仕事はこの小さな子を預けてまで続けてゆく仕事なのだろうか、そんな価値があるんだろうか、と、悩んだ。誰に「保育園はいいよ!お母さんの味方だよ!」と言われても、「子供はすぐに環境に慣れるよ!」と言われても、全く気持ちは落ち着かなかった。誰がなんといっても私は、目の前の息子とまだ一緒にいたい、そう思っていたのだと思う。

5月生まれの息子と、1歳を過ぎるまではどうしても一緒にいたくて、0歳での入園を見送った。だいたい0歳児のクラスに4月で入園する、というのが通例だったのだけれど、そのタイミングじゃないと保育園に入れない!という状況の、なんというか不自然さも納得できなくて、(だって生まれ月によって預ける月齢や預けやすさが変わってくるなんてどう考えてもおかしい。)納得できないことに関してはすぐ意固地になってしまう私はどうしても4月に預けられなかった。周りの友達がみんな4月に入園して、職場復帰してゆく中、そういえばなんかちょっと寂しくて不安だったなあ、今思い出した。(そう、私はなんでもすぐに忘れる。)

その後運良く、「そろそろ預けて良い頃かな」と自分で思えた頃に、近くの保育園に空きが出て、入れることになった。(それでも不安だらけだったけれど。)そして最初に出会ったその小さな小さな園が、もう素晴らしい園で、「保育園」というものの印象がここで大きく変わったのだと思う。だからみんな「保育園っていいところだよ!」って口を揃えて言ってくれてたというのに、私というのは本当に何事も、自分で経験しないと納得できない性格なんだろうな全く。

最初の園は2歳までの小規模園だったので、その後今の園に転園したわけですが。この時も、「納得できないことには意固地になる」私は、いくつか園を見学して、ここがいいな、と思える園が少ししかなくて、結局希望を数園しか出さなかった。いや本当、このご時世入れなかったらどうするんだという話ですが、でも、やっぱり、何も私立のお受験幼稚園に入りたいと言っているわけでも、国立の難関幼稚園(なんてものが存在するかはわからへんけど・・・)に入りたいと言っているわけでもなくて、近所の、いいな、と思った認可の保育園を希望しているだけなのに、それが選べないどころか、どこにも入れません。と言われる状況というのは、やっぱりおかしい。と、思ったのです。

だから、希望をたくさん書ける欄に、数園しか書かなかったのは、私なりのなんというか現状への抵抗でした。世の中の状況的にはありえないけれど、でも普通に考えれば、ごく自然なことだったと、やっぱり思う。

もちろんそうできたのは私の場合はいろんな恵まれた環境が重なってのことだったけれど、本来やっぱり、小さな子供を預ける園は「どこでもいい」わけがないし、ましてや「どこにも入れない」なんていうのはおかしい。と、私は思います。この状況は早く変わっていくといいなと思う。「どこでもいいから入れるだけそれでいい。」って、それは実はすごく不自然だと思うから。(そして私の実感では、私が初めて子供を預けた6年前よりは格段に良くなっている気がしています。声を挙げる人も多くなってきたから。)

「働くこと」と「子育てをすること」を自然に

そういったわけで、ここにしたい、と思えた園なだけあって、次に入った園も本当に本当に、素晴らしい園でした。先生たちから学ぶことが、山ほどあった。そうそう、こういうこともあった。→ 保育園の発表会にて思ふ。

今の園に通うようになったのは、下の娘の育休明けのタイミングからで、2人を保育園に預けての仕事復帰というのは、これまた新ステージでした。それでもその時には、息子を初めて保育園に預ける時のような不安はもうなかった。

保育園がある生活を通じて、「働くこと」と、「子育てをすること」の両方をすることが、(決して「両立」してるわけではないのだけれど)私の中で自然なこととして受け止められるようになったような気がします。何を気負うわけでもなく、我慢するわけでもなく、諦めるわけでもなく、ただ自然に、やりたいことをやる。働きたいから働くし、もちろん子供がかわいいからその時間も大切にする。決して独身の頃のように「バリバリ働く!!」といったわけではないけれど、ただ自然に「目の前にあることをこなしていく」ということを、楽しめるようになった気がします。それはまちがいなく、保育園の存在があったから。そこで、息子がたくさんの人の愛情をひたすら浴びているという実感があったから。

どんなことだって、何もかも100%のことやモノなんてまず一つもない。100%完璧な人なんていないのと同じ。弱いところだってもちろんある。だから、100%の保育園だってないかもしれない。でも私もオットも息子も、今まで通った園が本当に本当に大好きです。ただそう思えることが、きっとみんなにとっての宝物なのだと思う。多分なんだって、「これだ」と思えたら、それを信じることも大切なんだな。このかけがえのない日々がきっと、息子にとっても私にとっても、後から大きな励みになるよう気がする。

私は母を亡くしていて、実家は遠方で、とにかくサポートがない中での出産と子育てがすごく不安だったのだけれど、そういう不安を妊娠中に助産師さんに話した時に、「子育てって、両親とか、おじいちゃんおばあちゃんとだけしなきゃいけないものじゃないんですよ。たくさんの人で、友達とか、周りの人みんなで、ワイワイ育てていったらいいの。想像したら楽しそうでしょ?友達とかみんなで、ワイワイ育てていくイメージ、持っていてくださいね。」と、言ってもらったことがあった。その言葉にすごく救われたのだけれど、まさにそんなイメージで、息子をここまで育ててきたなあと思います。

私一人じゃない。私とオット二人じゃない。そうじゃなくて、友達とか、もちろん実家の家族とか、そして保育園の先生とか、今となっては息子自身の友達とか、とにかく周りの人みんなでワイワイと、息子をここまで育ててきたような気がする。そして息子は、その人たちの愛情を、本当にもうこれでもかってくらい存分に、浴びに浴びてきたと思う。子供にとって必要なのは、まずは愛情だ。何をおいても愛情だ。と、この6年間を通じてとにかく感じました。

そう思えたのはやっぱり、息子が素晴らしい園に、先生たちに、そして友達に出会えたからなんだろうなと思う。息子を通じた世界を見ながら、私もたくさんのことを学びました。きっと一人じゃ気付かなかったこと、見えていなかったものがたくさんあると思う。それに気づかせてくれた息子と、そして周りでワイワイと一緒に息子を育ててきてくれた、いろーーーーんな人たちに感謝して。

また4月からの新生活、家族で悩んだり迷ったりしながら決めた道、歩んで行きたいと思います。これからもみんなでワイワイ、息子を育てて行けますように。そしてたくさんの人たちが、楽しく仕事をしながら、あるいは好きなことをしながら、楽しく子育てができますように。

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初心者キャンプのすすめ。

初心者でも妥協せず!

昨年秋よりすっかりハマっております、キャンプ。すこーし暖かくなってきたので、今年初キャンプへ出かけました。

泊まりでのキャンプは3回目。ようやく、要るもの要らないものがわかってきた感じ。初めて、「新しいものを何も買わずに行ったキャンプ」でした。そして何も買わなさすぎて、必要なガスランタンのガスまで買いそびれてガスランタンが使えず、「消耗品は毎回チェクする」を、覚えたキャンプでした。

初めてのキャンプは去年の9月。テントとタープはレンタルをして、その場で必要なものがあればレンタルする、という形でした。いやはやこれがほんとーーーーうに楽しくって、次回は是非自分たちのテントで!と、決めたのでした、そういえば。

キャンプグッズって本当に色々あって。もうそれはそれはものすごくて。これはどえらい世界に足を踏み入れてしまったな、と、思ったのだけれど。

とにかくちょう初心者の私が今思うことというのは。

初心者でも妥協せず欲しいものを買おう。と、声を大にして言いたい。テントを買うとき、「初心者用」を最初は調べていたのだけれど、調べれば調べるほど欲しくなるテントがありまして。しかもいい値段するやつ。しかもやたらでかくて重くてお手入れもそれなりに大変そうなやつ。そうNORSISKのアスガルド。

欲しいものに出会ってしまったら、もうどうしてもそれのことしか考えられなくなる、そして、ここでちょっと妥協するとのちのち妥協したものに満足できず再度買うはめになり結局高くつく、と、いうことは、この長い洋服好き人生においてものすごくものすごくよくわかってしまっている人生の真理のようなものである。いやまじで。だいたいそのくらいのことしか学べてない、うん。

ですので、数ヶ月悩みに悩み、アウトドアショップへ出向いてはいろんなテントに入ってみて寝転び(怪しい)、それでもやっぱり諦めきれず、冬のお洋服を数着諦めて買いましたこのテント。はい。

最初はえーそれいるー?もうちょっと普通のテントでいいんじゃないの・・・と、渋い顔をしていたオットも(我が家では一般的なキャンプ一家と違いツマがすっかりキャンプにはまりオットはそれに付き合わされているというよくある家庭とは逆転現象が起こっております。)実際に設営したテントを見てさすがにテンションが上がっておった。それくらいに、このテントは、いい。ものすごくいい。テンション上がります。

コットン素材の温かみが合って、なにより中が広くて、ちょっとした棚とかチェアなら余裕で置けてしまう。なんかもう普通に、もう一つのお家ができたみたいな感じ。「寝るだけ」じゃなくて、そこでお酒を飲んだり本を読んだり、「過ごす」ことができる。いやもうですね、こう言ってはなんですが、最高です。

今まで知らなかったのだけれど、テントの中ってなんだかものすごく落ち着く。

テントの中も自然の中も最高に落ち着く

私はあんまり(というか非常に)丁寧な人間ではないので、いえ自慢することではないのですがですね、本当に丁寧な人間ではないので、つまりかなり大雑把でてきとうな人間なので、いわゆる「グランピング」ほど整ったキャンプはできないのですが。見ての通り写真を撮ろうにも散らかってますしねテントのなか・・・。でも、そうは言ってもなんといってもそこは「キャンプ」なのです。あまり細かいことは気にせず、まいっか、と、思える空気がそこにはあるのです。だってキャンプだから。(それはキャンプでなくてもいつもじゃないかというのはまあ置いておこう。)

そして、なんといってもそこは自然の中なわけで、昼間どれだけ子どもたちが歌おうが踊ろうがはしゃごうがケンカしようがそこまで気にならない、というのも素晴らしい。そりゃ夜10時を過ぎてはしゃいでたら困りますが、なんせ夜10時には遊び疲れた子どもたちは爆睡です。昼間は、広々とした自然の中、子どもたちのはしゃぐ声というのはひたすらに可愛いものとしてそこに存在します。これはすばらしい。

一応、エプロンをつけてお手伝いをしてもらうのだけれどもその姿もやたらとかわいい。すばらしい。

そしてやっぱり、外で読む本っていうのはいい。昔、カンボジアのアンコール遺跡にもたれかかって遠藤周作の「深い河」を読んだのだけれどそれがもうすごく良かったのです。本というのは、基本的にどこで読んだって、その本の中の世界に入り込んで行けるもので、それが本の素晴らしいところなのだから、つまりは読む場所なんて関係なさそうなものなのに、やはりその「場」の力で読める本ってあるのだなとその時に思ったものです。なかなかアンコール遺跡と「深い河」みたいな組み合わせというのはないけれども(それだってたまたま読んでいた本がそれだった、というだけだったし)それでも家の中だけでなく、外に持ち出した本というのはまた格別です。そして私は運転しないので常にワインを飲んでいられるという。はい最高です。

話がそれましたが、そんなこんなでキャンプ最高、テント最高、ワイン最高、という話。そしてやはりこれだ!と思ったものに関しては妥協してはいけませんねというお話。もちろんそこには、こだわりのバランス(参照→春物スイッチと、こだわりのバランス)が、大切だけれど。とか他の記事にしれっとリンクを貼るのは結構恥ずかしいのだけれど。いやでも頑張る。なにを。いやまあ何かを。

春はまたたくさんキャンプ行けるといいな。

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ランリュックを知っていますか

クリームブリュレが好きすぎる。

どうしても書きたいランリュックのこと

できるだけ毎日書きたいなあと思いながらもちろん毎日は難しいわけですが、それでも書きたいなあと思ってメモしていることはいくつかあって、それだというのにそれらを全てすっ飛ばして真っ先に記しておきたくなったこちら。まずはこちらの記事を御覧ください。

あいつらがまた変なものを作ったようだ。宇治市観光PR動画っ!

そしてリンクにある動画を御覧ください。笑った、笑ってしまった、笑いすぎた、そうランリュックのくだり。

知ってますかランリュック。京都府南部出身の方ならご存知かと思いますが黄色いアレです、ランリュック。

昨今のランドセル事情ときたら本当にすさまじく、未就学児ならびに小学生を持つ親御さん以外の方にはにわかに信じられないかと思いますが、希望のランドセルを買うために2時間も3時間も並ぶのがザラ、というもんのすごい状況が、この前の6月頃話題になりました。(そうです、6月に買うんです、ランドセルを。年長の6月に。)

我が家も堂々とその騒動に巻き込まれ、いや2時間も3時間も並んではいませんが、とりあえず生まれて初めて開店と同時に百貨店に駆け込みました。HYKEのトレンチ買うときだってそんなことしてない。いやいまだかつてお店の開店に並んだことなど一度もない。そう、その初めてが、「ランドセルを買う」だったのである。これはすごい、すごいことだ。

いやランドセルを買うのにそんなに必死になるのもどうなのかと思いつつ、まあでもついついこだわりたくもなりつつ、まあやっぱりせっかくなら気に入ったやつが欲しいよなとも思い、しっかりランドセル商戦に巻き込まれたわけですが、その時に私は思ったのです。

てゆーかランリュックでいいやん。

そう、これです。ランリュック。この黄色と黒のコントラスト、堂々と光る校章、ついでに真ん中向かって右くらいにあるコアラかライオンかネコか何かわからへんけどとにかくこの丸いアイコン。これぞランリュック。

ランドセルよりランリュックが良い10の理由。うそです10もない。

開店と同時に百貨店に駆け込んで買っておいてなんですが、そもそも重い、ランドセルというものは。あれを背負って、しかも教科書とか荷物をいっぱい入れて、毎日通うなんて。信じられない。いや買っておいてなんですが。

しかも、高い。ランドセル。母さんのえらくいい靴一足買える。

その点、ランリュックは完璧である。軽い。荷物めっちゃ入る。そして安い。多分数千円。

もちろん、これを買うために商店街の洋品店に2時間も3時間も並ぶ必要はなく、開店と同時に駆け込む必要もなく、ただおばちゃんに「あーあんたんとこももう小学生なるんか。早いなあ。あんなちっちゃかったのになあ。」と言われながら数千円を払うだけである。いい。これでいい。

もちろん、入学式の写真は、おめかししたワンピースにこの黄色いランリュックを背負って桜の木の下でちょっと恥ずかしそうに立つのである。いい。それでいい。

いやほんともう、完璧である。ランリュックというのは。

私は子供の頃、ランドセルというのはなんかこうテレビの中とか遠い世界の話で、小学生というのは普通はみんなランリュックを背負うものだろうと思っていた。だいたい革の鞄を小学校に持っていくなんてありえないと思っていた。あと「中学生日記」で学校の帰りにマクド(らしきハンバーガーショップ)に寄り道するのとかもおとぎ話くらいの勢いに思っていた(学校から家までの間にマクドなんてなかった。)

それが全てだと思っていて、でも一方で、やっぱり都会のもの(ランドセルとかマクドとか)に憧れる気持ちも少しずつ出てきて、それはきっと、いつしか上京しよう、という決意につながっていったような気も、しなくもない。

と、思うとやはり今の自分はランリュックが育ててくれたと言っても過言ではない。やはりランリュックは偉大だ。小学生はみんなランリュックから始めるといいと思う。問題はやや、ほんの少しだけ、いやほんと、ちょびっとだけですけど、ださい、ということその一点です。

今もあるのかなランリュック。

という、どうしても何を差し置いても記しておきたかったとても大切なランリュックのお話。

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「いやだ」と言っちゃってもだいじょーぶ。

だいたい週に2回くらい、会社のゲートでピッとsuicaをかざすようになってきた。なかなかキテいる証拠です。3月ですね。

3月のキリン

言いたくなっただけ。3月のライオンにかけてみましたとか言ったらほんとそろそろ怒られそう。

3月になり、いよいよ息子の卒園が近づいてきました。考えたら泣きそう。なので考えない。ちょっと別の視点からのお話。

卒園に向けて保護者主体のイベントや行事も増えてきます。たぶん多くの人は、当たり障りなく、「何となくみんなが出席するイベントだから」とか、「子供のため・・・」とか、そういった気持ちも含めて、行事には出席するし、役員は続けます。それはもちろん私も含めて。それが「多数派」です。

もちろんイベントが心から楽しみだとか、子供のためになることを本気でしてあげたいとか、そういう気持ちももちろんある。それはもちろん私も含めて(と何度も繰り返す)。でもどちらにしても、その「本気でやりたい」度合いがどれくらいのレベルにあるにしても、とにかく結果的に私たちは「多数派」を選ぶ。そして、自分は「多数派」だろう、と、認識する。(そして少しの安心感を得る。)

ところで、いつの世も、保護者(というか人間)が集まるとそれなりに小さいトラブルのようなものも発生します。そして私という人間はほんとうに人間的に未熟ですので、そういったトラブルの種を見つけるやいなや全力で逃げます。ええもうだめな大人ですね。しかしこれはもう致し方ない、神様が与えたもうた性格なのです。許して仏様。(意味不明)

そしてだいたいいつも面倒なことから距離を置くわけですが(ほんとうにすみません)、そうすると、何があったか背景はわからないけれど、結果として残ること、つまりあの人は今回の行事に出席しないとか、役員を降りた、とか、そういう「結果」となることだけを知ることになります。

だいたいのことは「ああそうなのか。」といったレベルで受け止められる

「行事に出席しない」とか「役員を降りる」という選択は、「多数派」ではない。あくまでも少数派なわけで、もちろん一部の人たちからは「協調性がない」とか「子供がかわいそう」(ところでこのフレーズは本当に他人が発する言葉ではないですよね条例で禁じたらいいと思います。)というネガティブな声も出るやに思います。おそらく。たぶん。

と、そうは思うのだけれども、「トラブルの内容はよくわからないままだけれどもとにかくその結果だけを知る」といういつものパターンを繰り返す私がここで気づいたこというのは、例えば「行事に出席しない」という結論を出した人のことを、いやまあ特になんとも思わないな、と、いうことです。「変わり者なんだなあ」とか「あんまり近づきたくないなあ」とか、ましてや「そんな親の子供はどんな子なんだろう」みたいなことは、特にというかまったく思わない。

まあ「多数派」ではないのだろうし、そういう意味ではちょっと変わっているところはあるのかもしれないなあとちらりと思う程度のことはあっても、だからと言ってまあ基本的に「ああそうなんだないろいろあったんだろうなあ。そういうこともあるよなあ。」くらいのことしか思わない。何かを詮索しようとも思わないし、もちろん何かを説得しようとも思わないし、「ああそうなのか。」というのが、ほぼすべての感想なのです。

で、思うに、これってだいたいの人の感想なのではなかろーか、と。いろいろ言う人が少しはいるにしても、その声が大きく聞こえがちだとしても、もしかすると世の中の多くの物事は、「ああそうなのか。」といったレベルで他人に受け止められるのかもしれない。

「いやだ」と言っても大部分の人は「ああそうなのか。」と思うに過ぎない

これを視点を自分にして考えてみると、もし仮に自分が何かいやなことがあってそれを「いやだ」と口にした時、もちろん「けしからん。」という人は一定数いるにしても、大部分の人は「ああそうなのか。」と、思うに過ぎないのだろうな、と、いうことです。ちょっとくらい「変わってるなあ」とは思われるかもしれないけれど、でもその程度。

自分がやりたくないことがあったとして、それを断るのって、いろいろ考えるとすごく高いハードルのような気がしてしまうけれど、実はそんなに高いものじゃないんじゃないかな、と、思います。本当にやりたくないことをやるのと、ほんのちょっと「変わってるなー」と思われることだと、よくよく考えてみれば後者の方が圧倒的に楽。だいたい「ちょっと変わってるところ」なんて、誰も彼もみんな持っている。

もちろん保育園のイベントというのは一つの例であって、それを否定するわけでも、頑張って取り組むことを冷ややかに見ているわけでもなくて、実際私自身はみんなでワイワイいろんなことができてすごく楽しかったし、交友関係も広がったし、行事に参加するのも係をやるのも結果的には良かったなあと思っています。

ただ、それだってなんだって、基本的には「やりたい人がやればいい。」と、思うのです。それはどんなことだって同じで。本当に嫌なことに対して、「いやだ」と言ったって、自分が思ってるほどのリスクは実はないのだと思う。むしろ、本当に嫌なことを無理してやる方が、ずっとずっと不健康だし、長い目でみればものすごいリスクになると思います。

ほんとーーーにいやなことは「いやだ」と言ってしまうのが大事だな、と思う。それで失うものって、実は自分が思うほどないのだから。というか守るものこそあれ、失うものは多分、何もないのです。

全然そんなに、たいしたことないのです。

そんなことを、ふと考える3月中旬。ああもう中旬。仕事も大詰め年度末。ああ年度末。

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洋服の好きなテイストは変化するのか、という話

「好きな服を着る」「好きな服を買える」モチベーション

よく考えてみると長いこと洋服が好きだなあと思うし、自分の人生において「好きな服を着る」「好きな服を買える」ということは、結構大きなモチベーションになっているのだなと気づく。

中学生や高校生の頃、自分のお小遣いの範囲ではなかなか欲しい洋服が買えなかった。まあそりゃあ当たり前なのだけれど。だから例えば母の昔の服をリメイクしたりだとか、今では絶対にやらないけれど(特技:不器用だから)、家にある布でスカートを作ったりとか色々と工夫しながらなんとかかんとか自分が着たい洋服を着ていた。いつか好きな洋服を好きなだけ買えるようになってやるぞ・・・とか思いながら。

そしてその思いは基本的にずっと自分の根っこにあって、大学の時は多分服を買うためだけにバイトをひたすらしていた。時には授業にも出ずに。いや良い子の皆さまはそんなことしてはいけません。(しかし大学で学べることというのは本当に限られていて、私が大学で見つけたのはまあ数人の友達とオットくらいである。たぶん。)

でも大筋はおそらく今も変わらず、「好きな服くらいは自分で選んで自分で買いたい。」という気持ちは今も働くことの大きなモチベーションになっている。結局少ないお小遣いの中でなんとか好きな服を着るために試行錯誤していたあの頃と、今も大きく変わっていないのかもしれない。どこかで「もっと」と思いながら、少し背伸びをしているのかもしれない。

そういう「服が好き」という根底にあるものや、それをモチベーションにしているところはどうやら変わっていないようなのだけれど、じゃあ好きな洋服のスタイルというかテイストというのは、大枠は変わっていないのだろーか、と、ふと思った。

好きなテイストは流行とともに変化する

結論から言うとこれは変化する。と、私は思う。高校生の頃ものすごいガングロギャルで、ある日思い立って美白をして、お姉さん系のカッコ(ってなんだ)に変化し、それに飽きて今度は古着ばかり着るようになる、といったような大きな変化があるわけじゃないにしても、ほんの数年の単位で、好きな色やテイストや例えばブランドだって、ある程度は変わっていく。それはもちろん、中学生の時にしていたカッコを今もするというのはありえないわけで、スタイルは(おそらく体型含め)変化していからというのもある。

そしてもう一つ、それはおそらくファッションというものが「流行」という波を大きく作っていく業界で、それとは切っても切り離せないものだというのも大きいのかなあと思う。

衣食住において、食や住は「流行」の影響をそこまで大きく受けるものではないけれど(そりゃもちろんナタデココやパンケーキやアサイーやチアシードなどの流行はあれど。)どうしてだか「衣」は流行と切っても切れない関係にある。そして「衣」は流行に振り回される、往々にして。

それについてとやかく言う人はもちろんいるだろう。「流行に振り回される」という言葉は、だいたいにおいてポジティブな意味では使われない。でも私は思う。「流行に振り回される」のはそんなに悪いことなのだろうかと。「流行に振り回される」のは、流行を楽しむことでもあるんじゃないかなと。そしてそれは、「衣」を、洋服を纏うことを、楽しむということなのではないかと。

流行というのは、何も隣の人と同じものを着る安心感を得るために存在するのではなく(そういう人ももしかしたらいるのかもしれないけれど)新しい何かを楽しむきっかけでもあると思う。ずっとヒールばかり履いていたけれど、数年前にスニーカーを履き始めたのは明らかに「流行に振り回された」結果だけれど、おかげで洋服を選ぶ楽しみはぐんと増えた。持っていた洋服が新鮮に見えたし、選ぶ洋服も少し変化したかもしれない。そしてそれはとても楽しい変化だった。

その流行には、業界のマーケティング戦略が存分に組み込まれているのかもしれない。バレンタインデーやハロウィンやイースターのように、そこに生まれるお金の流れを期待する人というのは一定数いるのかもしれない。それでも、そうだとしても、まあ自分が楽しければそれでいいじゃないか、と思う。多かれ少なかれ、誰もがマーケットのターゲットであることには違いないのだから。

流行というフィルターを通して見える世界というのは、ある程度自分にとっては新鮮な風を運んでくれるもののような気がする。その風を通じて、少しずつ好きなスタイルやテイストが変わっていく過程というのもまた、楽しみの一つだなあと思う。

それでもその奥にある軸を大切にすること

ただ、そうはいっても、多分この歳になってくると、やっぱり他のものと同じく、軸の軸まで突き詰めていくと、多分好きなものというのはある程度変わらないというのもまた事実なり、と、思う。それはもしかしたら他人にはわからないことかもしれないけれど、そして言葉には表せないことかもしれないけれど、ある時はものすごくハデで、ある時はものすごくシンプルだとしても、そこには自分にはわかる確固たる軸があるのかもしれない。「カジュアル」「きれい系」「原宿系」みたいなファッション誌的分類では言い表せない軸が。(それにしても例えが古い)

「ちょっとひねりのある変わった形が好き」「どこまでもシンプルだけれど、体にそう形がきれいなものが好き」あるいは「とにかく黒が好き」。その人にはその人の、それは流行とは別のところにある、その人の歴史が影響したスタイルや好きなものがあるのだろうと思う。それはたとえばその人の性格と同じく、内面から外面から、あらゆる影響を受けて形作られていくもののような気がする。そして多分そういうものは、大切にした方がいい類のものだ。それを突き詰めていくと、洋服を選ぶ時の迷いが結構なくなってくるような気がしている。

好きなテイストは変わってゆく。それは洋服を楽しむという意味で、ポジティブに捉えていいと思う。でも同時に。自分が形作ってきた何かを、その好きなスタイルを、大切にしていきたいなあと思う。「流行」だけを見て、隣の人と全く同じカッコをするというのはそれはやっぱり、楽しいものではないから。

なんだって、「大事なのは変わってくこと、変わらずにいること。」byマッキーなのだ、たぶん。(それにしても例えが古い)

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うれしいとスキップをするアラフォー(アラウンド4歳)から学ぶ

「絵に描いたような瞬間」によく出くわす

最近、むすめ(4月で4歳、つまりアラフォー)が、うれしいことがあるとスキップをする。

うれしいことというのはつまり、「今日の晩御飯は(母さんが疲れているので)サイゼリヤにしよう!」と言った時とか「おやつ一個ローソンで選んでいいよ。」と言った時とか「今日のお迎えちょっと早いよ(10分くらい・・・)」と言った時、ということである。

なにもシャネルのバッグを買ってあげるよとか宝くじ当たったよとか4月から君は部長だよとかそういうことを言われた時ではない。

しかしむすめは、大人から見ればえらくささやかであろう喜びを、本当に絵に描いたように、スキップに込めて全身で表してくれる。これを見ていて大人である私はつい笑ってしまう。だってうれしくてスキップする、なんて、まずもうしないから。漫画みたいだなと思って笑ってしまう。人はうれしいとスキップをするのか。と、改めて思う。なんだかちょっと滑稽で、そしてとてつもなくかわいい、うれしくて思わずスキップをする姿。

子どもたちを見ていると、こういう「絵に描いたような瞬間」というのに結構よく出くわす。「ティッシュペーパーを一枚ずつ全部出すいたずら」とか、よく見かけるけど我が子がそんなことをするなんてなぜか全く思っていなくて、ほんとにやった時は「これまじでやるの!!」と、妙に感動した。ほんとうに赤子はティッシュを一枚ずつ全部出すのか・・・!と。そしてその状況って、何かで絶対見たことがあったはずなのに、目の前で我が子がするとあほみたいにかわいい、なんでだろうか。

コントみたいにベタな面白さと、ベタなしあわせ。

たぶんなんだって、「ちょっとコントみたいな日常」というのは、なんだかおかしくてかわいいものなのかもしれない。昔、みんなで飲んでる時に、先輩が酔っ払って椅子に座ったまま寝落ちっていたのだけれど、なんかのはずみで笑った瞬間に椅子から落ちてそれがベタベタなコントみたいでおかしくてお腹がよじれるくらいにみんなで笑った。と、今書いていて思ったけれどこれは別に文字にすると何一つ面白くない。びっくりするくらいに面白くない。ゆえにこれは単にみんな酔っ払ってたから面白かっただけかもしれない。こういうときこの面白さは世界共通だきっとあの人だって笑うに違いないとか思っておそらく仕事中であろう同僚とかに電話とかしちゃったりとかしがちですけどほんとこれ最悪ですよね酔っ払ってる人の「面白い基準」ほどひどいものはないですよねほんとすみません反省します。

それは反省しますが、例えば吉本新喜劇ではみんなが椅子から転げ落ちるのがお決まりですが(最近見てないなあ吉本新喜劇・・・見たい・・・)それはやっぱりベタすぎるけれどもやっぱりおもしろい。初めて生で吉本新喜劇を見たときは、「本当に転げ落ちるのか!」と、これまた感動した。

なんだっけ、椅子から転げ落ちる話やっけ。椅子から転げ落ちた先輩は実は「仕事は楽しい方がいいでしょ」という名言を残した先輩と同一人物でこの人はやはりすごいという話やっけ。

いや、そうではなくて、ベタベタなコントとか漫画みたいなことが目の前で起こった時っていうのは、なんだか面白い。そしてなんかキュートで和む。やっぱりコントみたいに椅子から転げ落ちる人が目の前に表れるとものすごくおもろいのである。コントかよ!と、いうツッコミができる時ほど、日常でおもしろい瞬間はない。と、私は思う。というか、私はその瞬間がものすごく好きなのだ、きっと。

そしてふつーに過ごしていても、そういう瞬間というのは、実は結構たくさんある。何も椅子から転げ落ちなくても、その辺に山ほど転がっている。道端にうそみたいにバナナの皮が落ちていたりする。いやほんとに。

そして同時に、ベタベタなしあわせっぽい瞬間というのも、結構たくさんある。子どもが手をぎゅっとつないでくれたとか、「ママだーいすき!」って言ってくれたりとか「ママの作るちらし寿司がいちばんおいしい!」って言ってくれたりとか。いやこうして文字にするとベタすぎてうそっぽさまで出るけれども、子どもってほんとに、そういうベタベタで信じられないくらいストレートで、でもほんとに素直でうれしいことを、いとも簡単に表現してくれる。

なんというか、日常っていうのは、それくらいのテンションでいいなあと思う。何も奇をてらうことはなくて、ふつーのことが、とてもおかしくて、かわいくて、しあわせなのである。

SNSにあふれる「ステキな生活」に憧れるのも良い。それを目指すのだって良い。でも真四角に切り取られたその写真は、もちろんとてもとても長い一日の、そして人生の、ほんの一瞬の切り取りに過ぎない。それを、忘れちゃいけないなあと思う。その真四角の写真には切り取られていない、たくさんのふつーーーーーの、でもつい笑っちゃうような、すてきな瞬間が、人生には山ほどあるのだ。

うれしいことがあればスキップしちゃうような、それくらいの軽やかな気持ちで、毎日を過ごしてゆけるといいなと思う。うれしくてスキップする、というのは、SNSもインターネットもなかった時からきっと存在した世界共通の「ベタベタな行動」なのだから。

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走ることは出産のようだ、全然違うけど。

走り始めて約1か月のとりあえずのキロク

ハワイで走り始めて早1か月。ここのところは全然走れていない、週1回も走っていない。そんなへなちょこですが、できるだけ定期的に走っていきたいなと思い始めている。ので、ものすごおおおおおおく初心者の今の気持ちを一応残しておこう、と、思いついた。

1年後、ペーペーのくせにこんなこと言ってるわ・・・と、思うのか、この時から全然成長していないな私・・・と、思うかは、今の所もちろん全くわからない。

普段から走っている人にとっては何ら面白くないというかふざけるなといった話かと思いますが、初心者の記録なので大目に見ていただけますと幸いですほんとごめんなさい。(先に謝る)

ハワイでは海までの道をだいたい往復3キロ、4日間毎日走った。ワイマナロのきちんと舗装されていない道だったというのもあってか、というかまあ走るのなんて何年ぶりだろうというのも、3キロちょっとでゼイゼイハアハア言って全然走れなかった。いや、走ったのだけれど、その距離ですっかり疲れ果てていた。

毎日きれいな海まで走るのはなんだか楽しかったような記憶もあるのだけれど、それはハワイのきれいな海を見ながら走るというのはそりゃあ楽しかろう、という、過去を振り返ってなんとなく美化されている感覚のような気もしている。実際走ってる時はもっとしんどかったのかもしれない。

東京に戻ってから走ってみると、高低差は意外とあるものの、東京の道というのはやっぱりきれいなのですごく走りやすくて、一気に5キロまでは走れるようになった。それでもやっぱりしんどいものはしんどい。会話を楽しみながら軽やかにジョギング、とかよく言うけどあんなの絶対無理だ・・・と、何度も思う。でもなんとなく、ある程度距離を走ってみたいなあという感覚も生まれてきた。昔から、「早く」は苦手だけれど「長く」は結構得意だったような気がする、そういえば。いや、この時点でまだ5キロしか走ってませんけども・・・。

そして今日は、「10キロ走ろう」と、なんとなく決めてスタート。iPhoneせんぱいの「1キロ通過・・・」「2キロ通過・・・」を励みに走る。いやもう途中6キロ地点くらいが本当にしんどくて、なんでこんなことをしてるんだとか、なんでこの道上り坂なんだとか、そもそも私はなんで走り始めたんだとか、なんで10キロって決めたんだ別に5キロでいいじゃないかとか、そもそもこの靴もしかして走りづらいんじゃないのとか、だいたいこんなしんどいことをするとかあほなんじゃないかとか、まあもう色々な思いが巡る巡る。あほなのかな私うんあほなのだなと結論づける(※あくまでも個人的な見解です←よくあるテロップ)

※あくまでも個人的な見解です

なのだけれど、8キロすぎて9キロすぎて10キロが見えると、やっぱりうれしくなってきて、これはいけるなという感じがしてくる。ただし、5キロ走ってた時とは違って、ゴールが見えてくるからスピードアップ・・・とはいかず、物理的に足が結構痛くなっていて、機械的に交互に足を前に出すことしかできなくなっていたのでタイムはほぼ横ばいで上がらず。(ただ先週5キロ走った時から1キロ当たりのタイムは落ちてもいないのでそれはそれでよく頑張ったと自分で自分をほめてあげたい。と言ったのは誰やっけ。オリンピック選手やったっけ。)

これに関しては、初めて10キロ走ったからまあ足もびっくりしたのだろうとは思うけれど、とはいえたった10キロな訳で、世の中にはもっと長い距離を走る人もいるわけで、というか、実感として人間はきっともっと長い距離を走れるだろうという感じはあって、そうすると走り方とかももっと足に負担がないように気にした方がいいのかもしれないと思ったりした。これは課題。メモ。

そんなわけで、6キロ地点で「こんなランニングする人とかあほだ(※あくまでも個人的な見解です←よくあるテロップ)もう私は二度と走らない決して走らない」と思ったのもつかの間、走り終わったら「まあまたこれ続けていってもいいかもなそのうちハーフくらいなら挑戦してみてもいいんじゃないかな」とか思っている私はほんとうにあほなのだと思う。(※あくまでも以下略)

しかし、そういえばあれは上の子を生むときの陣痛の最中、「こんな痛いとかまじできいてないこんなんみんなやってきたとかどう考えてもおかしい正気の沙汰じゃないっていうかこれで二人目生もうと思うのとかほんとうにあほだどうかしている(※あくまでも以下略)」と、思ったくせに、生んでみたら「まあいいかもう一回くらいあっても」とか思ってしまう私はほんとうにあほだなと思ったけれどもそれと同じだな。いや、全然違うけど。

そういったわけで、人は忘れてゆくいきものですが、私はほんとうに昔から何もかもをほんとあっという間に忘れていく人でして(忘れ物もしょっちゅうでして)だから痛みもすぐに忘れてしまうらしく、だからきっとまた走るのだと思う。うん、あほだな。(もう断言)

そんなわけで、走り終わったらもう抜け殻のようになって足痛いわ眠いわだるいわでその後何も手につかなくなったけれど、でもまた走りたい、できれば10キロくらいはさらりと走れるようになりたい、と、思う。そんなさらりと走れるようになるとは到底思えないけれど。

1年後、10キロ走っただけでフルマラソン走ったみたいな顔してるよこの人、と、笑えるくらい、軽やかに走れるようになっていたい、なんかまたあほなんじゃないかと思いながらゼイゼイハアハア言ってそうな気もするけれど。

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